飯田林斎(りんさい)(画家)

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 林斎は東金の生んだ画家である。彼は福俵出身の安川柳渓(別項参照)と親友であり、柳渓と同様、高久靄厓(たかひさあいがい)の門人であった。
 林斎は文政四年(一八二一)東金の岩崎に生まれた。実はこの生年は推定である。その根拠は、文久二年(一八六二)の「上宿町宗門人別帳」(東金市飯田久衛氏所蔵)に、「四十二歳」と記されているので、逆算して文政四年と判断したのである。なお、志賀吾郷の「東金町誌」には、天保九年(一八三八)一四歳の林斎と一九歳の柳渓が靄厓に入門したように書いてある(二〇四頁)が、柳渓は文政二年(一八一九)の生まれなので、二人は二歳ちがいであり、林斎は天保九年には一八歳であったことになる。林斎は名を直忠、通称を芳次郎といった。(「東金町誌」に「芳一郎」とあるのはまちがいである。)飯田家は酒造業をいとなみ、素封家として知られていたが、林斎の父は同家一二代の総右衛門直俊、母はうらといった。総右衛門は寛政三年(一七九一)に生まれ、万延元年(一八六〇)七〇歳で死去しているが、林斎が生まれた年は三一歳であった。総右衛門は俳句の才に恵まれ、雨兮(うけい)と号して下河原雨塘(うとう)(加舎白雄の門下、下総蘇我野の人)に師事していた。だいたい、飯田家は代々俳人を生んでいるが、林斎の祖父(一一代)の弥五兵衛は林鳥と号して、その父(林斎の曽祖父)雨林から俳句を学んだ。雨林は名を総右衛門(一〇代)といい、白井鳥酔の門人であった。こういう風に、飯田家には文人的血筋が流れていたのである。広い意味では芸術的血統を享けていたといえよう。ただ、林斎が俳句に親しんだかどうか、伝承がないのでわからない。
 林斎も少年時代には、それ相応の学問はしたことと思われる。後年画家として名を得ただけに、その面の才能は発揮していたであろう。しかし、おそらく、特定の師につくこともなかったであろうが、やがてチャンスはやって来た。天保九年(一八三八)江戸の著名な画家高久靄厓(たかひさあいがい)が飯田家をおとずれ、そのまましばらく居候をしていた。その年一八歳だった林斎は、元来絵事に親しんでいたので、靄厓に師事することにしたのである。靄厓が飯田家をたずねて来た動機については、彼の知人であった幕府の与力松浦嘉右衛門という人物が、東金へ行くなら飯田惣右衛門の家をたずねて見なさいとアドバイスしてくれたのでやってきたといわれている。当時、学者や芸術家が地方の有福で理解のある豪家をたよって来るのは普通のことだった。靄厓は飯田家のほか、大富村の大高家とか横芝村の斎藤家とかを転々とたずねては居候生活を六年くらいつづけていたといわれるが、林斎はその靄厓のあとを追うようにして絵業を習ったのである。靄厓は南宗画(略して南画という)系の画家で、谷文晁の門人であった。下野国の生まれで、家は江戸日本橋にあったが、放浪性の人で酒豪でもあったので、東金地方流寓中も、いろいろ迷惑もかけ話題も残していったようである。
 
    

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 林斎の絵事がどのような成果をおさめたものか、徴すべき資料のないのが残念である。ただ、人呼んで「東金靄厓」と称したというから師の画風を相当マスターしていたことは事実だと考えられる。その他、林斎の生涯については、殆んど不明である。だが、ここに彼のほのかな消息と没年を伝える資料がある。それは、明治初年、東金郷校(明倫堂といい、明治二年東金町有志の要請によって作られ、宮谷県庁が支援した郷学である)の教授をしていた鶴岡安宅(あたか)(市原市久保の生まれ。別項参照)の日記「松陰山房日記」の巻三「東金郷校記」の記事である。安宅は明治二年(一八六九)九月一三日東金に赴任したのであるが、一〇月一二日、安宅は林斎を訪ねている。
 
 「(十月)十二日、晴。稗田氏ニ赴ク。遂ニ飯田林斎ヲ訪フ。林斎ハ頗ル画ヲ善クスル者ナリ。又水野茂右衛(門)ヲ訪フ。夜還ル。」(原漢文)
 
稗田氏は勘左衛門である。この人は安宅を東金へ迎えるのに骨を折った人である。安宅は林斎を「頗ル画ヲ善クスル者ナリ」と書いており、評判を聞いて訪ねたのであろう。林斎の名声が高かったことがわかる。水野茂右衛門は有名な東金茂右衛門(別項参照)の子孫である。
 さて、翌一三日の条を見ると、「遂ニ林斎ヲ招キ宴ヲ挙グ」とある。一見旧知のごとき親しみを覚えて、安宅のほうから林斎を招いて一しょに飲んだのである。さらに日記を追うと、二三日に「飯田林斎ヲ訪フ」とあり、二五日には「林斎亦来ル」とある。それからしばらくの間は、林斎の名が出て来ないが、一二月三日になって、突然
 
 「三日、是(こ)ノ日、飯田林斎疫ヲ患(わずら)ヒテ没ス。」
 
という記事が出てくるのである。これ切りで、葬儀のことなども出てこないし、林斎の名も消えてしまっている。何かあっけないが、右の記事で、林斎が明治二年一二月三日に長逝したことが判明する。(ただし、本漸寺の墓碑には「十月二日」とある。これは旧暦によるものと思われる。)前述のように、林斎が文政四年(一八二一)に生まれたものとすると、数え年四九歳でなくなったことになる。ともかく安宅が書き留めておいてくれたおかげで、林斎の没年だけは分かったのである。しかし、人となりや、生活の状況が知れないのは、まことに残念である。
 林斎の墓碑は本漸寺に建てられているが、碑面の中央には「林斎正隆日朗居士」とあり、これが林斎の戒名である。その向かって右側に「珠月院妙泉信女」とあり、その裏面に「天保十四年九月十五日」とあり、俗名なかとある。碑面の向かって左側に「登蓮院妙勢信女」とあり、その裏面に「安政二年十二月二十三日」とあり、俗名とせとある。この二人の女性は、おそらく、右のなかが先妻で、左のとせは後妻であろうと思う。

飯田林斎(中央)先妻なか(右)後妻とせ(左)の墓碑(本漸寺)

 先妻のなかについて伝える資料は全くないが、後妻のとせに関しては「能勢家系譜稿本」(能勢潔氏蔵)の中に記載がある。能勢家は東金の由緒ある名門であるが、とせは同家第九代尚貞の四女として文政一〇年(一八二七)六月二三日に生まれ、初名を久米と言った。彼女の経歴を同書は次のように記している。
 
 「久米ハ松平土佐守少将ニ仕ヘ、名ヲ皐月(サツキ)ト称シ、十七歳ノ夏、杵築城主松平市正(いちのかみ)観良公ノ御国元豊後国迄(まで)赴任シ、命ニ依リ登勢(とせ)ト改名ス。後、解任帰国シ。飯田芳二(ママ)郎直名(直忠の誤記)ト婚シ、一女梅ヲ生ム。安政二乙卯(きのとう)夏ヨリ不快、実家ニテ療養セシモ験(しるし)無ク、遺言ニ任セテ当家墓側ニ葬ル。飯田芳二郎ハ林斎ト号シ画ヲ善クス。一女梅ハ浅草区平右衛門町野口平兵衛ニ嫁シ一男ヲ生ム。」
 
これによれば、久米は九州豊後の杵築城主松平侯に腰元として仕え、名を登勢(とせ)と改め、豊後から帰国後林斎に嫁いだという。何時嫁いだかは分からないが、後述するように一女梅は安政元年(一八五四)に生まれているので、少なくともその前年の嘉永六年までには結婚したものと考えられる。そして、同書の別のところには、「安政二年十二月二十三日歿。行年二十九歳、法号・登蓮院妙勢」とあり、この法号は「登勢ヲ二分して作称セルモノ」と注記してある。(死亡年月日、戒名は墓碑と一致している。)二九歳の若さで娘を残して死んだとは登勢も薄倖の女性である。
 
    

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 次に、前引の文久二年の「宗門人別帳」を検すると、林斎家の家族は四人で、芳次郎四十二才・(林斎)と亀太郎十八才・松次郎十四才・梅九才の三人の子である。そして、この三人の子の年齢から生まれた年を逆算すると、亀太郎は弘化二年(一八四五)、松次郎は嘉永二年(一八四九)、梅は安政元年(一八五四)の生誕となる。梅は前述のとおり、後妻登勢の生んだ子であることは明らかだが、亀太郎・松次郎の母は誰であろうか。先妻なかは天保一四年に没しているから、母であるはずがない。とすれば、登勢の子ということになるのか。文政一〇年(一八二七)生まれである登勢は亀太郎の生まれた弘化二年には一九歳であった。彼女は一七歳の夏豊後へ行っているが、翌年早々に帰国して林斎に嫁いだとしたら、亀太郎出産の可能性もあるが、はたしてどうだったろうか。松次郎の生まれた嘉永二年は、登勢二三歳である。その一年前に結婚していれば出産の可能性はある。しかし、前引の能勢家の資料によれば、登勢の子は一女梅のことしか記載がない。梅は安政元年に生まれたので、登勢の嫁入りはその一年前だろうと書いたが、それも想像にすぎないが、しからば、亀太郎と松次郎はいったい誰から生まれた子であるか。林斎は先妻なかに死なれてから、登勢を娶るまで全く無妻でいたのかどうか。かりに、松次郎が登勢の子であるとしても、亀太郎までを登勢の子とするのは問題であろう。といって、登勢の前にもう一人の妻がいたという証拠は今のところ示せない。
 登勢が、かりに嘉永六年に林斎の妻となったとすれば、二七歳の時である。(林斎は三三歳である)当時の風習からいって、後妻となるのもいたし方なかったかもしれない。亀太郎・松次郎が彼女の子でなかったとしたら、家庭内も複雑だったろう。経済的な苦労もあったことだろう。しかも、梅を生むと間もなく死んだのだから同情せざるをえない。林斎にしてみてもさびしくやるせないことだったにちがいない。彼がその後三度目(あるいは四度目)の妻を迎えたかどうかは知れぬが、どうも彼は家庭的にも恵まれず、その身辺には寂寥の影がただよっていたように思われる。
 さて、肝心の林斎の画業のことに触れなければならないが、残念ながら詳細は不明である。現在分かっているのは、林斎の親戚筋にあたる東金岩崎の近江屋(飯田清氏宅)方に林斎の山水画が保存されている。そのなかでは、彼の描いた松尾芭蕉の肖像があるということである。それは石井雀子(俳人、東金出身)氏の書いた「房総の俳人」(俳誌「閑古鳥」連載)の中に、林斎が描いた芭蕉の画像に北村音人(おとんど)(金沢生まれ、東金に住んだ俳人。別項参照)が芭蕉の「笈の小文(おいのこぶみ)」の一節を書きそえた半折幅物であって、「翁の像も音人の書も、なかなかの出来ばえである」ということが記されている。また、大野伝兵衛(別項参照)の経営した茶園すなわち東嘉園の全景を安川柳渓と林斎が合作で画いた「東嘉園図絵」と題する巻物が残されており、これは世に知られている。もう一つ、俳人河野呼牛(東金の人、別項参照)の七七歳を賀した肖像画があって、そのわきに「呼牛翁像応雪写 林斎印」と記されているが、これは林斎が画いたとは言えないかもしれないが、何らかの関わりを持ったものらしく考えられる。(応雪は林斎の門人か)
 林斎の画業がこれだけのものだとは考えられない。いやしくも「東金靄厓」と称されたほどの人であるから、必ずやもっと多くのすぐれた業績があったにちがいないと思われるが、今後の発掘にまつよりほかはあるまい。