桑田春風(しゅんぷう)(詩人・著述家)

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 中高年の人たちなら、小学校の時に習った「虫の楽隊(がくたい)」(「少年唱歌」所載)というメロディアスな唱歌をおぼえているであろう。
 「千草、八千草みだれ咲きて」という優雅なことばではじまって、にぎやかな「ちんちろりん、……すいっちょ」という擬声語で歌われる、心おどるような調べである。この作詞者が桑田春風なのである。これは今から八二年前の明治三六年(一九〇三)に発表されたもので、著名な音楽家田村虎蔵に作曲されて広く愛唱されたのである。
 春風はこの歌を発表する前の年すなわち明治三五年に「二宮尊徳」(「幼年唱歌」所載)という作を発表し、同じく田村虎蔵が作曲して小学校の子どもたちに歌われていたが、それは「勤倹力行(りょくこう) 農理をさとり」などというちょっと堅い漢語を使っていたので親しみにくいところがあった。しかし、「虫の楽隊」はやわらかな雅語を用い、「鈴虫」「まつ虫」などとわかりやすい名詞をならべ、その上、心がはずむような擬声語をふんだんに使って、子どもたちの心をたくみにキャッチしているので、たいへん親しまれたのであった。この歌が出来てから七年すぎた明治四三年に文部省唱歌「虫のこえ」が作られた。これはもちろん春風の作ではない。「あれ松虫が鳴いてゐる」ではじまりさかんに擬声語を用いて、言葉づかいが更にやさしいので歌いやすく、これも「虫の楽隊」同様広くうたわれたものである。比べてみると、「虫の楽隊」のほうは古めかしいことばを使っているので、とっつきにくいところがあるようだが、歌の価値からいえばやはりすぐれている。それについて音楽家の団伊玖磨氏が「(「虫の楽隊」は)メロディが美しく、ちんちろりんすいっちょなどの虫の声の部分の作曲が巧みでえらくモダンな感じもして、もうひとつの文部省唱歌(「虫のこえ」)にくらべてはるかによい。文部省唱歌の方は、唯虫の名前と声が続いて、二番とも最後にああ面白い虫のこえで終ってしまう無内容さである。」(「好きな歌・嫌いな歌」)と評しているが、「虫のこえ」のほうは、軽やかであるとはいえ、たしかに「無内容」であるのに対して、「虫の楽隊」は味わいが深く心にしみるところがある。それは作曲のいいせいもあるが、作詞がすぐれているからにちがいない。
 ついでながら、「二宮尊徳」についてふれておくと、この歌がつくられてから九年後の明治四四年(一九一一)に作られたのが、文部省唱歌の「二宮金次郎」である。これも中高年の人たちなら知らない人はない「柴刈り縄なひ……手本は二宮金次郎」という文句の歌であるが、内容は春風の「二宮尊徳」をずっとやさしく作り直したものという感じだが、曲がいかにも覚えやすく出来ていたせいか、はるかにポピュラリティに富んだ、国民歌謡的なものになったのである。そのため、「二宮尊徳」のほうは、残念ながらすっかりしぼんでしまった形である。
 しかし、春風ののこした唱歌「虫の楽隊」は不朽の価値をもつものである。彼の名もこの作によって不朽である。
 
    

2


 桑田春風は東金市菱沼の人である。生まれたのは明治一〇年(一八七七)三月二五日で、本名を正作といったが、後に正と改めた。父は弘毅、母は寿(すず)子である。父弘毅は村の学務委員をつとめたりなどした有名人で、豪放な性格の人だったらしい。大正七年(一九一八)七月三日七三歳で没している。母寿子は海上郡船木村の高西家から嫁いできた人であるが、性格等は分からない。昭和四年(一九二九)四月一〇日、七七歳で死去した。春風はこの父母の長男であったが、弟が二人、妹(姉だともいわれている)が一人あった。上の弟つまり二男は敬義といい、明治一八年(一八八五)に生まれ、母の実家を継いで高西を姓とした。一時水戸市に住んだが、この人はなかなかの秀才で工学博士の学位を持ち、内務省に入って大阪土木出張所長となって大阪に転住し、後に京都大学教授となった。昭和五一年(一九七六)三月二五日九二歳の長寿で死去している。下の弟すなわち三男の誠は、明治二五年(一八九二)に生まれたが、同四〇年四月二七日、一六歳の若さで早世している。また、妹(または姉)はりんと言い他家へ嫁したが、くわしいことは不明である。
 桑田家は村を流れる十文字川のほとり、その頃あった薫陶小学校の隣りに位置し、老樹にかこまれた広い屋敷で、見事な茶園をもっていたところから、村人から茶畑(ちゃばたけ)と呼ばれていたそうである。
 春風は温良かつ聰明な生まれつきで、やがて前記の薫陶小学校に入学したが、学友には鈴木圓司とか石田山三郎らがあった。鈴木圓司は鈴木勝氏の厳父であるが、彼らは少青年期にかけてのよい友だちで、当時の社会的風潮であった自由民権の理想を求める気運に動かされて、弁論会や討論会をさかんに催したということである。春風は小学校を卒業すると県立千葉中学校(千葉高等学校)に入学した。それは、鈴木圓司の書いた「擬友人(友人ニ与フル書ニ擬ス)」という文章に、
 
 「君も亦尋常中学校に入りて将来に向つて大いに目的する所あらんとす。乃(すなわ)ち断然桑梓(そうし)を辞して早くも千葉へゆかれたり。」(「桑梓」とは郷里のこと)
 
と書かれてあるのでわかるのである。青雲の志に燃える春風のおもかげが髣髴(ほうふつ)する。彼は千葉中学校から、さらに早稲田大学の文学部に入学した。将来文学で立とうとする希望を抱いてのことであろう。その年代ははっきりしないが、おそらく明治二八年(一八九五)ごろではなかったかと考えられる。
 こうして東京へ出た春風は、当時代議士をしていた伊藤徳太郎の家で書生をつとめたと伝えられている。この伊藤徳太郎という人は山武郡大総村(横芝町)小堤の生まれで明治法律学校に学び、政界に打って出て県会議員となり、明治二五年(一八九二)三二歳の若さで衆議院議員に当選、それから数回選ばれたが同三八年(一九〇五)四五歳で没している。(「山武郡郷土誌」五四四頁による)春風がどうしてこの人の厄介になるようになったか、それはわからない。あるいは、父か母かの親戚というような関係があったのであろうか。
 春風が早稲田大学を卒業したのは何年だったか、これもはっきりしないが、明治三二、三年ごろと想像される。その間、ずっと伊藤方にいたかどうかも不明であるが、学業成績がよかったと見えて、卒業すると同学の講師をつとめている。これもいつまでその職にあり、またどういう講座を担当していたかも不詳である。
 
    

3


 さて、春風は早大在学当時から詩人としての才幹を発揮しはじめ、その作品が注目され出した。明治三二年(一八九九)二月発行の「帝国文学」(明治二八年発刊の文学雑誌。東京大学関係者の機関誌。)に発表された「早春の歌」が詩人間で評判になった。春風二二歳の時である。これは七五調の九連からなる新体詩で、
 
  ああ梅が香の匂ふとき
  ああ新草(にいくさ)のもゆるとき
  ながきみ冬の夢路より
  春の野面(のもせ)はさめにけり
   (この詩の全文は本巻「東金の文芸」篇の「東金の近代詩小史」の中に掲出してある。)
 
というぐあいの温雅で柔軟なうたい方のものである。
 ついで、同三四年(一九〇一)、与謝野鉄幹の経営する新詩社から発行された月刊詩集「片袖」の第二集には、鉄幹・横瀬夜雨・平木白星らの作とともに春風の詩も掲載された。こうして、詩壇にみとめられるようになった春風は、翌三五年(一九〇二)一二月「金言唱歌」と題する自己の詩集を刊行するにいたったのである。この本は現在稀覯(きこう)本になっているようで、鈴木勝氏もまだ見ていないといわれ、題名から判断すると、金言格言というものを主題としたもので、「二宮尊徳」などもその中に入っているのではないかといわれている。春風は以上のほかに、東京日日新聞紙上その他に詩の評論なども発表していた。そんなことから、彼が同新聞の記者をしていたのではないかともいわれているが、これも想像の域を出ないことである。なお、春風には「全言唱歌」のほか「雲情雨恨集」という詩集があって、明治四三年(一九一〇)に刊行されたらしいが、内容については今のところ不明である。
 春風とよく比較される詩人に平木白星がある。白星は春風より一年早く明治九年(一八七六)千葉県市原郡姉崎村(市原市姉崎)で生まれ、第一高等学校中退で郵便局に勤務し、詩人として有名になり、春風と雁行して詩作活動をした人である。両者はもちろん知りあっていたと思うが、どの位の親交があったかはわからない。白星は春風に比すると、かなり積極性があり、覇気があって、その活動もより活発で多角的であった。そして、与謝野鉄幹・前田林外・相馬御風(ぎょふう)らと関係をもちながらいろいろ新しい企画をやっては詩壇に刺激をあたえていた。彼には明治三六年(一九〇三)に出した「日本国歌」という詩集があるが、その特色は叙情詩より叙事詩にあり、民族とか国家とかの問題を取り上げて力強く歌い上げようとしていた。春風の抒情性とは対照的な詩風であった。白星は明星派の有力詩人として活躍したが、後にそこから離れ、やがて劇詩や戯曲の創作を試みるようになり、大正四年(一九一五)三九歳の若さで没したのであった。
 白星にくらべると、春風の詩人活動は短かった。その活動のピークは、明治三五、六年、二五、六歳のころ、つまり「二宮尊徳」「虫の楽隊」などの唱歌を出したころであって、日露戦争の時分には、詩壇から姿を消すようになってしまった。いわば、これからという時に、早くも詩筆を折ってしまったのである。
 
    

4


 詩壇を退いてから数年後、明治四二年(一九〇九)三二歳の時、春風は結婚した。妻となったのは、和歌山県生まれの赤羽トシエで、春風より六歳年下であった。結婚後は東京日暮里に住んでいた。それより二年前、春風は本名の正作を「正」と改めている。詩壇引退・改名・結婚と、三つの事件が重なっておこっている。それについて、鈴木勝氏は、
 
 「詩壇引退と改名と結婚とが矢次早やに次々と行われているのは、何か意味があるのではなかろうか。心境を左右した何ものかがあったのかも知れない。」(「桑田春風の生涯とその周辺」ふるさと詩人・所載)
 
といっておられるが、自己の運命の転換をはかろうとした心境の変化はあったのだろう。しかし、具体的に何を意図したかはわからない。
 ともかく、春風は詩壇からは離れることになったが、文筆活動は相変らず続けていたようである。それには、第一に生活問題がかかっていたのである。そのための仕事として、彼は書簡(手紙)文の研究と普及ということを考えたもののようである。それは、大正四、五年(一九一五-六)ごろのことと思われるが、春風は手紙雑誌社なるものを興して、手紙の雑誌を発行したようである。田波啓氏によると、「とくに自ら経営した『手紙雑誌』は実用のみならず、毎号著名古人の手紙の写真をのせ、味いの深い解説を加えて好評であった」(「東金文学散歩」)ということであるから、何号か発行して、評判を得ていたものと思われるが、その現物を見る機を得ていないのは残念である。なお、この手紙雑誌のことについて、日夏耿(こう)之介は
 
 「桑田春風は書簡文学の研究の方が本筋でその主幹した『手紙雑誌』は異色ある好雑誌であったが、長く続かなかった。」(「日本現代詩大系」第三巻・解説)
 
と書いている。「異色ある好雑誌」と評価されたほどの雑誌が長つづきしなかったのは、惜しんでもあまりあることだが、やはり特殊な雑誌だから多くの読者を獲得できなかったものであろう。
 春風は手紙の雑誌を発行するとともに、書簡(手紙)文に関する何冊かの著述を公けにしていた。それは「手紙自由自在」「婦人よろづの手紙」「美文紀行旅の書簡」「現代趣味の手紙」のごときものであるが、右のうち、はじめの二冊は手にする機会が得られなかったが、後の二冊は読むことが出来た。そこで、この二冊についてふれておこう。まず、「美文紀行旅の書簡」は、大正六年(一九一七)四月盛文館書店から発行されており、四六判三〇二頁の本である。この本の「自序」(「大正六年初春、手紙雑誌社にて、哲秀逸人」という署名である。「哲秀逸人」は春風の雅号である。)には、
 
 「この書、題して『旅の書簡』といふ。之れを約すれば、所謂(いわゆる)旅信の集也。千山万水、春夏秋冬、家郷をよその旅にありて、随処に之れが見聞を叙し、随時に之れが感懐を抒(の)べて、遙かにその家族親朋に寄せたる手紙を収む。而して、その多くは、現代-明治大正-に於ける名家鉅匠(きょしょう)の手に成れるものを採れり。」
 
と、この本の性格を説くとともに、さらに、
 
 「旅信の喜ぶべき所以は、その客観的記叙の精(くわ)しきにあらずして、寧ろ主観的情味の饒(おお)きにあり。されど、旅信は或る意味に於いて活(い)ける紀行、活(い)ける案内記といふも亦妨げず。是(この)故に、将(まさ)に旅立たんとする者、この書を携ふ。固より可也。既に旅に在る者この書を手にす更に可也。而して、旅を想うて旅に出でず、ひとへに旅の趣味と清福とを楽しまんとする者この書を読む、更に大いに可也。」
 
と、旅信の価値とそれを読むことの意義と楽しさを解いている。春風が書簡文研究に心を寄せるにいたった事情の一端を知ることもできよう。
 この本の内容は、春の旅から、夏の旅から、秋の旅から、冬の旅から、海外の旅から、の五章にわかれており、尾崎紅葉・幸田露伴・徳富蘇峰・国木田独歩・徳富芦花・大町桂月・高浜虚子・志賀矧(しん)川・坪谷水哉らの有名文人から、結城素明・三宅克己の画家、大塚楠緒子・本野久子・長谷川静子・白岩艶子らの女流、さらに中村歌右衛門・沢村源之助・市川八百蔵らの俳優にいたるまで、各方面の知名人の手紙が発信地の名所旧跡別に編集されているので、読者は旅中に身をおくような現実感をもって読む楽しさをおぼえるようなしくみになっている。
 次に「現代趣味の手紙」であるが、これは四六判三〇四頁の本であるが、筆者の見た本はあいにく奥書のところが抜けていて、発行所と発行の年時が不明である。はじめに、「趣味の書簡と書簡体小説」と題する編者の解説文(一二頁)が載せてあるが、その中で現代人が手紙を書こうとしなくなったのは、臆劫(おっくう)に考えすぎること、形式にとらわれすぎること、手紙を愛する気持が薄いことの三点をあげている。そのあとに、主としての作家の書簡文を実例として数十通あげ、小説作品なども取り入れて、面白く読めるように配慮されている。
 しかし、詩人春風が詩を捨てて書簡文学研究を志すにいたったことは、何ともさびしいことではあるが、しかし、彼は彼なりの努力をつづけていたことと思われる。
 
    

5


 若い頃、童謡詩人として名を成した春風は、児童教育には深い関心を寄せていた。子どもの幸福な成長を願う心は、童謡から離れた後も変わらなかった。そして、子どものためのよい読物を作ろうとする熱意は年とともに高まっていった。大正時代は児童の解放運動が盛んで、例の自由教育運動が嵐のごとく教育界を吹きまくり、「赤い鳥」の発行によって、児童文学・児童画等の創作活動は年とともに隆盛となり、児童の文化意欲の向上とともに、児童読物の刊行も活発になっていった。そのような機運に春風も乗る気をおこしたのである。これは彼にしては自然なことだったといえよう。大正七年(一九一八)六月、彼は自学奨励会から「登山物語」という児童読物を発行した。これは、四六判三〇四頁ほどの本で、校長先生が子どもたちに山登りの話をやさしくおもしろく聞かせるという形式で、談話調のわかりやすい言葉づかいをもって、山の美しさ、恐ろしさ、その成立ち、人間との関係などをいろいろと物語ふうに、映画でも見るようにバラエティに富んだ語りかたで、子どもの心を引きつけるような、たくみな叙述をしているのである。今読んでもさほど古さを感じさせないところがある。この本はかなり好評であったらしく、発行後一年目の大正八年七月には、第六版を出しているほどである。なお、この本は「家庭自学文庫」という双書(全部で約三〇冊)の一冊として出されたもので、春風以外の執筆者には、葛原しげる・松美佐雄・渡辺霞亭・高須梅渓・浜田広介等の人たちがあった。
 昭和期に入ると、春風は児童読物の刊行にさらに力を入れるようになった。そして、岡村書店から、「少年経済物語」「少年国民物語」「少年登山物語」「面白い体内見物」「少年宝さがし物語」「少年電気物語」などの本をつぎつぎに出版しているのである。これらは、いずれも菊判で二百数十頁のものであるが、基本的には「登山物語」の談話形式を踏襲しながら、おもしろくて、しかも智識的な読物になっているのである。春風は各巻の巻頭に、「児童の読物について保護者諸君へ」という文章をのせているが、それを読むと、つぎのようなことが書かれている―
 
 「近年、国民教育のますます盛んになるにつれて、童話やお伽噺の類が頻りに刊行せられ、学校の教本以外に、児童の心性を啓発し、情操を涵養する種々な読物の豊富になつたことは、洵(まこと)に慶(よろこ)びに堪へません。しかし、さういふ読物の豊富なだけに、それらの悉くが皆必ずしも健実有益な読物であるとは申されません。中には、余りにたわいのない、余りに夢幻的な、もしくは余りに感傷的な読物も少くないといふことが、夙(つと)に識者の憂ふるところとなつてゐるのであります。(中略)いはゆるお伽噺類の最も喜ばれるのは、せいぜい小学三、四年まで位のところであります。もう五年以上になると、到底(とうてい)夢のやうなお伽噺程度のものでは満足しなくなります。童話や物語などにしても、余程実際的な、智識的な、学術的な内容のものを要求し始めます。殊に尋常科を了(お)へて国民教育も一段落つくと、一層進んで上の学校に入る少年少女たちはともあれ、これから家事の手伝をしたり、専門の生業にいそしんだりせねばならぬ境遇にある児童たちに取つては、今まで学校で教へられたこと以上に、自分自分で研究して置かねばならぬことが沢山あります。さういふ境遇の児童たちの要求に応じた適当な好い読物はまだまだ案外に乏しくはないでせうか。さういふ程度の読物を提供することが、今日の急要なことの一つではないでせうか。
 私は茲(ここ)に敢へて自から揣(はか)らず、さういふ程度―詳しくいふと尋常五、六年から高等一、二年まで―の児童のために、要は人間一人前としての予備常識ともいふべき諸多の事柄を、なるべく読み易い童話風に取扱ひ、なるべく解り易く面白く、楽々(らくらく)と覚えられるやうな読物を提供しようといふ考へから、まづ手始めとして、かやうな拙い書物を五、六種綴り試みた次第であります。(後略)」
 
少し長い引用になったが、児童読物を刊行した春風の意図は、これによって明瞭であろう。要するに、尋常小学校の上学年(今の小学校五、六年)から高等小学校の一、二年(今の中学校一、二年)の子どもたちに対して、社会の「予備常識」をあたえんとするのが、彼のねらいであった。かつては、童謡によって児童の情操陶冶をはかった春風は、今度は正しい知識の普及を期して健全な少国民の育成を企図したことになる。
 桑田春風というと、「虫の楽隊」などの童謡詩人としてのみ知られている感じであるが、後年における右のごとき書簡文の研究や少年読物の刊行のことはほとんど知られていない。その社会的効果のほどは疑問であるとしても、彼のライフ・コースの上から考えると、相当の比重をもって評価してしかるべきではないかと思う。なお、春風は右にあげた著述以外に、諸種の編纂物を出版している。それは「修養格言全集」「中掌常盤津集」「馬琴文粋」というたぐいのもので、いずれも小型本である。
 さて、以上の著編書のほか、彼が別に何かの仕事をしていたかどうか、また、早大の講師をいつごろまでつづけていたかなどについては、明らかでない。
 ところで、春風は前述のようにトシエと結婚したのであるが、二人は世間からは気品のある似合いの夫婦と評されていたけれども、生活的には必ずしも幸福ではなかった。第一、彼ら夫婦には子が生まれなかった。そこで、春風の実弟たる高西敬義(前述)の次男敬二郎を養子にもらいうけることにした。敬二郎は大正二年(一九一三)一月の生まれで、養子に入ったのは七歳の時だったという。だから、大正八年(一九一九)のことと思われる。
 春風の郷里菱沼には、母の寿子が一人で暮らしていた。気丈な彼女は近隣の娘たちに裁縫を教えていたということだが、嘉永六年(一八五三)生まれの彼女もすでに老齢である。春風としては郷里へ帰って孝養をつくしたいとは考えるが、生活の都合もあり、それに敬二郎の教育問題もあって、なかなかそれが出来ずにいた。昭和を迎えると、寿子もすでに七三歳である。だいぶ身体も弱ってきている。そこで、春風夫妻は思い切って帰郷することにした。それは昭和二年(一九二七)のことで、敬二郎は中学校の二年であったが、彼をも伴って日暮里を引上げ、敬二郎は成東中学校に転校させることにしたのである。この郷里帰還の年時について、鈴木勝氏は春風の友人らの証言を参考にして、昭和二年と断定しておられる。(「桑田春風の生涯とその周辺」参照)老母寿子は春風らが帰郷した翌々年の昭和四年(一九二九)四月一〇日に息を引取っている。
 
    

6


 帰郷後の春風の生活はどうだったか。文筆の仕事はなおつづけていて、東京と菱沼との間を往復していたということだ。また、各地の学校から校歌の作詞を頼まれて、かなり多くの作を残しているといわれる。その中の一つ、東京台東区西松小学校の校歌は当時東京の視学をしていた田村虎蔵の依頼を受けて作ったもので、「虫の楽隊」以来の名コンビの復活というところであった。春風は昔から短歌にも関心があり、その創作もやっていて、いつごろかはっきりしないが、朝日新聞の募集短歌に応募して一等に当選して金時計を受賞したことがあった。帰郷後の春風はその短歌に興味をおぼえ、かなり多くの作をのこしている。それらは、敬二郎が後に整理して、「春風和歌遺作集」と題し、稿本として残されている。
 その敬二郎は昭和五年(一九三〇)成東中学校を卒業すると、昭和医科大学へ進学し、将来は医師として立つことになっていた。春風に取ってもうれしいことであったにちがいない。しかし、彼の晩年には何かさびしい影がまつわっていたような気がするのである。それは彼が文人として比較的不遇であったと思うためかもしれないが、鈴木勝氏の次のような文章をよむと心打たれるのである。
 「母寿子の亡くなった昭和四年四月十日以降ずっと郷里に住んでいたと近隣の人は語っている。(中略)晩年はささやかな家に独り住んで、鍬田佐一という人がよく世話していたとも近隣は語っている。(中略)春風の晩年は淋しいものであったようだ。文筆を楽しむということより、飄々たる生活に人生を托したというような姿ではなかったろうか。村人との交際の中では変人とか奇人とかいうように映ったらしい。」(同)
晩年は病気がちで、高血圧になやまされ、東金の田波病院や吉橋病院にたびたび通っていたという話(田波啓氏「東金文学散歩」)は伝わっているが、右の文中に「独り住んで」とあるのがどうも気になるのである。彼の妻トシエは健在だったのだから、春風が独り住いをするはずはないと思うがどうしたのだろうか。トシエは文才のある女性で「農村婦人の歌」などという詩を作って、ちょっとジャーナジズムに名を出したこともあるといわれるし、夫婦同趣味で亀裂があったとは思えない。それとも、敬二郎が昭和医大に入った関係で、トシエは敬二郎とともに東京生活をしていたのであろうか。その間の事情はわからない。
 こんな状況の中で、昭和一〇年(一九三五)五月四日、春風は肺炎のため菱沼で永眠した。享年五九歳。戒名は好学院文秀日正信士。菱沼の法華寺に葬られた。
 春風は嗣子敬二郎の大成を見ずに世を去ったわけで、さぞ心残りのことだったろう。敬二郎は昭和医大を卒業し、医学博士の学位をとり、昭和一三年(一九三八)東京世田谷で開業している。未亡人トシエは、春風死後二八年間生き永らえて、昭和三八年(一九六三)一一月一〇日逝去している。敬二郎は病院経営に手腕をふるい、相当の成果をあげていたが、昭和四六年(一九七一)一月一九日、世を去った。行年は奇しくも春風と同じ五九歳であった。実父敬義より五年早い死であった。
 敬二郎は夫人豊子(長生郡長柄町の人)との間に三人の男児をもうけた。長男浩樹(ひろき)は父の後を継ぐべく医大を出てインターンの資格を取り、これからという時、三六歳の若さで昭和五〇年(一九七五)四月一四日、惜しくも急逝した。二男雅之は四歳で夭折し、三男雅夫は銀行勤務のかたわら、絵画の勉強に従っている。敬二郎夫人豊子も東京都世田谷区北沢二-一二-二に健在である。

桑田春風

参考資料
 
 (一)
    虫の楽隊(がくたい)
                     桑田春風 作詞
                     田村虎蔵 作曲
     一
  千草 八千草 乱れ咲きて
   花を褥(しとね)の夢おもしろと
    おのづからなる虫の声々(こえごえ)
   ちんちろりん ちんちろりん
   すいつちよ すいつちよ
   がしやがしや がしやがしや
   がしやがしや がしやがしや
  月ある夜半(よわ)は
   秋の野面(のもせ)の楽隊をかし
     二
  鈴虫 松虫 くつわ虫や
   蟀螂(こおろぎ) 馬追(うまおい) 鐘つき虫の
    節もさまざま 歌に囃子(はやし)に
  ちんちろりん ちんちろりん
  すいつちよ すいつちよ
  がしやがしや がしやがしや
  がしやがしや がしやがしや
 風なき夜半(よわ)は
  秋の野面(のもせ)の楽隊をかし
             (「少年唱歌(初)」明治三六・四刊)
 
 (二)
    二宮尊徳
                       桑田春風 作詞
                       田村虎蔵 作曲
     一
  朝(あした)に起きて 山に柴刈り
  草鞋(わらじ)作りて 夜(よ)は更(ふ)くるまで
  路行く暇(ひま)も 書(ふみ)を放たず
  あはれ いぢらし この子 誰(た)が子ぞ
     二
  勤倹力行(きんけんりょくこう) 農理(のうり)をさとり
  世に報徳(ほうとく)の 教をつたへ
  荒地拓(あれちひら)きて 民を救ひし
  功績(いさお)のあとぞ 二宮神社
            (「幼年唱歌(四ノ下)」明治二五・九刊)
 
 (三)   春風短歌抄
  友禅の紅の萌黄(もえぎ)のむらさきの袖うちはへて春の人ゆく
  わが庭の女王の如く咲きほこる緋いろダリヤの大き八重花(やえばな)
  露草の花をうれしみ朝ゆけば色ある露に裳(も)の裾ぬれぬ
  風呂水を汲みこみをへて畑にゆき雨にぬれつつトマトを摘(つ)むも
  歌ひつれ呼びつれ帰る里の子が声のみはして狭霧(さぎり)の中に
  わりなしや世はただ露の朝にして萩ものいはず芙蓉(ふよう)語らず
  白萩の咲きてこぼるる庭の隅にほの紅(くれない)の秋海棠(しゅうかいどう)の花
  秋高し背戸に鵙(もづ)啼く柿紅葉(もみじ)夕日まばゆき丘の上の家
  枯葉みなふるひ落して槻(つき)の木の梢(こずえ)の小枝月に透き見ゆ
                     (「春風和歌遺作集」)