天保一四年(一八四三)二一歳の時、学問を志し、当時山辺郡関内村(東金市関内)で家塾を開いていた今関琴美(きんび)(別項参照)について、経史・漢籍を学び、往復二〇キロの道程を晨朝に起きて夕べに帰り、五年間孜々(しし)として勉学のかたわら、寸暇を惜しんで老農を訪ね精農に問い、独学で農事の研究調査をも怠らなかったという。彼が後年、わが房総の篤農家として大成し、多くの農民を適切に指導が出来たのは、この時期に於ける刻苦研さんの賜(たまもの)であるといえよう。
明治元年(一八六八)明治維新の大業が成り、わが房総の地は、宮谷県・木更津県・千葉県と引き続いてその所管となるに及び、彼も庄屋・副戸長・戸長等の要職を歴任し、地域の教育・文化・産業・経済等の充実発展のため尽力、漸次福岡村建設の体制を確立するに至った。
彼は常に「質朴剛健、いささかも虚飾に染まず」をモットーとした典型的な農人であったが、実際に多くの農家・農民の指導に当たるようになったのは、明治一五年(一八八二)以後で彼が六〇歳の時からであった。
明治一五年二月、県が設定した房総陸産会(県の勧業諮問機関)の県内五八名中第三八番委員に挙げられ、また、明治二〇年(一八八七)四月には、農事試験委員に委嘱され、続いて明治二四年(一八九一)一二月には、房総会(千葉県農会の前身)会長によって試験委員に委嘱される等々、各種の公職に従事し、県内各地を巡回し、講演に実地指導に、大小もろもろの農業問題について、これを懇篤適切に指導して、大きな成果を挙げたのである。
明治二四年(一八九一)三月一六日、彼は、「多年公職に忠実なることは、常人の及ぶ所にあらず」と、内閣の要請によって「勅定緑綬褒章」を賜わっている。
鈴木金兵衛宛の褒章状
この褒章は、明治一四年(一八八一)三月一六日制定されたもので、孝行・節婦・忠僕等徳行に傑出した者や、実業に精励し衆人に模範たる者に賜わるもので、現在はなく、千葉内では、第一〇号は浜口儀兵衛、第一一号は彼に賜わったものである。これには表彰状と金盃が添えられ、副賞のアカシヤ(無刺)の苗は福岡小学校の校庭に植えられ今も繁っていると云う。
彼の令名は他府県にも伝えられ、埼玉県横是郡南吉見村興農館から、明治二四年三月名誉協賛員に推せんされている。
東中島の耕地整理は山武郡内でも比較的早く、明治四〇年(一九〇七)七月起工されて既に完成しているが、この計画も彼の影響力によるところ大きかったことを記しておく。
彼は明治二九年(一八九六)四月二九日、病のため死去、享年七四歳、篤信院法讃日修居士、東中島南山の共同墓地内に葬られた。