小幡重雄(おばたしげお)(農民歌人)

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 小幡重雄※は東金の生んだ農民歌人である。農民とはいっても、彼は、小作農の家に生まれ、大東亜戦争がおわるまでは小作人として生きつづけ、戦後ようやく自作農になり得たが、彼の残した短歌の特色は、小作時代の哀苦を詠んだものにあることは多くの人の一致した見かたであり、彼を小作農歌人と呼ぶのがふさわしいといえよう。小作のことを東金地方では「下作(したさく)」といっていた。下作すなわち小作は、自作農のように自分の土地は持たず、地主の土地を耕作するわけだから、独立性が持てず、地主に隷属するよりほかないあわれな存在である。小幡家は水田一町五反歩、畑六畝を耕していたが、水田はすべて小作であった。貧農として生きるよりほかなかったのである。小幡重雄の歌はそういう境遇から生み出されたものである。
 重雄は明治三六年(一九〇三)八月一九日、山武郡大和村山口(東金市山口)に、父新一、母いつの長男として生まれた。弟が二人あって、次男は金二郎、三男は清といった。
 明治四三年(一九一〇)四月、重雄は学齢に達したので、村の大和尋常小学校に入学し、やがて高等科へ進み、大正六年(一九一七)三月卒業した。小学校時代の彼は農民の子らしく二宮尊徳を尊敬する真面目な少年で、学校を代表して郡長の表彰を受けたほどのいわゆる模範少年だった。もちろん成績もよく学問への強い意欲もあったが、もちろんそれ以上の学校生活は望めなかった。卒業とともに父母と一緒に農業労働に打ち込まなければならなかった。そのころは内外とも多事であった。彼が卒業した一か月前の大正六年二月にはロシヤ革命がおこり、日本の社会主義者たちがこれを支持する集会を開いたりしたが、翌七年にかけて米価の暴騰がつづき、庶民生活はますます苦しくなり、八月には富山県に米騒動がおこり、それが各地に波及し、社会の雲ゆきは険悪の度を加えるばかりであった。重雄の若い胸はこういう空気の中で揺らぎながら、短歌創作の意欲を示しはじめるのである。彼が実際創作をし出したのは何時のことかはっきりしないが、やがて「中央新聞」に作品を投稿するようになった。その「中央新聞」に詩歌中心の文芸欄が新設されたのは大正一〇年(一九二一)であるから、彼の投稿もその頃のことであろう。つまり一八歳のころのことである。そして、歌人吉植庄亮との運命的なつながりがはじまるのである。
 吉植庄亮は人も知る千葉県の生んだすぐれた歌人であり政治家でもあったが、特に彼が重雄と同じ農人、といっても階級的にはずっと高い豪農で自作農であったことに注意しておかなければならない。庄亮は印旛郡本埜(もとの)村下井の生まれで、第一高等学校から東大法科を卒業した。父庄一郎は著名な政治家であったが、庄亮は詩人的性格であったため、この父と折合わず、東大を出た後もデカダン的な放浪生活をおくったりしていたが、大正九年(一九二〇)三六歳で結婚するとともに、ようやく生活態度にも落着きが出て、翌一〇年二月、「中央新聞」の文芸部長として入社したのである。そして、前述のとおり文芸欄を新設したのであった。そのことについて、庄亮門下の俊秀歌人として令名のある鈴木康文氏はその著「吉植庄亮」の中で、
 
 「(庄亮は)大正十年、中央新聞文芸部長として入社、詩歌中心の文芸欄を新設して、月々歌壇評を自から欠かさず執筆した。これは当時の新聞界としては実に破天荒の試みであって、詩歌愛好の読者を多数集めたのは意義深い事であった。」(一七頁)
 
とのべている。庄亮は一高在学時から短歌に親しみ、断続的ながらその創作をつづけていたが、この年四月処女歌集「寂光」を出版し、これが大きな反響をよんで、彼の歌人としての地位が固まることになるのである。そして、翌一一年庄亮は歌誌「橄欖(かんらん)」(第三次)を発行し主宰するようになり、重雄もこれに参加することになった。庄亮は若い重雄の歌を認め、その才能に期待するところがあったのである。なお、「橄欖」は庄亮が一高在学中に、柳沢健らと一高短歌会をつくってその機関誌として、明治四三年(一九一〇)発行したのだが、二号でつぶれ、大正八年(一九一九)に橋爪健らとともに再刊したけれども、これまた数号で廃刊されたのを復活したものである。因みに、「橄欖」の名は一高の校章から取ったものといわれる。
 
    

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 かくして、重雄は庄亮門下に加わり、その指導下に短歌にいそしむことになった。師庄亮はいつもあたたかい眼で重雄に対し、いわば愛(まな)弟子として面倒を見ていたようである。昭和二一年(一九四六)重雄がガリ版ずりで出したささやかな歌集「下作無常」の「とぢめがき」に
 
 「大正十一年恩師吉植庄亮先生は『橄欖』を発行された時から二十幾星霜、御手しほに掛けて私の民主的作品を育成して下さいました。土に働き土と生き土に養はれた私は、そして私の歌は、先生の御慈愛深き御指導をいただいて、極めて大きな張り合ひと、何物にも負けまいとする力のわくのを覚えました。果しなく遠く高く輝く短歌の道程の中に『下作無常』一巻の名乗りを上ぐるには、作品全部吉植先生の選を拝したもののみです。」(四八頁)
 
と書いているが、この敬虔な文言から察しても、仰慕の深さが察せられる。重雄がはじめて庄亮を印旛沼の開拓地にたずねたのは、大正一四年(一九二五)のことであったが、その後も何回か面談の機を得ている。
 
   膝よせて語らひ申すかしこさや先生は我に遠慮あらしめず
 
これは昭和七年(一九三二)の作であるが、師弟の睦みがしみじみと伝わってくるようだ。
 ところが、重雄は二三歳、大正一五年(一九二六)の秋、不意に大きな不運におそわれる。それは、父新一が急死したことだ。
 
 「大正十五年十一月四日、朝までは籾(もみ)運ばせし父の、急に病を起して黄泉(よみじ)の客となり給ひぬ。享年四十八歳。」
 
これは、「橄欖」昭和二年(一九二七)二月号に発表した「亡父」と題した連作一三首の詞書である。父の突然の死は重雄の運命を大きく動かすことになる。
 
  かぎろひの夕べはさびし父上が鍬を肩(かた)げて帰りし頃なり
  亡き父を思ひつつ来し菜畑(なばたけ)に窪(くぼ)みてあるは父のあしあと
 
「亡父」の中の歌だ。この深いかなしみとともに、「貧しさに生くるは辛(つら)し借金の言訳(いいわ)けをして呉れる父なき」という借金を背負わされる苦患が彼の肩にのしかかるのである。どの位の借金があったかは分からぬが、借金に追われるのは小作人の宿命である。その宿命にこれからはまともにぶつからなければならないのである。しかも、社会はますます不安の度を加え、経済不況は小作人の生活をますます重圧するようになってゆくのである。
 昭和三年(一九二八)三月二五歳を迎えることとなった重雄は山下むらと結婚した。むらは重雄より五歳年下であった。
 
  わが妻と思ひながらも和(にぎ)肩にわが手をただち触れかねてをり
  この宵は吾妹(わぎも)なりけり床のべてわが側(かたわら)に寝ねたるみれば
                  (「下作無常」結婚初夜)
 
こんなつつましやかな新婚であった。重雄の口からは愛のよろこびをかみしめる歌がつぎつぎと生まれ、「橄欖」紙上を賑わすようになる。そして、翌四年七月には長女幸(ゆき)子が、越えて七年(一九三二)一二月には次女佐和子が生まれた。家の中は一応幸福であったが、外の空気は冷酷無惨であった。というのは、昭和八年(一九三二)には大きな旱魃に見舞われたため、地主が警戒心を強めて、小作田一町五反歩のうち、四反歩を取り上げてしまったのである。翌九年にも旱害がつづいて、山武地方では二千町歩以上が植付け不能になって、自家用飯米の欠乏に泣く農家が六千戸を数えるにいたった。重雄の家ではそれまで桑畑を三反歩ほど借りて養蚕をやっていたが、翌一〇年にはその畑全部を地主に取り上げられてしまった。そのため、小幡家の窮乏はいよいよひどくならざるをえなくなった。だいたい、重雄が背負わされていた農作事情は、松永伍一氏の説示によれば、
 
 「米の単作地帯であるから、丘陵の裾に桑を植えて養蚕をやるのだが、繭(まゆ)の値の変動も大きく、どうしても主力を稲作に集中しなければならない。その水田はすべて小作地であるから、地主の機嫌とりも処世術以上の、いわば生死の鍵を握るものであった。」(「農民短歌試論」一七〇頁)
 
というごとき深刻なものであった。したがって、対地主の問題は重雄にとって生命にかかわるほどの重大性をもっていたのだ。しかし、隠忍にも限度がある。当然重雄の地主に対する感情も鋭くならざるをえず、社会を恨む心情もはげしくなって行った。
 
  田地主が吾を相手の示威口調(じいくちょう)手を揉(も)み聞きをり心泣きつつ
  金故に取られし畑の桑の芽の伸びる元気に憎悪(ぞうお)のわくも
  鍬振りてゐる間(ま)は憂きを忘るるに鍬振りやめずひねもす吾は
  田を取られ腹の底より寒き吾は義理も人情も思はざらむとす
                        (「下作無常」)
 
はげしい感情のうずまきである。温良で気の弱いところがある彼も、憤怒をたたきつけたくなってきたのである。といっても、誰も助けてくれるわけではない。結局、頼れるのは自分の労働力だけである。彼は日雇などにもどんどん出て、がむしゃらに働くよりほかはなかった。
 
  ひたむきに俵かがれば手の指のあかぎれの血を落す俵に
  生くべくは日待(ひまち)も働くこれの身の縁類同志にこけにされつつ
  宵越しの疲れに痛む足首の歩めば骨のゆるむ音しつ
  疲れては心幼し田の水に泡立たしめて尿(いばり)たれをり
                        (「下作無常」)
 
これらは労働の極限から歌い出されたナマの叫びである。技法などを越えた真実の詩である。「疲れては」の歌などは、やたらには生まれない、もっとも農人らしい絶唱といえよう。
 重雄には、労働至上主義の考えかたがあった。それは農民らしい農民には共通したものであろうが、重雄にはそれが信念としてゆるぎがたく存していたごとく思われる。たとえば、
 
  はたらきて血ののぼりたる腕(かいな)より雫(しずく)するなり銀(しろがね)なす汗
                 (「橄欖」昭和八・五号・念力)
 
の歌などは、労働讃美の彼の精神をよく象徴しているが、それには、その師吉植庄亮の影響もあったようだ。右の歌の詞書に、重雄は、
 
  「なやみぬくわが生存ながらも、奮起の心を促しやまぬものは田作りとしてあまりにも有名な師の在(いま)すことだ。さうだ、働くことのみがわが生命だったのだ。」
 
 
と書き、また、「肥籠(こえかご)をかつがすみれば大き師も野良仕(のらし)せはしくはげみますらし」(「橄欖」昭和八・九号・老母)という歌も作って、田作り庄亮への傾倒のほどを示している。
 
    

3


 さて、重雄にはもう一つ、不幸が押し重なった。それは、妻むらが病臥の身となり、やがて彼を残して死んでしまったことである。むらは、気心はおとなしくやさしく、その点重雄にも気に入っていたのであるが、どうも病身であったらしい。
 
  幸(さいわい)の乏しき相と言はれをる病み妻の掌(て)をさびしみさする
  因縁の病難を示してゐるといふ汝(な)が耳たぶの乏しきを見つ
                    (「下作無常」病妻衰弱)
 
こんな歌を見ると、幸(さち)うすい運命に生まれきた女のような感じがする。しかも、小作農の妻となった以上、重労働は避けがたい。彼女は嫁いできてからも、たびたび病臥し、時には実家で養生したりして、重雄を独居させることが多かった。病身の彼女には、育児と農事との二重労働は堪えがたかったのであろう。「過労より出でたる病と医師の宣(の)る汝(なれ)のうめきの門まできこゆ」(同)という歌がその消息を伝えている。
 むらは昭和一〇年(一九三五)には病気がかなり悪くなっていたようだ。
 
  死に近き汝(なれ)はも病訴へて夫(つま)わが頸(くび)に抱きつくものを
  頸細く瘠(や)せしものかも血の気なき汝の寝顔はみ仏に見ゆ
                     (「小作の掌」病妻嘆)
 
この歌を文字どおりに取ると、その時すでにむらの命は危かったように思われる。が、その後持ちなおしたらしく、一一、一二両年はどうやら無事に過ぎたけれども、一三年(一九三八)になると、ふたたび悪化し、六月ついに千葉医大附属病院に入院することになって、翌一四年四月とうとう帰らぬ人となってしまった。行事三一歳であった。
 二人の子どもを残された重雄は途方にくれたことであろう。亡妻への思慕は断ちがたかったであろうが、結局、再婚にふみ切らざるをえなかった。翌一五年二月、田中村の中村みつが再婚の相手であった。みつは大正一二年(一九二三)に生まれ、まだ数え年一八歳の若さであった。この再婚には亡妻むらの実家の人たちが骨折ったということである。みつは嫁いだ翌年昭和一六年(一九四一)三月に隆子(三女)を、同二〇年(一九四五)二月に節子(四女)を生んでいる。これで、重雄は四人の子持ちとなった。みな女である。
 ところで、大東亜戦争中の重雄は応召もせず田作りにはげんでいたが、歌を通して見るかぎり、戦争に対しては、批判的な気持など持っていなかった。実弟の出征についても、
 
  大みいくさに召され喜ぶ弟をしんよりうれしみ吾が酔ひにけり
            (「橄欖」昭和一三・一〇号、実弟出征)
 
と、素直なよろこびをあらわしているし、また、
 
  名もあらぬ田小作ながらみ民われ米穫(と)るみちにいのちをかけつる(「橄欖」昭和一三・四号、むらぎも)
 
と、み民われの感動を人並みに歌っていた。これは、小作人らしからぬ妥協だという人があるかもしれないが、彼の民族性は階級意識よりも自然な本具的なものだったことを語っていることになろう。
 
    

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 やがて終戦を迎えると、重雄の社会的地位にも大きな変化が生じた。農地改革が実施されると、彼は長い間の小作身分から解放されて、土地持ちの自作農に浮上し、世間の彼を見る眼もちがって来たし、彼自身の意識も革命的になって来た。そして、昭和二四年(一九四六)には、大和村の農業委員の選挙に立候補して当選し、農村改革の中心的存在となり、拍手をあびるにいたった。同二六年には農業委員に再選され、二八年(一九五三)には山口区の区長になった。
 これより前、終戦直後の二一年には、母いつが死亡しているが、重雄自身も長年の重労働の疲労が出て来たためか、三〇年(一九五五)に入ると、肝臓の工合が悪くなり、一時は重態におちいり、死線をさまよう状態にまでなったけれども、幸いにして小康を得、その後、一〇年ほどは自宅療養をつづけていた。
 昭和四〇年(一九六五)八月、六二歳を迎えた重雄に大きなプレゼントがあった。それは、能勢剛・鈴木勝両氏ほか多くの有志の支援によって、雄蛇ケ池畔に彼の歌碑が建立されたことである。刻まれた歌は、歌人窪田章一郎氏が選定し揮毫した左の作である。
  十五時間田打ちをはげみ帰る娘(こ)の笠をはづして肩のやさしさ
労働至上の重雄の信念に裏づけられ、しかも、やさしくみずみずしい情感があふれ、近代性のある歌である。彼の代表作とするに足るものであろう。この時、幸いにも彼は体力を恢復していて、雄蛇ケ池畔まで歩をはこび、建碑式に列席することができた。彼にとって、これが最後のはなやかな、栄光ある舞台になった。
 それから七年後、昭和四七年(一九七二)七月二〇日、肝臓の悪化しているところへ、脳溢血を併発して、六九歳の生涯を閉じたのである。
 重雄の本質は素朴で実直な農民気質の人であったといわれよう。しかし、その感情はデリケートであり、ナイーヴでもあり、女性的といってよいところがあった。それが時にははげしく燃え立つことがあっても、やがては諦観にしずみ静穏に立ちかえるという性格であったようだ。しかし、不幸な境遇によって鍛えられた自制心も強かった。彼に接した人たちは、彼が礼儀正しく、おだやかな笑顔で丁寧な物腰であったことを語っているが、それが小作人のコンプレックスにもとづくものであったとしても、農民的な善人性から発していたものといってよかろう。もし彼が自作農であったなら、模範的な篤農家になっていたであろう。
 重雄の短歌は、窪田章一郎・前田透・渡辺順三の諸氏によって推賞され、松永伍一氏のごときは本格的な研究を進めて、重雄の歌人的地位を論定している。松永氏は結論として、
 
 「日本の稀有(けう)の農民歌人でありながら、しかもその特異なリアリズムを体得したまま、自己の内外の不幸と危機とに対面して、より深層から生(なま)のテーマを描き出すことを放棄したことは、何としても惜しまれてよい。」(「農民短歌試論」一七九頁)
 
とのべているが、これは現代歌壇からの知的批判として、うなずけるものであろう。
 重雄短歌は農村をうたったものであるから、田園調をもっていることはたしかだが、牧歌調にはほど遠い感じのものである。基調は生活調というべきものだ。その生活の核は「貧」である。貧をリアルに歌ったのが彼の短歌である。歌論家が「貧のリアリティ」というのは正しい。それが山武農村の小作家族の日常生活に根づいているものだから、「土着のリリシズム」と呼ばれるのも妥当である。しかも、それはまさに「生まれ出たもの」なのだ。もちろん、石川啄木・伊藤左千夫・長塚節・吉植庄亮、さかのぼれば万葉によって作られた短歌土壌が栄養となっていたことは考えなければならないが、重雄短歌は自然発生性が強いし、そこに基本的意義があると思われる。吉植庄亮が「歌は生れるもの」と位置づけた、その歌の本来性が重雄短歌にはある。庄亮は農民とはいっても市民性も多分に持っていた。が、重雄は小作人という最下層農民で市民性にとぼしく、労働によってのみ生きなければならぬ純農民である。万葉は読んでいたようだが、文学的教養も至って低い。歌人とはいっても、歌を作る力は弱く、生み出すよりほかなかった。しかし、それこそ彼のもっとも強い力源であった。それは庄亮の持ち得ないものであった。庄亮が重雄を愛護したのは、そのためである。重雄の歌は幼稚でたどたどしい。しかし、底から迫るものがある。
 重雄はたしかに典型的小作人であった。けれども、小作人という階級視点からばかり彼の短歌を見ようとすべきではなかろう。また、前衛短歌という歌壇的視座から眺めてばかりいたら、重雄の姿を見失うのではなかろうか。彼は終戦直後、渡辺順三らの「人民短歌」に参加しながら、間もなく脱退している。これによって、彼はその無智や退嬰を笑われたが、彼は本来前衛短歌的世界とは別の場所に住んでいた人間なのである。
 重雄短歌をよんで気のつくことは、彼が人間愛に富んだ人情家であることだ。父母にはいたって孝行であり、弟思いであり、妻を溺愛し、子や孫へはかぎりない愛をそそいでいる。彼の短歌は家族短歌といってもいいくらいだ。世間には彼を目して、家族社会から脱け出せない人間だという人もある。たしかに彼には古風さがある。庄亮に対する態度にもそれが見える。それが彼の社会意識を未成熟ならしめた素因の一つにはちがいない。しかし、彼の人間愛こそはもっとも尊重すべきものではないだろうか。そこに歌の水源があったと見てもよいだろう。その人間愛が彼を前衛歌人たらしめなかったとしても、それが彼の不名誉であるとはいえないであろう。
 ※小幡重雄の姓「小幡」は戸籍面では「小旛」となっている。しかし、重雄自身は歌を発表する時は「小幡」と表記している。したがって、ここでは「小幡」を用いることにした。

小幡重雄


小幡重雄歌碑(雄蛇ヶ池)