前島木端は、東金市新宿一〇二〇番地現当主前島靖英家の先祖であり、茶竹と呼ばれていた前島家の分家である。分家したのは、寛保延享の頃(一七四一-一七四七)の頃ではないかと思われる。
今、本家の前島家(当主進氏)は八王子に居をうつして東金市にはいない。
この茶竹という家は、武田信玄を祖とするといわれている。その家系は、左図のようになっている。
木端の伝記については、詳細なことはほとんど分からない。前島家所蔵の初代の位牌には、
実成院法受信士
法受院妙成信女
と刻され、裏に
実 文化十二年(一八一五)乙亥七月七日
と記されている。この実成院が木端であり、法受院は彼の妻であると思われる。なお、本漸寺にある木端の墓には、右の二人の戒名が正面に刻まれ、その左側には
実 文化十二(一八一五)亥七月七日
画工 木端 前島松助
新宿町竹屋
と書かれ、左側には「天保二卯六月立」とあり、裏面には「昭和十一年八月 第七代前島成再建」と記されている。これによって、木端が画工であり、名を前島松助といい、家は新宿の竹屋という屋号であったことが分かるのである。なお、前島成氏は県立成東高等学校の教員を長く勤め、県立鶴舞高等学校長となった人で、先年物故した。氏は木端の七代目の子孫であったのである。
さて、右の文化一二年七月七日というのは、おそらく木端逝去の年時であろうと思われるが、ここには行年が記されていない。これでは彼の生年も判断できないことになる。
ただ木端の画いた象の絵(東金市片岡栄一氏所蔵)(①)に数々のメモがあるが、その端に、「七歳 三〇」「享保十三歳戊申六月十九日十善寺唐人屋舗」の文字が見える。
これを、七歳の平三〇という人が享保十三年(一七二八)に画いたものと解すれば、木端は享保六年(一七二一)に生まれ、幼名を平三〇といったことになろう。
明和八年(一七七一)十月、中国の南画家として知られている仇英の童児の絵を模写した木端の絵がある。②そこには「兀々堂木端写」と書かれている。木端は「兀々堂」とも号した。
「兀々」は「こつこつ」と読む。韓愈の進学解に、「恒兀兀以窮」とあるが、「一心に勉めるさま」をいう言葉であり、木端がこれを号としたのは、その性格を想像させるに十分であろう。
前島家に所蔵されている掛軸の仏画は、③安永九年(一七八〇)の作である。前島家では木端の絵として伝えられており、お盆には曼陀羅と共に仏前に飾って祖先を偲んでいるようであるが、木端の署名はなく
前嶋楊皓画之□□
と書かれている。落款の文字は次の通りであり、木端と刻されているように思う。そうなると「楊皓」とは木端の名前であろう。
文化三丙寅年(一八〇六)正月兀々堂木端は、「大黒」の、神を描いている。④これは、新宿の五十瀬神社に恵比寿神と共に掲げられているが、「恵比寿様」には
の印がおされて別人の画と考えられる。五十瀬神社は前島家とは一〇〇メートル位しか離れていない新宿の産土神である。前島家の門に立てば、五十瀬神社の鳥居は眼前にあったからここに大黒神の絵を奉納したのであろうか。
文化十二年(一八一五)乙亥七月七日、木端は此の世を去った。謚して「実成院法受信士」といい、妻女には「法受院妙成信女」と謚されている。
墓地は、本漸寺塋域にある。
もし、前記の生年が想像通りであるとすれば、九十四歳の長寿であったことになろう。
以下、木端の絵をかかげる。
①は、象の絵というかスケッチである。
この象の周辺に、
牡象 七歳 五歳共
高五尺七寸 長一丈二尺
無量寿ノヨシ
百歳前後 □□象
ジヤワ人乗リ銀ノ熊手ヲ以テ遺フ
尤打込ツカフ
食物ハ芭蕉葉ノ茎
栗尤草ノ内ニ好草
鼻ニテ虎ヲ巻取リ
何レモ食時、鼻ニテ廻喰
享保十三歳戊申六月十九日
十善寺唐人屋舗
と書かれている。象のスケッチはその重量感、皮膚のしわの向き、体毛の流れなど実に細かに画かれているが、これが七歳の作と考えると、幼少より描写の素質を持っており、感受性も強く、マメに筆を動かす性格であったと考えられる。
②は童子の絵である。
これは前述の通り、明和八年辛卯十月日の作で、中国の仇英の筆を模写したものである。50歳の時か。
仇英は、明の画家で、十六世紀前半の人。人物は徴明・仇英・陳洪綬」と言われる程の職業画家である。
③は前島家所蔵の仏画である。安永九年(一七八〇)というから五十九歳の時の作か。
④は五十瀬神社社殿に掲げられている「大黒様」を画いたものである。
これは木端八十五歳の時の作品である。
後述の通り、嶋木端之印とよみとれる印があり、これは前述の前島家所蔵の仏画の印と同じといえる。並んで掲げられている「恵比寿」神には「a如線」の印があり、「大黒」神には文化三丙寅年正月吉日兀々堂木端試筆bcとかかれている。なお、年号の頭にdの印も見える。