高砂(たかさご)浦五郎(相撲協会々長・相撲関取)

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 わが房総の地は、古来数多くの名力士を生んでいるが、その中、明治期相撲史上特筆すべき大立物は、初代高砂浦五郎で、梅ケ谷・常陸山らと共に明治相撲界の三傑と云われたほどの力士であった。梅ケ谷と常陸山は、いずれも横綱を張ったスーパー力士であったことはよく知られているが、高砂は前頭筆頭になった程度の関取だったから、相撲取の地位からいえば大したことはないけれども、彼は卓抜な政治性を持った男で、封建性の強い相撲界に近代的な改革をもたらし、永年の因襲を刷新して、近代相撲の基礎をきずいたのである。それは、梅ケ谷にも常陸山にも出来ない偉業であるといっていいのである。その業績が高く評価されたのである。この高砂浦五郎は実はわが東金市の出身なのである。
 彼は天保九年(一八三八)一一月二〇日、上総国山辺郡大豆谷村(東金市大豆谷)農、山崎金兵衛の三男に生まれ、幼名を伊之助と云った。後に力士となっただけに、体格肥大な彼は、子どもの頃からあばれが好きで、草相撲の大関を張ったり、田舎相撲の仲間入りをして、磯千島という醜名(しこな)をつけて得意がっていた。しかし、一五、六歳ともなれば、遊んでもいられず、米搗きや田の草取などに雇われたりしていた。それは、二〇歳頃のことだといわれるが、ある時、田の草取りをやっていると、一人の乞食のような女が幼い児の手を引いて道をやって来たが、腹がすいたか、児が泣き出して、なかなか泣きやまない。すると、女は「おっかさんの言うことをきかないと、百姓にやってしまうよ」といって叱りつけた。それを聞いていた浦五郎は、胸をつかれる思いがした。つまり、百姓仕事が乞食女にさえも軽蔑されていることを知らされたのである。百姓は卑しいものではないはずだが、その頃に農村が疲弊していて、百姓の暮らしは容易でなかった。若い彼も百姓のつらさは身にしみて知らされていたし、将来希望のもてる商売とは思われなかった。乞食女にさえ馬鹿にされる百姓仕事から足を洗おうと、彼はその時決意したのである。そして、思い切って相撲取になろうと考えたのである。
 その頃、すなわち幕末も押し詰まった安政・文久の頃は江戸相撲が隆盛な時であった。不知火(しらぬい)・陣幕・雲龍の三横綱が出て、相撲人気に湧き立っていた観があった。「一年を二十日で暮らすよい男」の諺通り、関取になれば有名になるし、収入はふえるし、素質のある浦五郎が憧れるのももっともである。ついに彼は江戸に上ることを決意した。それは、安政六年(一八五九)一一月、彼が二二歳の冬のことであった。
 江戸へ出た浦五郎は、相撲年寄阿武松(おおのまつ)庄吉に入門し、東海大之助と名のって、いよいよ力士の生活に入った。そして、元治元年(一八六四)の二月、序二段に進み、松ケ枝鶴之助と改名し、番付が三段目に進んだ時、姫路藩主酒井侯のお抱え力士となることが出来た。これによって、生活の保証と身分の安定が得られ、その名も高見山大五郎と称することになった。それから更に五年たった明治二年(一八六九)一一月、ついに念願の入幕をはたすことが出来、藩主酒井侯から、領国播磨の名勝地高砂に因(ちな)む、高砂浦五郎の醜名(しこな)を賜わり、以後これを名乗ることになったのである。その後も順調に力を伸ばし、同四年(一八七一)三月には、ついに前頭筆頭の地位にまで昇ることが出来た。この時、彼は三四歳であった。

高見山時代の初代高砂(千葉県と相撲)より

 ところが、同年七月一四日、廃藩置県の詔書が発せられ、従来の藩が廃止せられ、明治以後藩知事の地位を獲ていた旧藩主も、実質的に大名たる資格を失うことになったのである。すると、抱え力士たちもおのずから解雇されざるをえなくなる。(ただ、相撲好きで富裕な旧藩主はなお力士を抱える風習があった)酒井侯は高砂のほか、境川・相生(あいおい)・兜(かぶと)山・手柄(てがら)山等の力士を抱えていたのであるが、一様に解雇されることになった。しかし、中には相撲好きな旧藩主に引続き抱えてもらおうと運動する者もあったのである。そんな情勢の中で浦五郎は、三木愛花から「頗る侠達にして且つ胆力あり」と評されただけに、黙って見ていられなくなり、他の抱え力士たちに呼びかけて、「われわれは、酒井侯から受けた恩義にそむかず、たとえ高禄で他から招かれることがあっても、それに応じないようにしよう」と誓約をかわすことにしたのである。しかるに、誓約者の一人相生は誓いを破って、土佐の旧藩主山内侯の抱え力士となり、名も綾瀬川と改めていたことが分かり、激怒した浦五郎は相生すなわち綾瀬川の首を切って酒井侯におわびをしようといきり立ち、大騒ぎとなった。そこで、年寄の玉垣額之助や伊勢ノ海五太夫が間に入って浦五郎をなだめ、相生すなわち綾瀬川から詫び状を入させて、ようやくおさまったのである。(浦五郎が酒井侯から「高砂浦五郎」の醜名をもらったのはこの時であるとの説もある。)この事件は、浦五郎の政治力を世間に認めさせたことになり、事実彼の名が角界に重きを成すきっかけともなって、後年の相撲改革運動の立役者たる素地をつくるべき一つの試練ともなったのである。
 
    

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 さて、その後、浦五郎の地位も上がり、明治四年(一八七一)前頭筆頭に昇進した浦五郎は、それから三場所つづいてその地位を守り、同六年(一八七三)四月の場所は七勝一敗一分の好成績でおわり、元気一杯で美濃尾張地方へ巡業に出かけた。同行力士の中には、綾瀬川(大関)のほか、小柳(関脇)等、かねてからの同志もまじっていた。
 ところで、浦五郎は前々から相撲界に対して大きな不満をいだいていた。それは二つあったが、一つは力士の待遇が不当に悪いことであり、他の一つは年寄が横暴で、一、二の有力者特に玉垣・伊勢ノ海らが威権をほしいままにしているということであった。これを改革して相撲界を民主化したいというのが彼の目標であった。そこで、旅先をさいわい、同志に意中を打明けて共力を要請したのである。
 いったい、当時の力士の生活もピンからキリまであって、「一年を二十日で暮らすよい男」とはいっても、そんな暮らしが出来るのは横綱大関等の少数であって、幕内でも給料はわずかだし、十両以下になると、小遣い程度の手当で満足しなければならなかった。地方巡業をやって特別な収入があっても、大部分は、筆頭とか筆脇とかいう年寄が壟断(ろうだん)してしまい、他の者は指をくわえていなければならなかった。大名が力士を抱えていた頃は経済的にも有利であったが(それとても上位力士に限られていた)、それも今や廃止されたので、もっぱら興業収入に俟(ま)つよりほかなくなった。合理的な分配方法を講じて、力士の生活を保証しなければ、相撲道は亡びてしまう。現に生活不如意のために脱落して行く者が跡を断たないのである。どうしても抜本的な改善策を立てる必要があった。
 のみならず、経営面でも不条理なことが多かった。たとえば、番附編成なども横暴な年寄の恣意で左右されることが多く、成績がよくても上位にのぼれない不遇力士も少なくなかった。浦五郎は以上の点に深い不満を持ち、ただ泣寝入りばかりつづける愚をさとったのである。そして、打開の道は力士たちが団結して暴戻なボスどもに反旗をひるがえし、旧勢力とたたかって相撲会所の改革をはかろうと考え、意中を同志に打ち明けたところ、綾瀬川・小柳らは積極的に賛意を表した。そこで、巡業中の他の力士たちに呼びかけて、誓約書を作り血判させた。次に、それまでいた岐阜から伊勢の桑名に移って、ここで更に協議を遂げ、綾瀬川が数人の力士とともに上京して、会所の幹部たちに運動することにした。その後で浦五郎は桑名が地の利を得ていないことを察して、数十名の力士をひきいて名古屋に移居し、ここを本拠として東京の本部と対決の姿勢をとった。
 一方、上京した綾瀬川は同志の一人で大関となっていた境川(市川市出身、後、横綱となる)をたずね、事情を伝えたところ、境川も賛意を表した。そこで、年寄の筆頭玉垣と同筆脇の伊勢ケ浜をおとずれて談判したところ、二人は自分たちに反旗をひるがえそうとする改革派の意見を取り上げるはずがなく、逆に綾瀬川に不利を説いて浦五郎から離脱せしめようとはかり、綾瀬川もそれに屈してしまったのである。そのことを綾瀬川は手紙で浦五郎に通知した。浦五郎は裏切られて落胆したが、それに追討ちをかけて、同年一一月の勧進相撲番附には、名古屋にいる浦五郎や小柳その他の力士の名は全部削除されてあった。こうなると、浦五郎らも受けて起つよりほかなかった。そこで、翌七年彼らは東京角力から脱退して、「改正相撲組」を新たに組織し、愛知県当局に届け出て許可を得、大阪・京都の力士らと提携して、関西角力として東京角力と対峙する姿勢をとり、興行をすることにした。集まった力士は百名を越える勢いだった。その中には、響矢(のち高見山)熊ケ嶽(大阪出身)象ケ鼻(館山市出身、のち大関)らもいた。
 しかし、そのまま関西にいたのでは彼ら当初の目的たる東京本部の改革は出来ないことになる。もっと積極的な行動に出る必要がある。そう考えた浦五郎は、思い切って東京へ乗り込んで直接戦いを挑むことにしたのである。そして、翌八年(一八七五)百数十名の力士団をひきいて上京し、神田龍閑町に本部を設け、神田秋葉原で改正組の相撲興行をした。かくして、東京相撲は二派に分裂した形となった。浦五郎は東北巡業なども活発に行なって、人材をあつめるよう努力し、力士数も百名を越すようになり、その中には、西の海(初代)・二代目高砂などの偉材もあった。西の海は九州鹿児島の農家の出で、名を嘉次郎といい、浦五郎が関西にいた頃一門に加わり、東京へ進出した時分には、一座の重鎮となっていた。彼は明治二三年(一八九〇)には一三代横綱となり、同二九年(一八九六)には年寄井筒を襲名している。二代目高砂は、浦五郎と同郷の山武郡粟生村(九十九里町粟生)の生まれで、浦五郎より一四歳年下であった。浦五郎に入門して醜名を高見山といい関脇となったが、引退してから師匠の名をつぎ二代目高砂となったのである。
 
    

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 ところが、明治一一年(一八七八)二月になって、警視庁は「角力取締規則」を発布し、東京の相撲取はすべて営業鑑札を受くべしと定めた。これは、二派に分かれた東京角力を一組織にしようとするねらいであったのだが、浦五郎はその時地方巡業に出ていたため不意をつかれた形でまごついたが、警視庁方面に請願をつづけ了解を得るよう種々奔走した。その頃には、角力界が二分されていることに対する社会の批判も強くなり、相撲界内部にも両派の調停をはかろうとする空気が盛り上がっていたし、また、浦五郎らの主張にも納得すべきところがあるのを認める風も高まっていたので、進んで仲介の労をとろうとする人もあらわれて、両派は対等合併することとなり、同年五月の勧進角力を両派合同で実施することとし、同時に「角力営業規則十二ケ条」を制定して、従来の弊害を除去し、角道の改革をはかることにしたのである。浦五郎の改革意見もかなり取り入れられたので、彼としても満足できたし、年寄として幅をきかしていた玉垣額之助・伊勢ノ海五太夫の両人も引退を表明し、浦五郎に後事を託することにしたので、いわば、浦五郎の勝利に帰することになったのである。これは、浦五郎の人物が高く評価され、その卓抜な政治力が買われた結果であろうと思われる。なお、余談だが、彼が姫路藩主酒井侯のお抱え力士をしていた頃、藩に御家騒動が持ち上ろうとし、江戸の上屋敷で重臣たちが協議していたところ、その席へ浦五郎が白装束で現われて大胆に直言した。それが用いられて藩も事なきを得たという話がある。(志賀吾郷「東金町誌」二二〇頁による)事実であるかどうか断定はできないが、彼が侠客的な豪胆さと義心の持主だったことは肯定できそうに思う。一介の力士とはいえないところがあったのである。

高砂浦五郎番付表

 浦五郎は明治一六年(一八八三)推されて相撲会所の取締役となったが、翌一七年三月ついに相撲会所会長に就任した。そして、この月一〇日芝延遼館で天覧相撲が行なわれ、浦五郎は相撲長たるの栄に浴したのである。同二二年(一八八九)相撲会所の名が東京大角力協会と改められたが、その間浦五郎の行なった改革はいろいろあったが、規約を改めて民主的な運営を可能にするとともに、たとえば、力士の待遇改善としては、能力に応じて収益を合理的に分配することにしたり、年寄の濫立を防ぐためにその定員を在来は二一八名だったのを八五名にしたことなどをあげることが出来よう。しかし、浦五郎も顕栄の地位に就き、相撲協会の権力を一手に掌握するようになると、ワン・マンぶりを発揮し、横暴の非難を受けるようになったらしい。明治二九年(一八九六)の頃といわれるが、大砲・海山らの力士たちが浦五郎の排斥運動をおこし、協会が大揺れにゆれたことがあった。さすがの浦五郎も相当の痛手を受けて弱り切ったが、調停者が出て騒ぎをおさめ、「申合規則七十条」を作って、浦五郎もこれに従うことになり、どうやら鎮静にいたったのである。昔の敵(かたき)を取られた形で、浦五郎も感慨無量だったであろう。この結果、翌三〇年には相撲協会長の職を退くことになったのである。
 ともかく、浦五郎は相撲界の大勢力となったのであるが、それは、協会の取締役ないし会長として敏腕を振ったことにもよるが、彼が弟子の養成に熱意をそそぎ、門下から優秀な力士を多数生み出したことも特筆すべきである。その重なものとしては、さきに紹介した西の海・二代目高砂のほか、小錦・朝潮・一の矢・大達・綾浪・千歳川・源氏山・北海等がある。右のうち、小錦は山武郡横芝村(横芝町横芝)の出身で、慶応三年(一八六七)の生まれ、本名を岩井八十吉といった。彼の父弥市も岩木川という醜名で田舎相撲の大関となったという話だが、小錦は明治一二年(一八七九)一三歳の時に上京して高砂に入門し、同二一年(一八八八)五月入幕をはたし、同二三年には大関に躍進し、二九年(一八九六)栄えある横綱に昇進した。入幕後八年目のことである。小錦は西の海とともに高砂部屋の双璧であった。当時、高砂部屋は相撲界の最高峰とされ、その名は後の出羽の海部屋とともに、相撲史上燦然と輝いているのである。
 相撲協会から身を退いた後の浦五郎は不幸つづきだった。彼は脳の病になやんでいたが、三〇年頃からそれが悪化して、ついに廃人同様になってしまい、明治三四年(一九〇一)年四月八日、六三歳で不帰の客となってしまった。(明治三三年の死去という説もある。)墓は東京都江東区深川の円隆院にあり、泰山院常高日勝居士と謚(おくりな)されている。彼の長男は伊十郎といったが、酒癖が悪く、喧嘩早くて、ついに殺人の罪をおかし獄死したと伝えられている。精神病患者であったのかもしれない。浦五郎と郷里との関縁を語るエピソードはいろいろあるが、その一つとして、田波啓はその「東金文学散歩」の中で、こう書いている。
 
 「高砂初代二代とも大勢の弟子をつれてきて、当地でたびたび興行したらしく、力士の宿泊などについていろいろの話が残っている。ある年、台方と砂郷(すなごう)の青年の間に紛争が起こり久しく和解しないことがあったが、これを耳にした高砂は『おれが仲にはいって手打ちをさせてやろう。それには相撲が一番だ』といって、砂郷で大興行をやった。ところが、それが大当たりで、カマスに何ばいというほど木戸銭がはいったが、彼は青年たちには、ほんの一ぱいをふるまっただけで、そのあがりを独占し、大豆谷にりっぱな住宅を建てたという話が残っている。当時の人々は『頭のいい者にはかなわない』と嘆じたともいわれる。」
 
この話はあまり気持のよい話ではない。しかし、彼が親孝行であったことは事実で、この大豆谷に建てたという住宅も父母の孝養のためだったが、その資金は右の興行収入だけでは足らなかったろう。彼は東京本所亀沢町に豪邸を構えたということだが、郷里たる大豆谷の厳島神社裏に家を建てて父母を住まわせたという。しかし、この家は明治一九年(一八八六)東金市台方の有原氏に売り渡したということだ。なお、浦五郎は同一七年一一月、大豆谷坂上に先祖代々および父母の供養塔を建てているが、これは相当立派なものである。供養塔の文字は彼の友人で山武郡鳴浜村白幡(成東町白幡)出身の貴族院議員成川尚義の筆に成るものである。なお、供養塔は正面に
 
   先祖代々崇法院 信日栄 崇事院妙信日暉
 
と刻まれ、日栄が父の、日暉が母の戒名であろうが、父母についてはそのほか何も書かれていない。そして、右側面に「明治十七年(一八八四)十一月廿日 高砂浦五郎建之」とある。

高砂浦五郎建立の山崎家の墓