川島善兵衛(篤農家)

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 東金市松之郷の西方、印旛郡八街町字滝台と相接する地は、旧上総下総の国境地帯で、かつて後北条氏や江戸幕府の直轄地にあった佐倉七牧の一つ、小間子牧(縦七五町・横四〇町)の一部で、また、東金市を二分して東流し、市民の生命線と云われる十文字川の水源地でもあって、往古から重要視され、慣行上も複雑な地帯である。
 この広漠たる荒野が漸次開発されて沃野と化し、ここに杉苗を培養してその生産を高めるに至ったのは、明治の中期からであるが、今も残るいわゆる「善兵衛野」が造成されたのは、実に川嶋善兵衛に負うところが大きいのである。
 善兵衛の事跡を伝える唯一の資料は、参考資料として添附してある「松寿翁寿碑」の碑文であるが、これには彼の生没年時や享年が書かれていない。が、幸い市役所に戸籍があるので当たってみたところ、文政六年(一八二三)八月一五日の生まれで、明治二八年(一八九五)四月一七日没している。享年(数え年)は七三歳である。
 さて、川嶋家は山辺郡松之郷(東金市松之郷)一三九二番地にあったが、善兵衛は川嶋家の出生ではなく、同村の中田五左衛門(農)の次男として生まれ、名は貴郷、幼名を勝次郎または勉と称した。そして、寿碑文によると、「年十八、出デテ川嶋氏ヲ継ギ、善兵衛ト称ス」とある。一八歳というと天保一一年(一八四〇)のことである。その時川嶋家の当主が何といったかは戸籍にも名が出ていないのでわからからが、善兵衛の妻となったのは名をいちといい、天保三年(一八三二)五月二〇日の生まれだったことが知れる。善兵衛と九つちがいである。善兵衛が一八歳で養子に入った時は、まだ九歳にすぎない。したがって、すぐ結婚したわけではないだろう。さらに、いちには二人の弟があったことが寿碑文を読むとわかる。男児が二人もあったのに、なぜ養子を迎えたのか。それは、二人の男児が幼弱であったためか、それとも義父に何か事情があったのか、不明であるが、善兵衛がそういう複雑な家庭に入りこんだことは、彼の後年の活動を考えるばあい、無視するわけには行かない。つまり、いろいろ事情のある家を背負って、献身的に働いて家を繁栄せしめた彼の責任感の強さということである。
 寿碑文には、義父が弘化二年(一八四五)に病没したとある。善兵衛二三歳の時のことである。また、同文は善兵衛が義父に対してきわめて孝順であり、その死にあたっては、礼にすぎるくらい手厚くし、残された二人の弟に対しても父代りの愛育に心をつくしたことも伝えている。これによっても、彼がいかに誠実で真摯な人間であったかが察せられるのである。(二人の弟がその後どうしたかは全く分からない。)「人ト為リ温厚朴実ニシテ古人ノ風有リ。意気懇篤ニシテ精力人ニ絶ユ」という寿碑文の評はよくあたっていると思われる。しかも、彼は情にあつく、正義感の持主で、忠臣孝子貞婦の話に涙を流す感激家でもあった。それに彼は非常な働き者で、しかも、他人の不幸に対しても仁恤の心を寄せずにいられないところもあったらしい。
 義父の死によって善兵衛は川嶋家の当主となり、善兵衛の名をもついだのであろう。妻のいちがどういう女だったかよくわからぬが、非常なしっかり者であったという伝聞がある。おそらく、夫婦仲もよかったものと思われる。この夫婦の和合と協力によって川嶋家は巨富を成すにいたるのである。
 
    

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 こうして、川嶋家の立派な後継者となった善兵衛は、その人物・才幹を世間からも高く評価され、郷村においても重んぜられるにいたり、農事・民政の関係事業にも活動し、また、学校の建設等にも力をつくして、地域社会に貢献するようになった。
 時あたかも明治維新に遭遇し、彼は地域の振興は教育の充実と産業の発展にあることを悟り、明治五年八月(一八七二)学制が発布されるや、他町村に魁(さきが)けて松之郷本松寺内に郷校を新築して子弟の教育に意を注ぎ、また農産物の増産を図り、品種の改良や培養法を研究し、県・国主催の共進会・博覧会等にはその都度出品し、数多くの褒賞を与えられている。
 明治一六年(一八八三)官地払下げに当たっては、三千六百円をもって旧小間子(おまご)牧の一部二十数町歩を買い受けている。元来この地は雑木雑草が繁茂する荒蕪地で、彼の今回の企図に対してはこれを怪しみ危惧の念を抱くものが多かったと云う。
 すでに齢(よわい)六十歳に達した彼は、家政を養嗣子孫次郎に譲り、別荘をこの地に建ててそこに移り、晨(あした)に起きて耕し夕べの星をいただいて帰り、晴耕雨読、開拓の日日を送ると共に、杉苗を栽植する計画を立てたが、その入手に苦しみ、遠く奈良県吉野郡川上村の人上平豊吉から、吉野杉の良種を購入し、その指導により二年後苗数万本を仕立ててこれを栽植し、些(いささ)かの閑地も残さなかったと云う。
 かくして一三年間の辛苦の経営は見事に成就し、うっ蒼たる杉の美林帯が造成されたのである。しかし、彼は間もなく病を得、明治二八年(一八九五)四月一七日長逝した。享年七三歳である。
 善兵衛の輝かしい事跡は現在印旛郡八街町滝台松入り地先、杉の美林内に建つ彼の頌徳碑(松寿翁寿碑)の撰文の記述がすべてを伝えている。この碑は明治二九年(一八九六)四月、彼の嗣子孫次郎に依って建立された巨大な根府川石で、撰文は吉井宗元(老湖)、篆額(てんがく)と銘は岡本韋(い)庵、書は竹香道人の手になり、碑陰には彼の歌が刻まれている。
 
  つくさばや
  まごころ立つる此の山の
  松のみどりの
  栄え祈りて
                松寿

川嶋善兵衛碑

 
 なお、この歌の下部には、建碑協賛者の氏名が列記されているが、その総数は一一四名の多きに達し、東京・神奈川・奈良・鳥取等遠隔の地からも寄せられ、善兵衛の遺徳が偲ばれるのである。
 善兵衛の人物を端的に評するならば、東金の二宮尊徳といえるであろう。その誠実、その勤勉、その無私、その人間愛、いかにも尊徳的な人間である。勤労即人生というのが彼の信条であったろう。善兵衛野の開拓のごとき、尊徳の幅広い事業に比べれば、きわめて小さな仕事にすぎないであろうが、底に流れるのは同じ精神であろう。彼は身をもって労働の尊さを教えてくれたが、また、自然を愛することの深い意義をも示してくれた。
 おわりに、彼の家庭の状況について附け加えておこう。彼の死後、未亡人いちはよく家庭を守ったようである。いや、守ったというより、積極的に家産をふやすほどの活躍をしたのである。彼女はなかなかの女丈夫であったようだ。夫の死後、彼女は桑園を作って養蚕をはじめ、かなりの利益をあげたのである。それによって、資産は著増するようになった。
 彼女は夫善兵衛との間に一男二女をもうけていたが、男の子は病弱で早世してしまったので、長女のさよに武射郡矢部村(山武町矢部)の伊藤孫右衛門の二男孫次郎を婿に取って後継者にしたのは夫の在世時(明治一六年)のことであった。しかし、孫次郎といちとの間柄はどうもうまく行かなかったらしい。それに、孫次郎夫婦には子どもがなかった。そこで、善兵衛夫婦はもう一人の娘、つまり、さよの妹のよねが匝瑳郡野田村(野栄町)の大川健之助に嫁いで生んだ娘せつを養女に入れて、それに武射郡大総村(松尾町)吉岡完治の弟佐一を婿に取ることにした。つまり、夫婦養子にしたわけである。これが、明治二六年(一八九三)二月のことであった。(佐一夫婦には三男三女の子どもが生まれている。)これで後継ぎのことは心配ないわけであるが、どういうわけかいちは夫の死後一四年目の明治四二年(一九〇九)別にもう一人養子を入れている。それは、長生郡鶴枝村の富田喜久造の弟留吉である。留吉は翌年分家しているけれども、家族関係が非常に複雑化し、いろいろトラブルもあったようだ。こうして、いちは大正二年(一九一三)に、孫次郎は同七年(一九一八)にそれぞれ死んでしまうが、川嶋家には莫大な財産は残されたものの、善兵衛が基礎を据えた勤倹の家風はすっかり影をひそめ、逆に都会風生活に浸り、贅沢三昧の乱費生活におちこむようになり、佐一が投機的事業に手を出して失敗したことなどが拍車をかけて、崩壊の方向をたどるようになっていったらしい。善兵衛が身をもって示した健実な遺教は、子孫によってくつがえされてしまったのである。善兵衛の霊はこれをどう受けとめているであろうか。
 
  参考資料
    松寿翁寿碑 (原漢文)
   〔碑表〕
 翁、本姓ハ中田氏。名ハ貴郷、小字ハ勝次・勉、松寿ト号ス。山辺郡公平村松之郷ノ人ナリ。父ハ五左衛門ト称シ、本姓ハ行木氏。母ハ中田氏。翁ハ其ノ二子ナリ。年十八、出デテ川嶋氏ヲ継ギ、善兵衛ト称ス。世称ナリ。弘化二年(一八四五)義父病没スルヤ、哀毀(あいき)①礼ニ過グ。二弟有リ、愛育スルコト子ノ如シ。二弟モ亦コレニ父事ス。嘉永二年(一八四九)二親ノ為メニ追福ヲ修メ、貧民三十余名ニ施米ス。万延元年(一八六〇)江戸城火(や)ク、献金若干。文久二年(一八六二)惣代役トナリ、明治七年(一八七四)副戸長トナル。八年(一八七五)、地租改正事務用掛トナリ、地主惣代人ヲ兼ネ、拮据(きっきょ)②心ヲ尽シ、以テ収局ニ至ル。十年(一八七七)、学事分掌トナル。翁、夙(つと)ニ教育ノ欠クベカラザルヲ知リ、村民ヲ誘導シテ新ニ校舎ヲ築ク。此ノ時ニ当リ、維新ノ学制亦大変シ、民心往々ニシテ服セズ。而カモ此ノ校ノ竣工ハ郡ノ嚆矢(こうし)③タリ。翁ノ力多キニ居ル。十五年(一八八二)東京米麦山林共進会ニ、山林五等褒賞・米麦各六等ノ受賞ヲ得。十六年(一八八三)埼玉県ニ一府五県聯合共進会開カレ、大麦五等褒賞・陸稲六等褒賞ヲ得。農商務大輔品川弥次郎君、老農数人ヲ旅館ニ招キ農事ヲ諮問スルヤ、翁モ亦与(あずか)ル。十八年(一八八五)本県共進会ニ六等褒賞ヲ得。東京大日本山林共進会ニ、意見ヲ書シテ松圧ヲ陳ジ、会頭二品貞愛親王、褒状ヲ賜ヒ、以テ其ノ方法ノ適宜ナルヲ賞ス。二十三年(一八九〇)第三回内国勧業博覧会ニ亦褒状ヲ受ケ得タリト云フ。翁ハ人ト為(な)リ温厚朴実ニシテ古人ノ風有リ。意気懇篤ニシテ精力人ニ絶ユ。是ヨリ先、翁小間子(おまご)野ヲ購(あがな)ヒ、荒蕪ヲ芟(せん)除④シ、松杉及ビ雑木数万株ヲ植ヱ田圃ヲ其ノ間ニ開ク。自ラ耒耜(らいし)⑤ヲ執リテ婢僕ニ先ンジ、人ニ対スル毎ニ耕耘(こううん)播種糞苴(ふんしょ)⑥ノ事ヲ説キ、終日諄々(じゅんじゅん)トシテ倦マズ、人ノ忠臣孝子義僕貞婦ノ行ヲ談ズルヲ聴ク毎ニ、輙(すなわ)チ竦(しょう)然⑦トシテ起敬(きけい)シ、之ニ継グニ涙ヲ以テス。其ノ人想フベキナリ。近ク其ノ地ニ就キテ莵裘(ときゅう)⑧ヲ営ム。夫妻好合シ、琴瑟(きんしつ)相和シ、以テ余年ヲ林樹欝蒼(うっそう)禽鳥和鳴ノ中ニ楽シム。聖人言有リ、仁者ハ山ヲ楽シム、ト。翁ハ殆ンド其ノ人ナルカ。
 配ハ川嶋氏。婦恵有リ翁ヲ助ケテ家ヲ成シ、一男二女ヲ挙ゲ、男ハ早世セリ。伊東孫次郎ヲ養ヒ嗣ト為シ、長女ヲ配ス。孫次郎能ク志ヲ継ギ、農業ニ勉励シ、力ヲ学事ニ尽ス。文部省其ノ篤志ヲ嘉(よみ)シ、五等褒賞ヲ賜フ。亦翁ノ余徳ナリ。二女ハ大川氏ニ嫁ス。
 東京ノ人川合八右衛門、嘗ツテ翁ト歎粛スルコト兄弟ノ如キモノ有リ。偉蹟湮晦(いんかい)⑨シ、貞珉(てんみん)⑩ヲ〓(くろ)ウスル⑪ヲ憂ヘ、不朽ヲ謀ル。地方ノ有志醵金(きょきん)シテ以テ義挙ヲ助ケ、寿碑ヲ小間子(おまご)松入ノ地ニ建テントシ、余ヲシテ其ノ平生ヲ叙セシム。余深ク翁ノ人ト為(な)リヲ悉(つく)ス。因ツテ、不文ヲ辞セズシテ其ノ梗概(こうがい)ヲ録スルコト此(かく)ノ如シ。遂ニ銘ヲ韋庵(いあん)岡本先生ニ請フ。銘ニ曰ク、
  義父ニ孝順ニシテ      貧民ヲ済恤(さいじゅつ)⑫シ
  力田シテ学ヲ勧(すす)ム   群倫ニ超絶シ
  莵裘(ときゅう)ニ老ヲ養フ  其ノ楽ミ何ゾ垠(とどま)ラン
  貞珉ヲ斯(ここ)ニ勒(ろく)ス 令名(れいめい)千春ナラン
 
     孝順義父  済恤貧民
     力田勧学  起絶群倫
     莵裘(ときゅう)養老  其楽何垠
     貞珉斯勒   令名千春
 
   明治二十七(一八九四)年五月
             阿波 従五位岡本監輔篆額(てんがく)并撰銘
                    吉井宗元撰文
                    竹香道人惇(とん)書⑬
                    彫刻宇多川又兵衛
   〔碑陰〕
  つくさばや
  まごころ立つる此山の
  松のみどりの
  栄え祈りて
           松寿
   次に協賛者の名を刻してある。その内訳は左のごとくである。
 
東京  五 鳥取  一
横浜  一 千葉  二
印旛  二 匝瑳  三
武射 一一 山辺 一〇
東金 二八 公平 五一
  計 一一四

  明治二十九(一八九六)年四月
                 川嶋孫次郎 建之
注 ①深くなげきかなしむこと。②苦しみに堪えながら。③物事のはじめ。④雑草などを刈り取る。⑤すき。⑥肥料をほどこすこと。苴は肥料とする草類のこと。⑦おそれつつしむこと。⑧隠居所。⑨消えてわからなくなること。⑩立派で美しい宝物。⑪目をつぶして失明させる。⑫救い助ける。⑬誠をこめて書く