大多和四郎右衛門(義人・東金名主)

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 東金の歴史上、義人と呼ばれた者が二人ある。一人は市東刑部左衛門(別項参照)で、もう一人はこの大多和四郎右衛門である。刑部左衛門は慶長一〇年(一六〇五)過重な貢租に抗議して自刃したといわれるが、いろいろ異説がある。それに対して、四郎右衛門には異説がなく、窮民のために無断で官倉を開き施米をして自刃したとされている。しかし、それを実証する資料がなく、ただ伝承があるのみである。それを伝える記録として、まず、吉井宗元の「山武沿革考」がある。
 
 「義民デハ、寛永二十年(一六四三)ノ頃ニ、大多和四郎右衛門自刃セリと云フモノアレバ、大多和四郎兵衛ノ家カト思フニ、大多和平左衛門ノ曼陀羅ニ両名記シテアレバ別人トミエル。」(「東金市史・史料篇一」一〇頁)
 
ここには、行動の事実については何も記述がないが、曼陀羅云々で、まず実在の人らしいことがわかる。
 次に、志賀吾郷の「東金町誌」によると、
 
 「寛永十九年(一六四二)土地大いに飢饉す。時の里正大多和四郎右衛門、其の惨状を看(み)るに忍びず、奮然自ら決する所あり。其の翌二十年官倉を開いて飢民を賑〓(しんじゅつ)す。乃(すなわ)ち、走りて道庭村石切橋に至り、責を負うて自刃す。」(二〇三頁)
 
ここには、具体的に彼の行動が記してある。米倉破りをやったのは寛永二〇年で、道庭村の石切橋で自刃したとある。
 三番目は、「千葉県誌・巻下」の記述で、これがもっとも詳しい。
 
 「旧山辺郡東金の人にして里正なり。寛永十九年、天下大いに餓饉し、二十年八月里民大いに飢に艱(なや)む。四郎右衛門屡(しばしば)領主堀田氏に訴へ、廩米(りんまい)(倉庫の米)を請うて救済せんとしたれども允(ゆる)されず。四郎右衛門意を決し、其の月十五日自ら領主の廩(くら)を発(ひら)きて里民に給与し、而して其の子籠(かご)千代と共に、田間村字石切場に於て屠腹(とふく)して、其の専断の罪を謝す。年四十八、法号を道養と称す。」(六〇六-六〇七頁)
 
これによれば、事件は寛永二〇年八月一五日のことであり、四郎右衛門は子の籠千代とともに自殺し、その時四八歳であったという。ただ、田間村字石切場は道庭村石切橋のほうが正しい。
 記録としてはもう一つある。それは、昭和二九年(一九五四)一一月、内山常治郎(別項参照)によって、自刃の地石切橋に建てられた碑文であるが、その内容は従来の記述を踏襲しているけれども、ただ三か所ちがっているところがある。その一は四郎右衛門が「岩崎区に住し同地方の里正として徳望をうたわれて居った人」としていること。その二は事件の日を「八月二十七日」としていること。その三は籠千代の年齢を「十才」と明記していることである。
 以上の諸記録の内容をまとめてみると、大多和四郎右衛門は、東金の岩崎の住人で里正(名主)をしていたが、寛政一九年(一六四二)、当時東金は佐倉藩(藩主は堀田正盛)の領地であったけれども、飢饉に見舞われ、人民は塗炭の苦しみにおちいっていた。四郎右衛門は度々役所へ救済方を嘆願したが容(い)れられなかった。そこで意を決した彼は翌二〇年八月一五日(または二七日)藩の米倉を無断で開き、窮民に施米して、責任を自己の一身に負うて、道庭村(東金市道庭)の石切橋(今は「石切」といっている)で、せがれの籠千代とともに自刃を遂げた。時に四郎右衛門は四八歳であった、ということになるであろう。

大多和四郎右衛門自刃の地(道庭)

 
    

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 さて、天正一八年(一五九〇)徳川家康の関東入国以来、東金は幕府の直轄地として、寛永一八年(一六四一)まで約五〇年間徳川代官によって支配されていたが、翌一九年から佐倉藩主堀田氏(一一万石)の領地となり、それが万治三年(一六六〇)まで一九か年にわたりつづくことになったのである。堀田氏は信州松本から寛永一九年七月佐倉へ入部したのであるが、大多和事件のおこった寛永一九、二〇年は佐倉藩政の最初期であったのである。それだけに、まだ政治体制も整わず、しかも、飛地であったから、一種の継子あつかいも受けたであろう、東金人民にも不満は多かったにちがいない。佐倉藩では領内をいくつかの組にわけて、代官二名をおいて支配させていたが、東金地方は東金組と称されていた。その頃どういう政治が行なわれたか、具体的には何も分からないが、住民の不安は少なくなかったにちがいない。
 だいたい、寛永年間は不作つづきであって、島原の乱(寛永一四年一〇月)もそのために起こったといわれるが、寛永一九年の五月ごろまでは全国的な大飢饉だといわれ、江戸では多数の餓死者を出している。東金地方も推して知るべきである。前記のとおり、堀田氏は同年七月佐倉に入部したが、飛地の東金など、しばらくは不安定な状態になっていたにちがいないのである。藩では飛地の窮民など救うことも出来なかったに相違ないと思われる。大多和事件のおこるのは必然的であったといえよう。
 ところで、四郎右衛門が東金の里正(名主または庄屋)であったということだが、杉谷直道の記録した「上総国山辺郡東金町明細記」(「福島市史資料双書・第一七輯」所収)によると、「東金町庄屋割元名主」の項に、次のような記述がある。
 
 「大多和新三郎 早野治郎左衛門 早野治郎兵衛
  大木太郎左衛門 大多和四郎右衛門
 右之者相勤(め)候義は、慶長十一(一六〇六)丙午年より寛永八(一六三一)辛未年二十六七年之間也。何年ヅツ相勤(め)候事歟(か)不相分(あいわからず)候。
  石橋市左衛門
 寛永八辛未年より明暦元乙未年相勤(む)「二十五ヶ年」」(八〇頁)
 
これによると、当時の東金名主をつとめたのは、慶長一一年(一六〇六)から寛永八年(一六三一)までの二六年間は、大多和新三郎以下五人の者が交代でつとめたが、一人が何年位ずつつとめたかは不明であるという。この五人の中に大多和四郎右衛門が入っているわけだが、その期間は分からないことになる。ともかく、彼の名主職は寛永八年までで終わっていることになる。寛永八年以後明暦元年(一六五五)まで二五年間は石橋市左衛門が名主になっていた。したがって、事件のおこった寛永二〇年は四郎右衛門が名主を退いてから少なくとも一二年位後のことになるわけである。その年四八歳だったといわれる彼は、いわば町年寄みたいな立場にあったわけである。現職の名主ならば、責任上米倉破りをやるわけにも行かないだろうが、町年寄という比較的自由な立場にあったので、敢えて買って出たということが考えられる。なお、附記すると、当時の東金では「東金町内上宿・岩崎・谷の三ヶ所を併せて里長一名を置く。是れを上宿名主と云ふ。」(杉谷直道「東金町誌」)ということで、岩崎の住人であった四郎右衛門は上宿名主となったものと思われる。
 大多和事件は寛永二〇年の八月(一五日か二七日か、いずれが正しいか、判断する材料はない)におこったとされるが、その時分はいわゆる端境(はざかい)期で、貯蔵米が底をつく、ギリギリの時である。我慢の限度を越える際に、四郎右衛門は決行したわけである。おそらく、それは彼「ひとり」で決行したものであろう。こういうばあいには、窮民が大挙して異常行動に出るのが普通であるが、そういう事態になったという伝承もない。四郎右衛門は個人行動を取ったものと思われる。しかし、そのばあいも、大抵は何人かの共謀者があるものだが、四郎右衛門の時、そんな人たちがあったという伝承もない。江戸初期の農民騒動の時には、誰か一人が英雄的に全責任を取って処刑されるケースが多かったが、有名な松木長操(若狭の人、寛永二年の事件)にしろ、また、寛永二〇年から九年後の承応二年(一六五三)一二月の佐倉騒動の立役木内宗五郎にしろ、何人かの共謀者があっても、一人で罪を引受けて死罪になっているのである。四郎右衛門のばあい、一人も共謀者がなかったとは信じられないが、共謀者のことが今まで記録にも伝承にも上ってこないのだから、彼単独の行動と取るよりほかはないのである。いや、それは単独というよりは、孤独な行動といったほうが適切かもしれない。そういえば、市東刑部左衛門(別項参照)の行動も共謀者のない孤独なそれであったようだ。(刑部左衛門は義民的行動をしたのではないという異説もある)
 四郎右衛門は死んだ時四八歳で、長男の籠千代を道づれにしたといわれる。米倉破りの大罪を犯したわけであるから、本人はもちろん、家族も連座はまぬがれなかったであろう。そこで、妻やほかの子供たちはあらかじめ離縁をしておいて、長男だけを道づれにしたものであろう。(あるいは、妻はすでに死し、長男だけが残っていたのかもしれない。)
 四郎右衛門の死は聖者の死のような感じがする。あるいは、殉教者の死といってもいい。誰にも迷惑をかけず、すべてを一身に負って、ひっそりと死んでいった感じである。実に清らかな最期である。彼が自刃した場所には「義人大多和碑」と刻まれた三尺ばかりの小さな碑が建てられていたが、それが、昭和二九年、その死後二九一年目に、かなり立派な碑が内山常治郎によって、同じ場所に建てられた。四郎右衛門の霊もさぞ喜んでいることであろう。