直勝が上州館林藩主秋元但馬守に仕え、その抱え工となったのは、弘化三年(一八四六)四二歳の時で、これは、養父直胤が山形の出身で、先の山形藩主秋元侯の抱え工であったためで、恐らくその推挙によるものであろう。
直勝は江戸下谷に居住し、安政五年(一八五八)七月二二日、五四歳で他界した。法名は、秀厳院玄心直勝居士と云い、墓は現在、東京都台東区西浅草三丁目三五-三、本然寺内にある。
直勝の作風は、相州伝・備前伝、いずれも師直胤に近いと云われ、長命ではなかったにもかかわらずかなり多くの名作を残している。特に備前伝の兼光写し、景光写しは師を凌ぐ出色の作と云われている。直勝の銘は総数十三種を用い、初期には上総次郎・上総次郎直勝・於上総国荘司次郎直勝、中期には荘司次郎直勝・荘司次郎太郎直勝、晩期の銘は荘司次郎太郎藤原直勝・次郎太郎藤原直勝が用いられている。
直勝の生家は兄伊藤茂兵衛が嗣いだが、茂兵衛の子由五郎は、成長の後鉄砲鍜治となり、上総国久留里藩主に仕え、明治維新後は帰郷して農を営み産を為したと云う。現在の当主はその四代目に当たる伊藤功氏である。
なお、伊藤直勝が鍛えた名刀は、東京靖国神社の遊〓(ゆうしゅう)館や鹿島神宮などに献納されている。
参考資料
我が家の歴史
東隣りに八左衛門と云ふ草分(土地を切り拓いた者)の百姓が有った我が家は其の分家で有ったそうである。真正院玄受 真正院妙玄の二人が祖先である。其一子平蔵は非常な大力なりしと、其の妻は豊成村関内より来り若き時生家へ往復の途次犬に噛まれ跛(びっこ)となりしとか云ふ。賢母で有った故か二男有り。兄茂平は百姓の旁ら桶屋を遣(や)って居たが、博学多識利発で当時の代表人物で有った。其の辞世に「行く先は遠き黄泉(よみじ)か知らね共我が身仏を力にぞ行く」。弟直勝また俊敏で少年時代何業に志そうかと大志を抱いて居た矢先き、偶々占師(うらないし)来り判断して貰った処、此の者は金物を取り扱ふ商売に就けば立身出世疑ひなしとの事に江戸に出で、刀鍜冶直種の弟子と成り大いに努力す。或る夕洗湯に行った大勢の浴客のうちの一人が、師匠直種をけなす者が有った。血気の直勝大いに怒り、直種の刀の切れ味を見よと相手の腕を切り落したりと云ふ。直種の威光に依り大した咎も無く済んだ。其の技愈々(いよいよ)進み、一女の婿養子と成り、群馬県館林藩主秋元但馬守に抱へられ、鍛へし刀は此の附近にも所在し銘して荘司次郎太郎藤原直勝と云ふ。自家にても道中脇差一尺九寸のものを貰って有ったが、終戦後所持禁止令が出たので、役場より警察に届けてしまった。茂平の一子由五郎は早く母に死別し鉄砲鍛冶と成り、上総久留里藩主の抱へとなり、明治維新の為廃藩となり、手当として城山・出城塚等の官林を払ひ下げ、それを売却して金に替へ財産の基礎を築いた。妻ちゑは、戸村信一郎方より来り、一子徳太郎は勤勉にして只管(ひたすら)家の興隆に勉めた。その妻とめは公平村姫島当主岩崎慶治方より来り、厳格な夫に仕へ賢母の誉有り。今日の我が家有るは全く両人の努力の賜(たまもの)であって、厳格な父優しい母を懐(おも)ひ感謝の念切なるものがある。然れ共、其の一部は、敗戦の憂き目に依り農地改革・インフレ等のため粒々辛苦汗の結昌は一朝にして水泡に帰した事は、亡き祖先も知らずして幸ひなり。出直さん裸一貫で。
昭和二十四年旧盆記 右は父徳太郎生前より聞き伝へられし儘を記し、後世にも伝へ発奮に資せんとす。
伊藤勝司 印
(伊藤功家文書)
伊藤家の歴史