関寛斎(かんさい)(蘭医・北海道開拓者)

386 ~ 415 / 1145ページ
    

1


 寛斎は東金が生んだ人物の中でも、最近とみに有名となり、数種の伝記類が刊行され、その歴史的地位はすでに不動のものとなっている。
 彼は天保元年(一八三〇)二月一八日、山辺郡中村(東金市東中)の吉井佐兵衛の長男として生まれた。幼名を豊太郎と称した。後、一八歳の時に名を務(つとむ)と定め、字を致道(ちどう)とし、医者としての名号を寛斎と称した。母は幸子(さちこ)といい、山辺郡菱沼村(東金市菱沼)の斎藤清左衛門の二女であった。吉井家は村の上農で村役人にもなれる家柄であったが、佐兵衛の人物・経歴については、ほとんど伝えられていない。ここで、寛斎の人柄についてふれておきたい。今、寛斎にゆかりの深い北海道陸別町の関公園に建てられている「寛斎翁碑」(徳富蘇峰題字、佐藤恒二撰文)の碑文の中に、「翁ハ躯幹豊偉、資性剛直、倹素自ラ奉ジ、而モ惻陰(そくいん)ノ情篤ク」と書かれているが、これは寛斎を知るものの文言として、信頼するに足ると思うが、彼は背が高くガッチリした体格で、性格は剛毅でしかも直情的であるが、仁愛の精神に富み、倹素な生き方を理想としていたというのである。
 だいたい、中村周辺は九十九里の砂浜に沿う帯状の湿地帯をなし、俗に中須賀(須賀は砂地の意)という名で呼ばれ、穀物のとれない不毛の地域とされていたが、さらに、江戸時代には旗本・与力らの知行地が入り組んで、小さな村をさらにいくつにも分断支配するという形になっていたため、農民への搾取がきびしく、生活の困難はひどいものであった。当時、この地域の住民の生活状態について、「飢寒ノ深淵ニ沈没セントスルノ生活難、世上之レヲ冷評シテ、八千石ノ蕪嚼(かぶかじ)リ(蕪根ヲ食用トシ露命ヲツナグノ意)ト呼唱サレタリ」(古川可壮編「豊成村宮区沿革誌」)と書かれた記録があるが、「八千石」とは、この周辺三二か村の石高が約八千石(正しくは七千八百二石)あって、それが同じような低生活状態にあったから、そんな言いかたがされたのである。寛斎のことを知るためには、彼がこういう窮乏農村の出身であったことを頭に入れておく必要がある。こんな場所で育つと、自からの力で生き抜く意志と力が養われ、開き直りの反骨と度胸が培われるものである。寛斎のライフ・スタイルは、「蕪かじり」のど根性の発現だったとも考えられる。
 さて、寛斎の幼少時は決して幸福なものではなかった。その基点は、彼が四歳の天保四年(一八三三)六月一三日、母の幸子が死去したことにある。幸子はどういう女性だったか分からないが、おそらくやさしい母であったにちがいない。この不幸は彼の幼少時を暗いものにしただけでなく、その全生涯に深刻な影響を及ぼしたもののようである。そのことを司馬遼太郎氏が「胡蝶の夢(四)」の中で取り上げていることに、筆者は心ひかれるのである。氏は寛斎が「自分は三歳までが一番楽しかった」と晩年語っていたといい、また、「わしにとって母は神になっている」とも話したとし、さらに、「かれの記憶では、かれの亡母が近所の小屋に寝ていた乞食の病者のために食べものを運んでやっていたという」と書き、「そのながい人生において、つねにその情緒をひたしつづけていたのは、信じがたいほどのことだが、生後三歳(満年齢)までの感情であったようである」とのべているのである。彼にとって、亡母はまさに神だったのだ。彼が後年医者になって、仁術を徹底的に施したのも、また、その晩年北海道の十勝原野に農民共同社会を建設しようと夢みたのも、乞食の病人に食べものを運んでやった母の愛情の具現だったといえそうである。彼の生涯は母性思慕(マザー・コンプレックス)の道程だったと考えたい。
 幸子が死ぬと、佐兵衛は後妻をもらった。その女性の名前も性格も分からないが、佐兵衛との間に四人の子(三男一女)が出来たとも、あるいは七人(五男二女)の子が生まれたともいわれるが、強情なところのある寛斎が継母とうまく行ったとは思われない。彼は祖父母(名は不明)のもとにあずけられたというが、さらに、八歳の時に亡母幸子の姉すなわち伯母年(とし)子の嫁ぎ先たる隣村前之内(東金市前之内)の関素寿(俊輔)の家に引取られることになった。素寿夫妻に子がなかったからである。これで彼の生活場所が三転したことになる。
 関素寿については、本篇の別項を参照してほしいが、彼は前之内の君塚兵左衛門の長子に生まれたが、どういう事情でか、同村字新田の今関家に入り、同家の長女年子と結婚した。ところが、その後、今関の姓を関とかえてしまったのである。そのきっかけについては、一つには彼の入った家は今関の分家であったが、何かのことで本家と争いがおこり、元来、独立自尊的な性情の彼は今の字を取って関に改めてしまったという話である。しかし、別説としては、その頃、隣村の関内に今関琴美(別項)という学者があり、それと同姓なのがまぎらわしいので、変えたという説もある。素寿も琴美と同じく塾を開いていた(塾名は製錦堂という)から、自然に競争意識があったと考えられる。素寿には、琴美と姓をかえて、自己の旗識を鮮明にしたい気持があったのだろう。さて、寛斎がこの人に養われることになれば、その学問的薫陶を受けるのは当然のことである。いや、素寿としては寛斎が利発で気の強いのを見て、養育して自分の後継者にするつもりだったのであろう。したがって、寛斎は素寿からみっしり学問を仕込まれることになったのである。こうして、寛斎は一四歳となった天保一四年(一八四三)に、正式に素寿の養子となったのである。関家の生業は農業であったから、彼も百姓仕事はやらなければならなかったけれども、同時に学問修業にも力を入れることになったのである。このことは、彼の運命を変えることにもなるのである。
 
    

2


 寛斎が養父素寿から感化されたことは、いろいろあったけれども、要約すると、三つになると思う。その一つは、生活上のしつけをきびしくつけられたことである。製錦堂の生活訓練は近辺で評判なほどやかましかった。礼儀作法から拭き掃除にいたるまで、寛斎は徹底的に教えこまれた。その二つは、書写・作文の力をウンと仕込まれたことである。彼が記録魔といわれたほど克明に日記・メモ・論文・紀行・書簡のたぐいを書き綴ったのも、素寿の教えを忠実に信奉し実行した結果である。寛斎がもし筆不精であったなら、資料も少ないわけだから、後人が彼の伝記を書くことも不可能になったにちがいない。つまり、彼は筆マメだったので、だいぶ得をしている。その三つは、人格的な感化である。素寿は一田舎学者にすぎなかったが、めずらしく骨のすわった人だったらしい。権勢をおそれず威武に届せず、富貴をうらやまず、また、百姓の卑届に流れず、一個の人間として堂々と生きる気慨を保持していたもののようだ。そのような彼の人格が寛斎の人間形成に深い訓化を及ぼしたことは、はかり知れないものがある。寛斎のバックボーンは素寿によってつくられたといってもいいだろう。
 素寿の学統も不明だし、学殖のほどもはかりかねるが、前之内常覚寺の「製錦堂関先生墓碣(けつ)銘」(佐藤舜海撰文)によると、彼は陶淵明の生き方を範としていたかに見えるが、「凡ソ人生レテハ当ニ常ニ世ヲ裨(ひ)益スベク、死シテハ速カニ朽ツルニ如カズ」と教えていたところなど、寛斎の後年の人生コースは養父の訓言の実践そのものだったという気がするのである。まさに、この父にしてこの子ありの感慨を深くせざるをえない。
 寛斎は百姓の家に生まれ、やがて医者になった男である。しかし、それは百姓を嫌い、医者への上昇を意図したのではなかった。この点は重要なポイントである。あえて言おう、彼は骨の髄まで百姓だった。しかも、「蕪かじり」の最低百姓の意識で生き通したのである。「蕪かじり」は働くよりほかに生きようがなかった。だが、それこそ人間始源の生きざまであった。医者はいわばインテリである。しかし、寛斎にインテリ臭さは微塵もなかった。百姓は、いや人間は労働が生命である。そのことを彼は幼少時の生活の中で学び取った。不幸な境遇がそれを彼に教え、素寿が理念づけをしたのである。その理念を寛斎は忠実に実践した。彼は八〇年にわたる長い人生を「蕪かじり」百姓として生き通したのである。それはもちろん、生活の形をいうのではない。生活の内実についていうのである。
 その百姓寛斎が、なぜ医者を志向したか。動機はおそらく、素寿から「世ヲ裨益」する人になれと教えられたところから発したのであろう。いわゆる医は仁術なりの理想に動かされたところがあったのであろう。しかし、医者になるには相当の資力を必要とする。関家にそれだけの財産があったとは思われない。かなりの冒険であったにちがいない。そこに素寿の意志がどの位働いたかも不明である。百姓の子が医者になるためには、身分上の制限もあった。修業のために師に就くにしても、師側の認知を得られなければどうにもしようがなかったのである。だから、医学修業も容易なことではなかったのである。
 けれども、寛斎はそのような隘路(あいろ)を克服して、佐藤泰然の経営する佐倉の順天堂に入門することができたのである。どうしてそれが可能になったのか。誰か有力な人の口添えでもあったのか、そういうことについては不明である。ともかく、彼は嘉永元年(一八四八)一八歳の時に、順天堂の泰然の門下生となったのである。これは、大いなる幸運といわなければなるまい。
 
    

3


 佐倉の順天堂は佐藤泰然が天保一四年(一八四三)一〇月開いた蘭方医学の病院である。その二月前の八月、彼は佐倉藩主堀田正睦(よし)に招かれて佐倉へ来たのであるが、その時四〇歳であった。彼の名声はすでに高く、天保九年(一八三八)五月江戸の薬研堀(やげんぼり)に和田塾(彼はその頃母方の姓和田を名のっていた。佐倉移居後は、本姓佐藤を名のる。)を経営して、多くのすぐれた門弟を養っていたにもかかわらず、あえて、佐倉へ移居したのである。移居したについては、いろいろな事情もあったようであるが、当時、蘭方医学は登り坂にあったから、彼の名声を慕う諸藩の士は佐倉に蝟(い)集するありさまで、順天堂は大いに繁栄していたのである。順天堂は特に外科を得意としていた(泰然は外科が専門であった)が、患者も房総各地はもちろん関東一圓、遠くは信州などからもやってきて、門前市をなすというありさまであった。
 佐藤泰然は英傑といってもよい高邁な識見と高潔な人格の持主であって、当時としてはもっとも進歩的で開明的な思想を抱持していた。彼は蘭学をやった人だけに、早くから開国論者で政治にも一見識を持ち、正義感が強く、自由主義者で、人間を身分や家柄で差別することを非常に嫌っていた。そんな人物であったからこそ、上総の百姓のせがれ寛斎をも受け容れたのであろう。そして、寛斎がこういう師に接し得たことも、めったにない幸せだといえよう。彼は泰然から医学を学ぶとともに、人間としての正しい生き方を享受したのである。
 泰然が佐倉へ移った理由の一つには、藩主の堀田正睦が蘭癖と評されたくらいの蘭学好きで、その影響から佐倉に西洋的な前向きの雰囲気があったことが、泰然に取って好ましいところがあったためということも考えられる。その雰囲気は、やがて寛斎の眼を開かせる効果もあったにちがいないのである。
 東金と佐倉との距離はさほど遠くはない。しかし、通学できる近さではない。寛斎は塾生のために設けられた寄宿舎に入ったのであるが、寄宿生はだいたい百人前後はいたものと思われる。塾生には二種類あって、それを原書生・訳書生と呼んだ。原書生(オランダ原書によって学ぶ者)とは諸藩から派遣された武士で、経費は藩から支給されていた。訳書生(原書でなく訳書によって学ぶ者)というのは、食客生ともいい、いわば学僕であって、働きながら学ぶ少数のアルバイト学生であった。しかし、全くタダではなく、学費と食費とをあわせて一か月二分(一両の半分)くらいは必要であった。寛斎はこの訳書生すなわち学僕となっていたものと考えられる。一か月二分の経費といっても、一年では六両を要する。嘉永元年(一八四八)ごろの米価は一両で八斗ぐらい、一般物価も高騰しつつあった。寛斎にとっては相当の負担であったろう。彼みずからが記すところによると、「(順天堂で)修業中、実家養家トモ貧ニシテ、修業料モ指支(さしつか)ヘ、漸ク一年バカリハ仕(し)送リクレ候ヘドモ、其ノ後ハ行届カズ、春秋ノ間遠方ヘ種痘ノ為メ出張等ニテ取続ケケル」というありさまで、実家と養家からの仕送りははじめの一年だけで、あとはアルバイトでおぎなったというのである。
 ところで、学僕というのはどういう生活をしていたかというと、寛斎より四年ほどおくれて嘉永五年(一八五二)に入門した山内堤雲(六三郎)の語るところによると(堤雲は泰然の甥であった)、学僕は玄関脇の一間(もと駕籠かきたちの控所)にいて、朝は未明に起きて調合所や診察所の掃除をし、朝食後は製薬、午後は講義の書取りや手術の手伝いをさせられたという。寛斎が種痘のため出張したというのも、よくあったらしく、年代がすすむと房総各地で種痘が盛んに行なわれるようになって、長期間出かけることもあったらしい。そんなアルバイトで稼いでは学費の足しにしたのである。
 このようにして、苦労しながら従学しているうち、寛斎の真面目さと理解の早さは、おのずから師泰然はじめ先輩たちの認めるところとなり、だんだん塾内でも重きをなすようになった。そして、嘉永四年(一八五一)に入ると、泰然の助手として、手術のアシスタントをも勤めるようになった。はじめ、ある農夫の膀胱(ぼうこう)手術に立会った時は、患者が号泣するので仰天してしまい、逃げ出そうとしたこともあったが、ようやく馴れて、しまいには師泰然に代わって手術が出来るようになっていった。そして、師の指令によって、手術の際のプロセスをいちいち克明に記録して、「順天堂外科実験」と題する冊子にまとめたのである。これは順天堂のみならず、日本外科医学史における貴重な文献として、不朽の価値をもつものとされているのである。何よりもその記載がリアリスティックで的確であることにおどろかされる。これは、少年時に養父素寿によって鍛えらられた書記力の見事な具現というべきだろう。
 
    

4


 かくして、寛斎は四年ほど佐倉で研鑚を積み、嘉永五年(一八五二)一二月、郷里へ帰って来た。医学修業のための四年間は、決して十分な時間とはいえない。しかし、寛斎には環境的にも経済的にも、それ以上の時間は費せなかった。彼もすでに二三歳である。そして、寛政八年(一七九六)生まれの養父素寿も五七歳の高齢になっていた。いつまでも修業をつづけてはいられなかったのである。郷里に帰った時のことを、彼は「家日記」に
 
 「嘉永五年十二月、師家ヲ去リ、仮リニ業ヲ開ク」
 
と、きわめて簡単に書いている。簡単すぎて分かりにくい。師家を去って何処へ行ったのか書いてないが、むろん帰郷したということだろうし、業を開いたというのは医業を開いたにちがいなかろう。が、開いた場所もいっていないが、これも郷里と考えるよりほかなかろう。ただ、「仮リニ」とはどういうことなのか。
 その問題を考える前に、言っておかなければならないことがある。それは、彼が帰郷した一二月の二五日に、結婚していることである。妻となったのは、養父素寿の実家の当主君塚左衛門(長保)の二女(素寿の姪になる)あいである。彼女は天保六年(一八三五)の生まれで一八歳だった。寛斎とは五つちがいである。彼は長身で体格のいい方であったが、あいは小柄で可愛らしいタイプで、きわめて貞順であったが、シンはなかなか強く、いわゆるシッカリ者であったようだ。寛斎にとって、これ以上の良妻はないといってもよく、良人のあとをどこまでもついてゆくというタイプの女性であった。
 寛斎が帰郷したのは、この結婚問題が引金になっていたと考えられる。養父母にしてみれば、もう四年も医学の勉強をしたのだから、郷里へ帰って嫁をもらい開業してほしいという気持だったろう。無理もないところだ。しかし、寛斎の本心はどうだったろうか。できれば、もうしばらく修業をつづけ、医師として名をあげたいと思っていたのではないか。それに、師泰然らにも期待されていることだし、後ろ髪をひかれる思いがあったろうと考えられる。それが「仮リニ業ヲ開ク」ということになったものであろう。この問題について、鈴木勝氏は「郷里開業中でもまだ順天堂に塾籍はあって、随時母塾(順天堂塾)に出張していたと見ることは許されないか」(「関寛斎の人間像」)と言い、川崎已三郎氏は「寛斎は前之内に仮開業したが、なお研究のために順天堂に顔を出していた」(「関寛斎」)と考え、戸石四郎氏は「彼が結婚後も順天堂に出入りし、依然として深いつながりをもって修業を続けており、郷里の東金に腰を落ち着けて本格的に開業する意志がまだ固まっていなかったことを推測させるのである」(「関寛斎・最後の蘭医」)と推理している。
 この三氏の意見はそれぞれ正しいと思う。まとめてみると、寛斎は帰郷後も順天堂とのつながりを持ち、研究をつづけていたこと、前之内に落ち着いて開業する気持にはなっていなかったこと、ということになるだろう。なお、前之内での開業の場所がどこかということが研究者間で問題になっているが、おそらく彼の住家たる関家であったと思う。
 結婚後も開業しながら佐倉に通っていた寛斎は、嘉永六年(一八五三)の五月に、婦人の腹水患者に対して、自分の手で穿腹術を行なっている。そして、その年中に「順天堂外科実験」の記録をまとめている。さらに、その翌安政元年(一八五四)二月六日に、待望の長男が出生した。これが生三(せいぞう)である。
 ところが、それからちょうど二年後の安政三年(一八五六)二六歳の寛斎は、郷里を離れて、銚子で開業することになるのである。このことを、村上一郎氏の「蘭医佐藤泰然」には、巻末の「佐藤泰然略年譜」の安政三年の項に、「関寛斎順天堂塾に於ける修業成り銚子に開業」としるしている。この「修業成り」のことばには注意したい。これは、彼が順天堂塾を卒業したという意味に取れる。順天堂塾の修業年限が何年であったか、そんなきまりがあったかどうか、忖度(そんたく)できないが、寛斎の修業はこれでおわったこと、師の泰然から開業の許しが出たことになると見られよう。村上氏はどんな意味で「修業成り」という表現をしたか分からないけれども、銚子開業は後述するように泰然の推薦もあったことだし、右のごとき解釈をしてもまちがいではないだろう。
 このような視点から、例の「仮リニ」をもう一度考えてみると、あの時点では師泰然の開業許可がまだおりていなかったのではないか。ただ、それが寛斎の実力がまだ不十分だから許可しなかったのか、それとも実力は出来ているが、さらに修業させて名医にしようという泰然の意向によったものか、判然しかねる。いずれにせよ、開業には師匠の認可を必要としたであろうから、「仮リニ」をそのような視点から考えてみたらと思うのである。
 そこで、寛斎の医学修行が安政三年の二月までかかったとすると、入門の嘉永元年から約七年修業したことになる。それを帰郷仮開業の嘉永五年一二月をくぎりとして前後に分けると、前期が約四年、後期が約三年となる。これによって、寛斎の医学修業は終了したことになる。そのまま郷里に落ち着いて、老いた両親に孝養をつくしながら、前之内での開業をつづけるか、それとも、どこか他所へ出て飛躍をはかるか、それが問題になることだ。素寿は非常に親孝行な人で、自分が六〇歳になるまで養父母に孝養をつくしたという。とすれば、寛斎に対してもそれを望んだろうことは推察できる。寛斎も親を思う心は深かったにちがいない。しかし、運命は皮肉なものである。安政三年二月、彼は銚子で開業することになり、妻子とともにその地へ移り、そこでまた、一人の偉人物の知遇を受け、さらに新らしい運命に導かれることになる。
 
    

5


 いったい、寛斎が順天堂に学ぶことになったこと自体が大きな問題であった。もし彼が普通の医者になれる程度の人物だったならともかく、田舎者ながら偉材の持主であったから、思わぬ世界へ入って行くことにもなったのだ。彼が佐藤泰然に出会ったこと、そして、その一門の卓抜なグループの一員にされたことが、彼の運命を大きく変えたのである。順天堂の存在は単なる一医院ではなく、大坂の適塾とともに、新しい医学界の二巨星であって、時代を革新する人材の養成所にもなっていた。適塾はいうまでもなく緒方洪(こう)庵の主催する蘭学塾で、蘭医の養成を目的としながら、多分に洋学的な傾向を持ち、それ故か、大村益次郎・橋本左内・福沢諭吉・大鳥圭介のごとき、天下国家を動かす人物を輩出していることは周知のとおりである。それに対して、順天堂は蘭医そのものの養成に力を入れ、医術的教育に中心をおいていた。だから、政治色は稀薄であったが、名医をたくさん世に送り出している。泰然の後をついだ佐藤舜海(後に尚中)・松本良順(後に順)・林洞海・司馬凌海・林董(ただす)等、錚々たる傑物を出している。この人たちは医師としてすぐれていたばかりでなく、人間としてもきわめて優秀であった。おのずから天下を動かす力をもち、事実、国家革新に大きな貢献をしているのである。寛斎はこのグループの仲間入りをしたのである。幸か不幸か、彼は田舎医者の楽な生活を送るわけには行かなくなっていたのである。
 寛斎が銚子で開業するにいたったのは、順天堂の勢力がすでに銚子に及んでいて、それが彼を招いたといえる。銚子に順天堂医学が入ったのは、天保一三年(一八四二)一〇月、泰然の門人三宅艮(ごん)斎が開業したことにはじまる。(天保一二年という説もある。)艮斎は肥前の人で祖先代々医業をしている家に生まれ、長崎へ出て蘭方を学んでいる時に泰然と知りあい、後に師事するようになったが、彼はなかなか野心家で国事に関心を持ち、江戸へ出て幕臣たらんとしたが、うまく行かなかった。艮斎が銚子へ来たのは、まだ二六歳(彼は文化一四年の生まれ)という若い時だったが、おそらく泰然の手引きによったものであろう。彼は銚子の名士たるヤマサ醤油七代目当主浜口梧陵(儀兵衛)や、ヒゲタ醤油一一代当主田中玄蕃と親しい交友をもった。しかし、それから二年後の天保一五年(一八四四)一月、泰然の推挙で佐倉藩主堀田侯に禄仕することになったので、銚子を引き上げてしまった。在銚期間は二年に満たない短い間であった。艮斎は銚子へ来た蘭医の第一号であったが、町民の受けもよく、惜しまれて佐倉へ去って行ったのである。
 泰然は艮斎を佐倉へ連れもどしたことに責任を感じて、その後、時々銚子へ出張診療をし、また、養子の舜海に代理をさせたりして、ともかく銚子との関係が途切れないようにしていた。それがやがて寛斎の起用となり、彼の銚子移居となったのである。
 寛斎が銚子に開業したのは、前記のとおり安政三年(一八五六)二月のことであった。三宅艮斎が銚子を去ってから一二年目のことである。寛斎の住居は銚子の荒野(こうや)(のち「興野」とかわる)で浜口梧陵邸に近いところだったという(一説では、梧陵の家作だったという)。寛斎は泰然からの紹介もあって、梧陵と交際を結んだ。このことは、それからの彼の人生に大きな転換をもたらすことになるのである。
 梧陵は紀州の浜口家の分家に生まれたが、銚子本家の養嗣子となった人で、学問好きで教養も高く、剣道の達人でもあった。生まれつき気宇の大きな人間である上に、なかなかの人情家でもあった。彼がヤマサ醤油を継いだ頃はいわゆる関東醤油の上昇期で、隆々たる繁栄を誇っていたから、その財力の上に立って、元来派手好きな彼は社会事業などに多額な金を支出し、人材を発掘してはその育成をはかっていたのである。寛斎は梧陵に会うと、大いに気に入られたらしく、梧陵は寛斎の大成のための有力なスポンサーとなったのである。すなわち、寛斎が銚子へ来てから三年八か月後の万延元年(一八六〇)一一月、彼は梧陵の熱心なすすめと援助によって、長崎へ留学するのである。その後も梧陵の友情と恩恵は長くつづくのであるが、単に物質的な恵沢だけではなく、精神的に深い示教をも受けて、寛斎の人間形成に佐藤泰然にも劣らない力を及ぼすようになるのである。
 銚子での寛斎の医療は梧陵らの後援もあって大変好評を得たようである。とにかく彼は仁術の精神を大いに発揮して、貧者弱者へあたたかい扱いをし、しかも、腕がいいときているから、ずいぶんはやったらしい。ところで、彼が銚子へ移ってから二年目の安政五年(一八五八)の夏、江戸でコレラが大流行し、二〇万人もの死者が出来るという大変事がおこった。その際、ちょうど江戸に出ていた梧陵は、この恐るべき伝染病が江戸と水路の交通を持つ銚子へ蔓延したら一大事であると考え、その予防策を講ずる必要から、寛斎を江戸に呼んで、対策を研究してもらうことにしたのである。寛斎は直ちに出府したが、梧陵はかねて親しくしていた三宅艮斎と林洞海をお玉ケ池の種痘所(のち西洋医学所となりさらに東京大学医学部となる)に来てもらい、寛斎に引合わせた。艮斎とはこの時が初対面であったが、林洞海は佐藤泰然の娘婿で、後に将軍の侍医となり法眼に叙せられた人物である。寛斎は艮斎・洞海の二人から教示を受けたのであるが、そのことを杉村楚人冠の「浜口梧陵伝」には
 
 「寛斎は臨床的にコレラ患者の治療法を学び、又実地に就きて種々の方面より予防法をも研究する事を得たり。斯(か)くて一通り研究を終へたる寛斎は、更に梧陵の命に依りて、予防薬及び治療に要する種々の薬品並に書籍等を購入して、銚子に帰りたるが、さきに梧陵の予言したるに違はず、銚子は亦此の時すでにコレラ流行地となり居たるなり。」
 
と書かれている。このコレラ騒ぎの時には、東金の豪商大野伝兵衛(秀頴、別項参照)が家伝薬の折衝飲を無料で配布し救済につとめたのであるが、寛斎のばあいは江戸の患者たちを救助するのが目的ではなかったから、研究に終始したものと思うが、「実地に就きて」という文句から考えると、多少は患者治療に当たったかもしれない。しかし、あくまでも銚子での予防措置を講ずるのが目的だから、予防や治療の方策を学び薬品等を手に入れると、急遽銚子へ引き返したものと考えられる。だが、帰って見たら、銚子は「すでにコレラ流行の地」となっていたので、直ちに揩置を講じたところ、コレラの蔓延を防止することが出来たのである。それは、結局西洋医学の卓越した力によるものであり、また、適切な方策を取った梧陵と寛斎のおかげでもあった。寛斎の令名はこれによって大いにあがったのであった。
 
    

6


 コレラ事件によって、浜口梧陵の寛斎への信頼は倍加したらしい。梧陵は寛斎を銚子の町医で終らせたくないと思った。そして、長崎へ留学することをすすめたのである。蘭医として大成するためには、長崎留学は是非必要であるし、それに、その頃オランダの名医ポンペが来ていることを梧陵は聞いていたので、学費は私が心配するから、長崎へ行きなさいと強くすすめたのである。寛斎はそのすすめを有難いことと感謝したことはもちろんであるが、家庭の事情を考えるとちゅうちょせざるを得なかった。彼はすでに三人の子持であった。銚子へ来る前に長男生三が生まれていたが、銚子へ来てから、長女スミ・二男大介が出来ていた。その上、前之内には老いた養父母がいる。学費は出してくれるとはいえ、貰(もらい)い切りには出来ない。借金は決してするなというのが素寿の教えでもあった。そこで、梧陵に丁寧にことわることにした。しかし、梧陵は後のことは心配するなとしきりにすすめる。しかも、順天堂の佐藤舜海も佐倉藩主の命令で長崎に行くことになったという話が伝わって来たし、また、佐藤泰然の実子で幕府の奥医師松本良甫の後継者となっていた寛斎の親友松本良順(のち、順という)も、これより先き安政四年(一八五七)には、幕命によって長崎留学をしポンペの指導を受けているのである。寛斎の意も動かざるをえない。そこで、彼はついに梧陵の好意を受け容れることにしたのである。
 梧陵は経費として百両を支出してくれた。寛斎はその半分五〇両を銚子にいる妻あいの手許に残し、あとの五〇両を持って長崎へ出発した。あいは気丈な女だったから、五〇両には手をつけないで、織物(彼女はこれが得意で、家族の衣料は全部手製していたといわれる)の内職をして凌いだという話である。寛斎は、かくして、万延元年(一八六〇)一一月三日、佐藤舜海および同行の佐々木東洋とともに江戸を旅立った。東洋は江戸の人で寛斎より九歳若く、順天堂では寛斎と同じく学僕として苦労したほうだった。一行は同年一二月二一日長崎に到着し、寛斎は同月二三日、ポンペの医学伝習所に入門した。この年、寛斎は三一歳であった。
 寛斎の人生コースは、偉人物との何回かの出会いという特異性をもっている。第一には佐倉での佐藤泰然との出会い、第二は銚子での浜口梧陵との出会い、第三は長崎でのポンペとの出会いである。ポンペは外科医として超卓した人であったが、また、人間としては稀有のヒューマニストであった。司馬遼太郎氏によれば「医師とは修道僧のようなものだと信じて、それを精神の核としている」人であり、「学生たちの一人一人の胸に全霊をもって捺(お)しつけたような教育者」でもあった。(引用は「胡蝶の夢」(三))こんな人物に接し得た幸福は、はかり知れないものがあった。日本人の持たない不思議な魅力には、寛斎も深刻に感化されたにちがいない。
 ポンペとの師弟関係からいうと、寛斎らは表向きはポンペの直弟子ではなく、直弟子は松本良順ひとりで、他は皆良順の弟子ということになっていた。授業の日課は午前中が診療で、午後がポンペの講義、夜は良順や舜海の指導で復習を行なった。寛斎らはオランダ語が分からないから、それが分かる良順や舜海がもう一度講義することにしたわけである。外科実験のための動物解剖なども行なったが、寛斎はそのほうは得意だった。彼はポンペの講義や治療の内容を丹念にまとめ、「朋百(ポンペ)氏治療記事」「ポンペ氏講義筆記」などのノートを残している。これらは医学史上の貴重な文献である。
 松本良順の弟子に司馬凌海(りょうかい)があった。彼は佐渡の農民の生まれで寛斎より九歳若かったが、語学の天才で、良順とともに長崎に来てポンペの講義を聞いていたが、寛斎と親しくなった。彼は「七新薬」という上中下三冊の本を書き、寛斎に校閲を頼んだ。寛斎はひどく感心し、浜口梧陵に呼びかけ金を出してもらって、大坂の秋田屋という書店から出版するようにした。この書はキニーネ・モルヒネ・レーフルタラーン(肝油)・吐酒石・硝酸銀・ヨヂーム・サントニーネの七種の新薬について書いたもので、医学界を益すること多い本となったのである。
 寛斎は長崎滞在中、いろいろと見聞をひろめることが出来たが、安政六年(一八五九)七月再度来日した有名なシーボルトを数回佐藤舜海や司馬凌海とともにおとずれて、大きな感動を受けたことなど、一生忘れえない経験だったにちがいない。また、変わったこととしては、文久元年(一八六一)幕府の軍艦咸臨(かんりん)丸(艦長勝海舟)の船医(補欠医官)となって、特異な体験をしたこともあった。が、学費に乏しい彼は極度に生活を切りつめねばならず、衣服などもいわゆる着たきりすずめで、いつも乞食のような姿をしていたということである。これは、佐倉順天堂の時代も同じで、はじめは笑われたが、しまいには尊敬を受けるようになったとも伝えられている。こういう状況ではそう長く留学生活を続けるわけにも行かなかった。それに、佐藤舜海も都合で佐倉へ帰ることになったし、また、ポンペもその年一一月には帰国することになっていた。そんなわけで、結局、彼は一年一か月ほど従学しただけで、文久二年(一八六二)一月二四日舜海とともに長崎を立ち、四月銚子に帰って来たのである。
 この早い長崎引上げは、寛斎自身も不満だったに相違ないが、浜口梧陵も失望した。医学修業も中途半端で終わった形で、近代医学の精粋を究め得ないままで済ましたわけだから、後に悔いを残すことになってしまった。が、寛斎の家庭事情からすれば、止むをえないことだったにちがいない。彼の長崎滞留の生活は「長崎在学日記」に書き残されている。
 
    

7


 銚子に帰った寛斎は、ふたたび町医生活に戻った。銚子の人たちは彼の帰来を歓迎し、争って医療を受けに人々がおとずれた。妻のあいもホッとしたことであろう。彼の長崎帰りを聞き知った越前福井藩から医学生四人が押しかけて来て、ポンペの講義筆記を謄写して行くようなこともあり、寛斎の名声も高まって行った。
 ところが、その年すなわち文久二年の一二月になって、寛斎の身にさらに新らしい変化がおこるのである。彼の友人で同じ佐藤泰然門下の医師に須田泰嶺という人物があった。彼は信州の生まれで、家は代々医者であったが、年は寛斎より五歳ほど上だった。泰嶺はこの一年前の文久元年に、四国阿波徳島の蜂須賀藩(二五万七千石)の藩医に選ばれ江戸詰となっていた。世話好きな彼は阿波藩の国許で医師を求めているので行く気はないかと寛斎に呼びかけて来た。寛斎はどうしたものかと、梧陵の意見をたたいた。梧陵は医学修業をもう五年くらい続けてみたらどうか、学費は自分が心配するからと持ちかけて来た。寛斎はいろいろ考え、もちろん養父母にも妻にも相談してみた。場所が遠いし宮仕えは好ましくなかったが、さりとて大藩の藩医になることは大出世なので、ことわるには惜しい気もする。この上勉学を続ければ、借金はますます多くなる。そこで、阿波徳島行きをついに決意したのである。梧陵は「後悔するなよ」と言ったが、別に怒りはしなかった。しかし、この言葉は寛斎の胸にいつまでも残ったのである。
 銚子を去ることも、寛斎にとってさびしいことであった。安政三年二月に荒野で開業し、三年八か月後の万延元年一一月長崎へ留学し、文久二年四月に銚子へ帰ってきたが、わずか八か月過ごしたばかりでまた離れることになったわけである。家族はずっと銚子にいたけれども、寛斎自身の銚子ぐらしは四年四か月間にすぎなかった。短いその間に、寛斎は多くの人たちとあたたかい交際を持つことができ、患者たちからは心からの感謝を受けていた。銚子の知友との交わりは、その後も長くつづいた。それは、東中の吉井家に残されている多くの書状が証明するところである。
 さて、寛斎の徳島行きについて、いちばんデリケートな心境にあったのは、養父の素寿だったのではなかろうか。「製錦堂関先生墓碣(けつ)銘」によると、彼は「富貴ニシテ人ニ屈スルヨリハ、貧賤ニシテ志ヲ肆(ほしいまま)ニスルニ若(し)カズ」という考え方をしていた。これをそのままに受け取れば、仕官には反対のはずである。事実、反対したであろう。が、説得されて承知した後で寛斎を戒めて「苟(いやし)クモ志ヲ得ザラバ」陶淵明のようにいつでもやめて帰って来いといい、寛斎が父上も徳島へいっしょに行ってくれませんかとすすめたところ、素寿はお前が殿様の前でヘコヘコするのなど見たくないから、行くのはいやだと、ことわっている。ここに彼の気慨と意地が見られ、面目躍如たるものがあると言える。彼は単なる村夫子ではなく、不屈の学者気質の持主であり、「蕪かじり」百姓の意固地をもっていたと考えられる。彼もすでに六七歳である。今さら遠い徳島まで行く気持もなかったであろう。しかし、寛斎はあきらめず、徳島へ赴任してからも度々すすめ、慶応二年(赴任後四年目)の九月の記録では旅費を送って是非にと勧奨してみたが、ムダであった。
 こうして、寛斎は翌文久三年(一八六三)一月二九日、まず単身で江戸を出発して徳島へ向かった。これは、徳島藩主蜂須賀斉裕(なりひろ)が参勤交代で国許へ帰る行列に加わって行ったのである。その後、同年一一月末に彼は郷里へ帰って来て、銚子の家宅を始末し、翌元治元年(一八六四)三月一八日妻子とともに銚子を立ち、五月八日、徳島の富田裏掃除町の住居に落着いたのである。その際、思いがけない災難があった。銚子から船便で送った家財が暴風のため一切流失してしまったのである。これは大きな打撃であった。
 これから長い徳島生活がつづく。明治三五年(一九〇二)四月一四日、北海道へ移住するまで、三九年にわたる間、寛斎一家は徳島でおくることになるのである。彼の年齢でいうと、三四歳から七三歳までである。その間、維新の戦乱に出征したりしてはいるが、生活の本拠は徳島に置かれていたのである。寛斎の全生涯のうちでその半分近くは徳島で送られたことになる。それだけにもっとも深い関係もあったわけである。
 
    

8


 徳島は保守性の強いところであった。徳島藩内の空気も多分に封建的であった。そこへ、百姓あがりの蘭医寛斎が二五人扶持の士分となり、藩主の側近に侍するところから上士待遇で仕えるのであるから、決して楽な勤めではない。他の藩士たち、特に漢方医ばかりの藩医たちからは、当然白眼視された。寛斎もずいぶん戸惑いを感じたことであろう。そして、養父素寿の苦言を思い出して逃げ出したくもなったらしい。しかし、幸いなことに、藩主斉裕(なりひろ)からは愛せられたようだ。斉裕は一一代将軍家斉の二二番目の息子で天降り的に一三代藩主となった人物である。こういう藩主に対しては重臣たちも複雑な気持を抱き勝ちなので、斉裕は孤立的な存在となっていた。ところが、寛斎は素朴で誠実な人柄だったから、斉裕も親しめたのであろう。斉裕は政治力はなかったが、教養はあるほうで、洋学などにも関心が深く開明的なところがあり、蘭方を好んでいた。そんな点が寛斎には都合がよかったし、医者としての腕もたしかだったから、おのずから信頼されるようになり、彼も心から臣事することにもなっていった。
 しかし、斉裕も不幸な君主であった。幕末多事の際に、自分の施策を行なおうとしても重臣たちにはいつも反対され、唯一人の味方たる家老の安芸頼母が暗殺され、しかも、世子の茂韶(もちあき)とは意見が合わなかった。斉裕は公武合体をねらいとしていたが、茂韶は急進的で尊皇討幕論をとなえ、父の意に反する行動を取りがちだった。そんなわけで、斉裕はノイローゼになってしまい、慶応四年(一八六八)一月六日世を去ってしまう。寛斎は心をこめて診療にあたったが、効果はなかった。その時、彼は致仕を申し出たが、許されなかった。
 世はすでに維新戦乱期に入っていた。同年二月一四日茂韶は兵を率いて討幕軍に加わり、寛斎も軍医として従軍することとなり、四月には三条実美(さねとみ)に随行して江戸に向かい、五月の彰義隊の変の時には、負傷者の手当にあたり功を立て、西郷隆盛に激賞されるにいたった。官軍内での寛斎の評価もだんだん高まり、六月八日付で大総督府から奥羽出張病院頭取を命ぜられた。もはや彼は一藩医ではなく、五千石クラスの大旗本くらいの地位にのぼっていた。
 奥州へ出征するに際して、寛斎は斎藤竜安という門弟を同行させている。アシスタントとして連れていったのであるが、この人物は同郷たる山辺郡菱沼村(東金市菱沼)の生まれで、生年は弘化三年(一八四六)ということだから、寛斎より一六歳年下である。名ははじめ良安といっていたが、奥州へ行ってから竜安と改めた。彼は寛斎の最初の門人だといわれるが、順天堂塾でも学んでいる。それは、村上一郎氏の「蘭医佐藤泰然」所載の順天堂門人名簿にも彼の名があることで知れるのである。実は、寛斎が文久三年一月徳島へ赴任した時、竜安(その時一八歳)も伴われて徳島でしばらく寛斎の助手をつとめていたのである。彼は後に北海道開拓使医官となって活躍し、退官後は岩手県その他の病院長などをつとめたが、明治四二年(一九〇九)五月一日、平市で没している。享年六四歳であった。なお、竜安が奥州へ出張した時は寛斎の個人的な手伝いではなく官軍の下参謀から「関寛斎門人斎藤竜安奥州出張ニ付キ、関寛斎附属仰付ケラレ候」という辞令があたえられていた。(斎藤竜安については鈴木勝著「関寛斎の人間像」(九二-九八頁)にくわしい記述があるので参照されたい)寛斎にはもう一人附属医師があった。それは中村洪斎(こうさい)という男で、寛斎の友人古川洪堂の門人であった。ほかに、寛斎は米吉という家来を使っていた。
 寛斎は慶応四年六月一四日、品川を軍艦で出発、同一六日に平潟港(北茨城市)に上陸し、地福院という寺に野戦病院を開いた。その後、戦局が北方へ移るにしたがって、七月二七日には平町の平源寺に病院を移した。木戸・富岡・浪江などで戦闘が転回され、負傷者も多く出たが、官軍の優勢は掩うべくもなく、九月二二日(九月八日改元され、明治元年となる)、会津鶴ケ城が落ち、ようやく奥羽戦争も終局を告げ、一〇月一日から官軍の引上げがはじまり、同二六日寛斎らは平の病院を閉鎖して翌二七日六〇名の傷病兵を護送して一一月四日土浦に着いた。そこからしばらくの道程は寛斎は立派な駕籠に乗せられ、大名扱いで「下に、下に」の掛け声でおくられたという。一一月八日東京に到着、そこで寛斎の任務は終了した。それまでに、彼の手がけた傷病兵は六百名に上り、寛斎の献身的努力に対し太政官から金百両の恩賞金があたえられた。
 かくて、維新戦争が終結すると、出世欲のない寛斎は病気を理由に辞職願を出したが、許されなかった。彼の親友であり恩師でもあった松本良順は幕府への義理から、官軍を敵として戦ったが、敗れて捕えられ、死罪にされそうになっていた。それを聞いた寛斎は救援のために奔走したが、幸いにして禁錮刑に処せられただけで釈放されることになった。そこで、寛斎はふたたび辞表を当局に提出して、徳島へ帰ることにした。これが一二月一七日のことであった。
 
    

9


 徳島へ帰還した寛斎は、藩主茂韶(もちあき)に対して、医事刷新の建白書を提出した。戦争の体験から蘭方医学の大幅導入の要を痛感したからである。これが取り挙げられて、徳島藩医学校が創立された。これが明治二年(一八六九)三月のことである。寛斎は同校の附属病院長に任命された。翌三年の一〇月、彼は思うところあって、寛斎の斎の字をとって、関寛(ゆたか)と称するよう改めた。斎という旧式な名を捨てて、新しい生き方をしようという気持だったのだろう。(しかし、ここでは今までどおり「寛斎」の名で通すことにする)
 寛斎は病院長ということで一等教授になっていたが、同年一一月一日病院の開院式が行なわれた際、日頃横暴だった伊吹という小参事を医官らで胴上げをし床上にたたきつけた。その主謀者は寛斎だった。その起因は藩制改革で医官の待遇を他の官員よりも低くしたことに対する不満から来た報復だった。寛斎の反骨の爆発というところだろう。この事件で寛斎は免職になり百日の謹慎を命ぜられた。ところが、翌四年一月に兵部省から寛斎に出頭するよう命じて来たので、藩庁ではあわてて寛斎を復職させ、もとのとおり一等教授・病院長の地位に戻した。が、寛斎は頑として受け付けなかった。そして、兵部省へも出頭しなかった。
 ところが、この年四月二六日、郷里の養父素寿が死去したという知らせが届いた。これは大きなショックだった。寛斎が素寿と会ったのは、徳島へ単身赴任した後、家族を連れに帰郷した文久三年一一月末から、翌元治元年三月中旬までの間に数回顔をあわせたのが最後であった。おそらく、寛斎の心には深い悔いが残ったことであろう。養父死去の知らせがあっても、おそらくすぐに帰郷は出来なかったものと思われる。
 同年一二月になって、今度は海軍省から出頭を命ぜられたので、寛斎は拒み切れず上京して十一等出仕という軽すぎる地位にも拘わらず、検梅法を実施させるべく、いろいろ運動してみたが、ハネつけられたので、翌年一月一四日、四〇日足らずの勤務をしただけで辞任してしまった。その時、長崎時代親しくしていた司馬凌海が大学東校の教授をしていたが、寛斎に対して山梨病院長になって、検梅法を実施してみてはどうかとすすめたので、では一年間だけやろうといって甲府へ赴任したが、約束どおり一年たつと、さっさと徳島へ帰って来てしまった。これが六年(一八七三)五月二五日のことである。この時点で、彼は世間的な出世・栄進の道を全く捨て去り、裸の人間に戻る覚悟をきめたのであった。そして、七月には徳島の住吉島村(現・住吉町)で開業し、九月には、家禄と士族の籍とを奉還し、一介の平民となったのである。その時、彼が藩庁に提出した願書には、左のような文言が記されていた。
 
 「私儀、庸切(ようせつ)(拙劣な)ノ医療ヲ以テ、去ル文久二年十二月擢用ヲ蒙リ、……薄技(はくぎ)ヲ以テ旧禄因循素餐(そさん)(ろくな働きもなく給料をもらうこと)シ居リ候儀、恐縮慚愧ノ至リニ存ジ奉リ候。今般、家禄奉還シ仕リ、国計九牛ノ一ニモ充(みた)サレ候ヘバ、民籍編営ノ後、素習ノ医療ヲ以テ、一家生計相営ミ、渉世(しょうせい)(世わたりすること)仕リ度ク候。」
 
これをしたためる時、彼の胸中には養父素寿の訓言がよみがえっていたのではなかろうか。この時、寛斎四四歳であった。彼の前半生はここに終焉を告げたのである。
 
    

10


 さて、これから約三〇年にわたる寛斎の町医生活がはじまる。それは、泰然やポンペから教え込まれた医精神の忠実な実践活動であった。医術は貧者と弱者のためにあることを前提として、富者からは大いに医療費を出させるが、貧者は無料にするというやり方を徹底させて行った。その結果、無料患者が有料患者の六倍に達するという異常なデータを出すほどであった。彼の人気はますます高まった。患者が押すな押すなになると、住吉島では手狭になったので、明治七年(一八七四)には通称東御殿跡の土地を買い求めて、そこに移った。
 ところで、昔武士であった士族連中は禄に離れてしまったから、生活苦になやまされていた。そのため、家屋敷を手離すものが増加し、その連中が寛斎を頼って来るので、それを買い取ってやり、そのまま安い家賃で住まわせておくようにし、無料で病気を見てやるようにもした。その連中からは感謝されたが、寛斎の所有地も自然にふえていった。これも彼流のやり方といえよう。
 寛斎の名声が高まるとともに、彼を慕って弟子入りする者が七人にもなり、女中なども一人二人ではすまなくなると、生活費も大いに嵩んだが、質素倹約の耐乏生活を押し通しながら、家庭内の空気を明るくするようにつとめたので、書生も女中も関家にいることを楽しみとし誇りにもするようになっていた。労働尊重の家法はここでもきびしく実行され、寛斎は朝四時頃には起きて冷水浴をし、近所の士族屋敷をまわっては、起きろ起きろと叫んで歩いたという話も伝わっている。
 徳島での寛斎は、神様あつかいをされる位の評判を得ていた。彼の住居の前通りを「関の小路(しょうじ)」と呼んで特別あつかいをし、彼のことを「関大明神」の名で拝んでいたという話もある。彼は幼児を恐るべき天然痘から救おうという悲願を持っていた。それは、ポンペからの示教であったかもしれないが、ともかく彼はそれを実現しようとして、六千名にのぼる子供たちに無料で種痘をほどこしたのであった。こういう献身的行動が彼を聖医として尊崇せしめたものである。
 明治一八年(一八八五)になって、悲報が伝えられた。それは寛斎の大恩人というべき浜口梧陵が米国のニューヨークで客死したとの知らせである。梧陵はその前年米国の産業状況等を視察するため渡米したのであるが、ニューヨークの旅館で急死したのである。四月二一日のことであった。遺骸は六月帰還し、紀州和歌山の浜口家で葬儀が行なわれ、寛斎も列席した。ところが、梧陵の死後浜口家に危機がおとずれ、同家は破産に瀕したのである。寛斎は浜口家から毎年送り届けられる味噌・醤油の味が落ちているのを直覚し、浜口家の危機を読み取った。彼は直ちに和歌山に出かけ浜口家の財政を立て直すべく画策し、財政整理三ヶ年計画を立て、これを実行させることにした。不要家宝の売却、禁酒の励行、ぜいたく品の不購入を誓わせ、その完全実施を厳命した。これによって、浜口家は三年以内に見事に立ち直ることができたのである。寛斎にはこういう財政的手腕もあったのである。恩人には必ず恩をかえすという誠実そのものの彼の人柄のあらわれである。
 恩人といえば、蜂須賀斉裕の恩も彼は忘れなかった。斉裕の墓は徳島の万年山にあって、それは美林でかこまれた幽邃(ゆうすい)な場所であったが、明治九年(一八七六)ここを開発して公園をつくろうという計画があった。寛斎は真向からこれに反対し、計画の撤回を迫った。しかし、ついに受け容れられなかったが、彼の頑固なほどの律義さの具現であろう。彼は徳島在住の間は、斉裕の墓所が荒れないようにこれを守ることを怠らなかった。
 
    

11


 徳島時代の後半期は、宮仕えを捨てて、自由な一町医師として、思うままの活動が出来た点では、非常に幸福であった。徳島の人気(じんき)はまことにおだやかであたたかく、その中にとけこんで寛斎一家も明るく満ち足りた生活を送ることが出来た。
 ここで、家族のことにふれておくと、養父素寿が明治四年に死去した後、養母年子は郷里をはなれて徳島へ来て、同居していたが、一四年(一八八一)三月一四日、八五歳の高齢で没した。次に、子どもたちのことであるが、長男生三が前之内時代に生まれたが、銚子へ行ってから、長女スミ・二男大介が生まれ、徳島へ赴任後三男周助・四男文助が出生したが、文助は生後一年で死んでしまった。ついで二女コト・五男末八が生まれたが、コトは二歳で死に、次に三女トメが誕生した。これが明治四年のことである。七年になると、六男余作が生まれたが、この年大介・末八の二人が相ついで死去した。大介は一四歳、末八は五歳である。寛斎夫妻の悲嘆が察せられる。翌々九年、七男又一が誕生した。これは寛斎が特に愛した子である。翌一〇年八男五郎が生まれ、四年後に、四女テルが生まれたが、このテルは二八年(一八九五)一三歳で死んでしまう。そして翌二九年、長女のスミが三六歳で世を去った。スミは浜文平(医師)と結婚していたのに不幸なことであった。
 以上のように、寛斎夫妻には、八男四女計一二人というたくさんの子が生まれたが、明治二九年までの間に男が三人女が三人計六人が死去し、残ったのは男五人女一人の計六人である。つまり生まれた子どもの半数を失っているのである。
 長男の生三は幼少時前之内の祖父母のところへあずけられたことがあったが、寛斎は医師にするため、生三が一二歳の時佐倉順天堂に入門せしめ、一四歳の時東京医学校に入学せしめた。そして、二三歳の時佐藤尚中(舜海を改名)に師事せしめて、医師としての技術は相当のものになったけれども、追々異常性格を発揮しはじめ、事毎に寛斎に反抗するようになり、二五歳で親の許しを得ないで結婚してしまったのである。怒った寛斎は生三を廃嫡し、その後も父子の反目がつづき、癒えがたい傷跡を残すことになる。しかし、一〇年後両者は和解に漕ぎつけている。三男周助は生三とちがって温順で親思いであった。彼は明治二年、二五歳で米国へ医学の勉強に出かけ、帰って来てから結婚した。六男余作は、東京へ遊学したが一八歳の時肺を病んで徳島へ帰って来たが二八歳の時岡山医学校へ入学した。七男又一は寛斎がもっとも愛し、また期待をかけていた子であったが、明治二五年(一八九二)二月、寛斎は一六歳になった又一を北海道札幌農学校に入学せしめたのである。札幌農学校は北海道開拓のパイオニアを養成する使命を帯びた学校であるが、又一をここに入れたのは、寛斎に深い意図があったのである。彼はまた、翌二六年、六男余作(二一歳)を分家させ、籍を札幌に移しているのである。二人の息子を北海道に送りこんだ寛斎には、北海道開拓の志向が動いていたものと考えられる。
 寛斎は六〇歳を迎える頃から、しきりに各地へ旅行をやっている。大和・日光・九州・紀州・京都・山陰・北陸・信州等を老齢には過酷と思われるほど、はげしく歩きまわっているのである。もともと頑健だった彼ではあるが、何か狂おしい感じさえする。そして、明治二九年(一八九六)七月と、同三一年(一八九八)七月の二回にわたって、北海道石狩郡樽川農場の視察に出かけているのである。これは札幌農学校在学中の又一が、同二七年(一八九四)に右の樽川農場(札幌の東、石狩川の河口附近)を買い取りたいむねを寛斎に要請し、その承諾を得て手に入れていたので、状況を検分するための旅であった。この二度の北海道行きによって、寛斎の北海道入植の意志は固まったものと思われる。
 それにしても、えらい冒険である。いったい、何が彼をそうさせたものであろうか。客観的に見れば、北海道は新天地としての魅力があり、野望家の食欲をそそるものがあったし、徳島藩関係者の北海道移住開拓の事例もいくつかあった。明治四年(一八七一)には名高い稲田騒動の後始末として稲田藩士らの北海道日高地方への移住があり、同一二年(一八七九)には阿波の藍作の不振を転換すべく北海道余市郡への移居があり、また、明治二二年(一八八九)には、北海道空知地方に蜂須賀農場開拓事業が実施され、同二六年(一八九三)には、旧藩主茂韶が自ら乗り込んで指揮を取るようになった。これらの事例が元来農民たる寛斎の血を刺激したことは考えられる。のみならず、北海道憧憬は時代のロマンティシズムだった。多分にロマンティスト的傾向のある寛斎がジッとしていられなくなるのも不思議ではない。
 しかし、彼が単純に時代の風潮に便乗したものとは思われない。もっと深刻な要因があったにちがいない。それについて考えられることは、彼が自分の医術に行き詰まりを感じていたという事実だ。すなわち、蘭方医はもはや古いものになって、ドイツ医学が日本医学界の柱となりつつあり、寛斎は蘭方医の勉強も学費の関係などのため中途半端のところで打ち切ってしまったから、近代医学にかなりの遅れを取っていたことは事実である。そこで東京大学名誉教授だった小川鼎三は、「寛斎先生は勉強家であるが、蘭学医学は最早やドイツ医学に押され、自分の医学知識は時代に遅れている事を悟ったのであろう。そして、北海道の開拓のためになら、自分の医学知識はまだ役立てることができるだろうと判断され、最後の奉公の場として北海道陸別の地に入植したのではないだろうか。」と言ったということであるが、寛斎自身もその著述「めざまし草」に寄せた笹倉新治の序文によれば、「翁(寛斎)毎(つね)に曰く、大都通邑(ゆう)の地、新進有為の国手多し。復(また)我輩の鈍腕を要せず。然れども、辺土陬邑(すうゆう)のなほ我輩の尽力を待つもの多からむ」と言っていたというのだから、本人も小川鼎三の言と同じ考えをもっていたのである。
 寛斎にこういう考えを持たせた背景には、長男生三が立直っていたという事情もあった。生三は父と反目し廃嫡に追いやられたが、明治二三年(一八九〇)生三が三五歳の時父子は和解し、生三は徳島で開業しながら、社会事業などにも貢献するようになっていた。その上、三男周助・六男余作も医学の修業にはげんでいたので、寛斎としては息子たちに期待が持てるので、医業のことに心を煩わす必要もなくなっていたのである。そこで、彼は可愛いい七男又一とともに北海道開拓に新しい夢を託そうとしたのである。
 しかし、寛斎の北海道入植の願望は、かの地で医療を専業としてやろうとしたのではなく、医を捨てても農に帰ろうと志向したものと考えられる。医術による利他は結局仁恵的行動にすぎない。あるいは、表皮的な営為にすぎない。病気を直すなら、人間の、社会の根源的な病症を直さなければダメである。医道には限界がある。真の人間道は、原始からの、荒撫からの掘り起こしである。それを北海道でやって見ようと決意したのではなかったろうか。
 
    

12


 北海道にいる又一は、前述のごとく樽川農場を手に入れて、そこを基地としてさらに適当な開拓地を物色していたが、十勝の斗満(となむ)地域が適当であると判断し、そのことを寛斎に連絡し了承を得ていた。そして、明治三四年(一九〇一)六月、卒業論文「十勝国牧場設計」をまとめ、これを発表し、寛斎の来道を待っていた。寛斎は妻あいとも早くから話しあい、夫婦の合意はすでに出来ており、その年一月には自家を畳んで、長男生三の家に移った。財産は全部処分し、これをすべて開拓事業につぎこむことにしていた。かくして、明治三五年(一九〇二)四月一四日、七三歳の寛斎と六八歳のあいは、徳島を去って、遠い北海道へ旅立ったのである。五月一八日札幌に到着、一まず又一の自宅に落着いた。そして八月一〇日あいを札幌に残し寛斎は十勝の斗満に入り、開拓事業に着手する。
 
 「明治三十五年我等夫婦相携へて十勝国中川郡別村斗満の地なる数十里間の無人境に入り、この地を繁栄にして国恩の万分の一を報いむと希望す」(「めざまし草」自序)
 
寛斎は後にこう書き留めている。悲壮な空気が伝わってくる感じだ。

関寛斎

 斗満には、すでに又一の手によって牧場が造成されており、馬五二頭、牛七頭が飼育され、片山八重蔵夫妻ほか七名が入植していた。しかし、一一月になって、又一が兵士として入営することになり、牧場経営は寛斎が専らあたることになったが、翌三六年の冬、大雪のため、九五頭にふえていた馬が四〇頭も急死するという悲運に遭遇した。又一は、三七年二月除隊して来たが、五月一二日に、妻あいが札幌で死去した。七〇歳である。彼女は北海道へ来てから、馴れない風土と重なる心労のために心臓を痛めてしまい、寛斎は心配して山鼻の温泉で保養させたりしていたのだが、あわれにも良人に先立ったのである。彼女は、葬式は出さず、骨は良人のそれとともに牧場に埋め、草木のこやしにしてほしいと遺言をした。寛斎は樽川に行っていて死に目にあえなかった。痛恨やる方ない思いであったろう。流石の彼も一時は虚脱状態になってしまった。あいは貞順な女性であってひたすら寛斎に献身して来たが、ただ後からついて来たというのではなく、良人をうまく操縦して来た賢夫人でもあった。とかく微妙な関係になりがちな良人と子どもたちとの間を、うまく取り成して来たのも彼女の力であった。その彼女に死なれたことは、寛斎にとっても子どもたちに取っても大打撃であった。寛斎は心身のショックのため、しばらくの間は何事も手につかなかった。
 そこへ折よく六男の余作(岡山医専在学中)が斗満に来たので、寛斎はその助力と諌告によって、海水浴がてら豊頃(とよころ)村の二宮尊親(尊徳の孫)の経営する牧場を視察に行った。幸い尊親夫妻の歓迎を受け、二〇日あまり滞在しながら、親しく尊親の口から、かねてから尊信していた報徳教の奥義を聞くことが出来、多大の感銘を受けたのである。それによって、寛斎は蘇生の思いをし、勇気と情熱を取りもどすことが出来たのであった。二宮尊親は明治二八年(一八九五)に豊頃(とよころ)村に興復社をつくり、入植民を募集して、自作農に育て、報徳精神による自主的な新しい農村社会の建設をすすめていたのである。寛斎は大いに共鳴するところがあり、自分流の理念をそれに加えて積善社なるものを構想するようになった。
 しかし、現実はきびしかった。三七年(一九〇四)三月日露戦争がはじまり、又一は応召待機の通知を受け取ったが、その年の秋から冬にかけて関牧場はまたも大きな災害に襲われたのである。それは、五六頭の馬が原因不明の伝染病にかかって斃(たお)れてしまったことである。すると、片山夫妻までが牧場の前途に対して不安をいだき立ち退こうとしたのである。だが、すでに不動の信念を得ていた寛斎は断乎としてそれを貫こうとした。その時のことを寛斎は「関牧場創業記事」の中で、「片山を呼びその他を集めて、叱陀して曰く、我が牧場の現状を恐るるものあらば、直ちに立退(の)けよとて、大いに怒鳴(どな)りて衆に告げたり。かつ、曰く、予は生活する間はここを退かずして、たとへ一人にても止まりて牛馬の全斃(へい)(みな死んでしまうこと)を待つ。もし幸にして一頭にても残るあらば、後栄の方法を設くべし。我ら夫婦が素願(そがん)を貫くの道なりと信じて動かざるなり。」と書いている。この気迫に呑まれたか、使用人たちも踏み止まることになったのである。
 危機はどうやら乗り越えることが出来たが、三八年に入って、その五月岡山医専を卒業した余作は札幌病院に動務することが出来たが、又一は七月の末に召集された。八月になって、かねてから構想を練っていた積善社の趣意書を寛斎は発表した。
 
 「我が家は、北海道十勝国中川郡本別村字斗満の僻地に牧場を設置し、場内に農家を移し、力行みづから持し、仁愛人を助くることを特色とし、永遠の基礎を確定したる農牧村落を興し、もってこれに勤倹平和なる家庭と社会とを造らんことを期せり。これ、実に迂老(うろう)が至願なりとす。」(「関牧場創業記事」)
 
これが眼目である。この目的を達成せんがために、社員は「寸善」を積むことを心掛け、社名を「積善社」とし、社員は「労苦を甘んじ費用を節し、日々若干金を貯へて、これを共同の救済集金とし、もって社中に安心を与へ」るようにしようというのである。
 これは趣旨としては立派ではあるが、共同の救済集金なるものを具体的にどう作って行くかについての方策は示されていなかった。
 右の積善社趣意書を書き上げた後で、寛斎は旧約聖書を読み、創世記や約百(よぶ)記から創業の意義や困難を教えられ感銘を受け、また、老子を読んで「死而不亡者寿(死して亡びざる者は寿(いのちなが)し)」の語にいたく心打たれた。
 
    

13


 明治三九年(一九〇六)四月、又一が戦地から帰還した。寛斎は喜んで迎えたが、又一は寛斎の積善社設立の計画に対しては真向から反対する態度をとっていた。又一はアメリカ式の資本主義的大農場の経営をよしとしていた。寛斎は東洋的な仁愛主義から、農場を開放して自作農設定をもくろんでいた。両者の意見ははっきりくいちがっていたのである。しかし、事業のほうは幸いに好転していて余裕も出来るようになっていた。寛斎は医術を活用して、アイヌ人を無料で診察して人気を得、また、流刑者が監獄から逃げて来るのを自家に引取って面倒を見るようなこともしていたので、追々斗満にも人が集まって来て人口がふえ、現在の陸別(りくんべつ)の町づくりが出来るようになって行った。
 三男の周助は三井物産に勤めるようになって東京の麹町に家を持っていたが、父の身の上を心配して、北海道を引上げて東京へ来いとすすめていたけれども、もとより寛斎が応ずるわけがない。そこで、冬の寒い内だけでも東京へ出て来たらどうかとしきりに言ってくれたので、寛斎もその気になり、四〇年(一九〇七)の暮れに上京して滞在し、翌四一年の四月二日に、東京郊外の千歳村粕谷に閑居している徳富芦花の家を訪問した。それは八男の五郎(明治一〇年生まれ)が身体の弱いせいもあって、早稲田大学の文科に学んだ文学青年で、芦花の著述に接しその消息にも通じていて、上京したら一度訪ねてみてはどうかとすすめていたので、寛斎も訪ねてみる気になったのである。五郎は兄の又一が名儀上局長になっていた足寄(あよろ)の郵便局の局長代理をつとめていたが、寛斎の在京中の四月二一日死んでしまった。三二歳の若さだった。(これで寛斎の残った子どもは五人になってしまった)寛斎は五月一五日にも再度の芦花訪問をし、親しみを深くした。寛斎は長崎にいた頃、芦花の父一敬が脚気病にかかっていたのを療治してやったことがあったのである。そのことを芦花は父から聞いていたので、寛斎に対して深い好意をもってその来訪を迎えたのであった。
 芦花は明治三九年四月から八月まで「順礼紀行」に書かれた聖地巡礼の旅をし、その途次ロシヤの文豪トルストイをたずね、五日間その居住地ヤスナヤ・ポリヤナに滞在し、トルストイと親しく語り合ったのである。寛斎と会った時、必ずやその話が出たことであろう。トルストイは熱烈なクリスチャンだが同時に農本主義でもあり、自己の広大な農地を小作人たちに開放し、彼らを自作農たらしめようとしていた。また彼は宗教的立場から私有財産を否定し、財産放棄を考えていた。芦花はトルストイからそういう話を聞かされているから、寛斎にもそれを語ったにちがいないと思われる。そして、トルストイの考えかたが必ずや寛斎を動かしたに相違ないと想像される。なお、司馬遼太郎氏はこの問題について、
 
 「芦花をたずね、トルストイをよりいっそうに知ろうとしたのも、又一と対立している自分の思想をより頑丈なものにしたかったからであろう。芦花がトルストイの私有財産否定論を語ったかどうかはよくわからないが、もし語ったとすれば、寛斎はその一点にもっともふかく感銘したにちがいない。」(「街道をゆく・十五」三八〇頁)
 
と書いている。芦花訪問が芦花その人の思想を探ろうとした目的をもっていたではあろうが、芦花を通してトルストイズムを知りたいという意図があり、それによって自己の理念武装を強固なものにしたいと考えたことは疑いないと思う。その証跡と考えられるのは、翌四二年(一九〇九)一月一日「めざまし草」の自序を寛斎は書いているが、その中に
 
 「公平なる天禄(てんろく)を享(う)くるが為には、仮令(たとい)自ら労苦して得る処の富をも独有すべきにあらず。況(いわ)んや、祖先及び父母の勤倹労苦より成る処の家産に於ては、之を私有すれば偸安(とうあん)怠惰に陥(おちい)るものなれば、子孫の為に家産を遺(のこ)すが如きをば為すべからず……」
 
とある一節である。これは儒教的な考え方を土台としているが、トルストイの考えにかなり近いものといえよう。
 寛斎は同年一〇月にも芦花をおとずれている。また、芦花と同じクリスチャンだが、儒教的側面をもつ松村介石とも知り合うようになった。関牧場の経営は順調であった。その周辺の入植者も増加しつづけ、池田から鉄道を敷こうとする運動がおこり、駅名を「関」としようという話まで出たが、寛斎は遠慮した。そして、四三年(一九一〇)九月に鉄道が開通し駅名は「陸別」ときまった。
 そのような結構な情勢になっている一方、寛斎と又一との関係、又一と余作との間柄はますます険悪になっていったのである。又一は強い性格である上に合理的な考え方を持っていた。彼は自分の作り上げた「十勝国牧場設計」については絶対の自信を抱いていた。それは札幌農学校での数年にわたる研究の上に、綿密な実地調査をして科学的に作成した計画であった。彼はあくまでも資本主義の上に立っていた。アメリカ式の大農場経営こそ理想的なものだという信念を堅持していた。それに対して、寛斎の考え方は多分に人道主義的であるとともに観念主義的であった。しかし、報徳教を産み出した日本の土壌から考えれば、前進性はあったのである。父子の理想のこのような対立について、川崎巳三郎氏は、
 
 「又一の主張は、理論的に見れば、経済発展の法則に適(かな)っており、寛斎の主張は当時の日本社会が当面した歴史的課題にこたえる一面を持っていた。二人がそれぞれの理想に忠実であろうとするかぎり、二人の間に生じた矛盾、葛藤はそう容易には妥協できない性質のものであった。」(「関寛斎」一六九頁)
 
と、両者の対立が妥協しえないものであることを指摘している。
 ところで、北海道斗満における関家の一千町歩近い土地と建物その他の物件は、すべて又一の名義になっていた。そのことは、寛斎が徳島から持って来た財産は、すべて又一の所有になっているということである。寛斎としては北海道の開拓事業は又一と共同の仕事であり、自分は老齢だから又一の名義にしておこうとしたものであろう。もともと精神主義者たる彼は、所有意識は稀薄で、名義など誰の名になっていようが構うまい、要は協調の精神が大切だという考え方であったのだろう。しかし、法律は決定的な力を持つ。又一にしてみれば、おれのものをおれの自由にしてどこが悪いと開き直れる。寛斎といえども、口がきけなくなるはずだ。それを知っているから、又一は自我を通そうとする。寛斎にしてみれば、可愛い子に背負い投げを喰わされるのだから、我慢が出来ない。父子の深刻な反目となるのは当然であろう。又一の兄たち、生三・周助・余作にすれば、親の財産が全部弟又一のものになるのだから、憤懣やる方ない気持にならざるをえまい。そこで、寛斎と又一との対立、又一と兄たちとの対立という、二重構造的な抗争がおこることになったのである。もし死んだあいが生きていれば、母性愛によって妥協の道が見出されたかも知れないが、それももはや空しい夢でしかない。
 
    

14


 寛斎は、事ここにいたって、愛する子どもたちから反撃を食おうとは、思いもよらなかったであろう。といって、引退るわけにも行かない。どうかして、協調点を見出そうとして苦慮した。その結果、四三年(一九一〇)五月、自分も多少譲歩して、生三・周助・余作・又一と、三女トメの夫たる大久保渓(たに)平の五人を株主とする斗満牧野株式会社を設立する方針を立て、五人にはかったところ、又一以外の四人はそれぞれ内諾したが、肝心の又一はどうしても承諾しなかった。したがって、この計画も成立しなかったのである。
 寛斎も絶望的にならざるをえなかった。そういうところへ、徳富芦花が夫人の愛子と養女の鶴子(実は芦花の兄蘇峰の娘)をつれて、はるばる斗満をたずねて来たのである。この旅行は同年九月八日から一〇月八日におよぶ「往路も帰路もまことに悠々たる北海道・青森県などの見物旅行」(中野好夫「芦花徳富健次郎・第三部」六頁)であったけれども、主目的は寛斎訪問であった。芦花の寛斎への関心は深くなっていた。芦花はみずからを「美的百姓」と称し、中途半端な生き方を自嘲していたが、寛斎の捨身で真剣そのものの行動には魅力を感ぜざるをえなかった。トルストイがやろうとしてやれないことを寛斎は実現しようとしているのである。それを直接現地へ行ってたしかめてみようと、芦花は考えたにちがいない。この年二月、寛斎は「目ざまし草」を三省堂から刊行している。芦花はそれを読んでいたであろう。その中にはトルストイの語を引用し、「平等均一は深奥なる天の恵賜(けいし)」であって、「平等均一の風はやがて来らん」というごとき社会主義的な大胆な発言も見えるのである。
 芦花は九月二四日、妻愛子と養女鶴子を伴って、斗満(陸別)の寛斎の住居をおとずれ、三〇日まで滞在した。寛斎は心から芦花一行を歓待したのであるが、芦花はトルストイ家を訪問した際、トルストイの理想たる財産放棄・自作農育成の方針にトルストイ夫人はじめ家族が一斉に反対してゴタゴタしていたのを目にしたのと似たような状況を関家においても目撃せざるをえなかった。芦花は寛斎の立場に同情し、北海道からの帰途、弘前から又一あてに手紙を出し「大兄にも随分御自重祈上げ候。何事にも時節あり、機会は作らねばならねど、また、待たねばならぬものかと存じ候」(「芦花全集・第二十巻」二七四頁)と書いて又一の反省をうながしたのである。
 芦花が東京へ帰ってから一か月後の一一月一〇日、トルストイはついに家出し、同二〇日アスタポーロという小さな駅で肺炎のため急死してしまった。八二歳であった。そのことは間もなく芦花も知ったであろう。しかし、それと同じような悲劇が数年後、関家にも起ころうとは予測もしなかったにちがいない。
 寛斎は又一との妥協の一方策として、余作を自分の代人として又一と話し合いをさせようとした。余作は財産を兄弟間で分割する考えを主張していたが、寛斎の気持をいちばんよく理解していた。そこで寛斎は「総テヲ余作ニ一任シテ其ノ相談ヲ聴クノミニ決」(浜口梧洞あて寛斎の書簡、戸石四郎「関寛斎-最後の蘭医」)して、自分は身を退こうとしたのである。つまり、寛斎は余作に自分の理想を吹込み、それを達成させようとし、財産の件も又一と話し合いの上決めさせようとしたのであって、余作も医業を捨てて父の理想を実現する決意を固め、又一と談合を重ねた結果、又一も譲歩の色を見せたのであった。
 このようにするについては、寛斎は芦花にも相談したようである。そして、四四年(一九一一)の九月になって、「小作契約」なるものを定め、「将来、一戸十町歩以上の地積を所有し、牛馬四頭を飼育する」という条項を書き入れることにした。二宮農場でも「五町歩以上」という制限をしているのに、それを倍にして自作農を育てようというのは、寛斎の悲願であった。しかし、又一はふたたび難色を示し出したのである。同年九月二五日付の芦花から寛斎あての書簡に「又一君も笑止な事に存じ申し候。あの剛気ではドウしても行く所まで行かねば安心が出来申すまじく、御老体の眼から御覧になりては嘸(さぞ)御痛心も之れ有るべくと推察致すのみ」(「芦花全集・第二十巻」三〇三頁)とあり、また、同日付の余作あて書簡では「緩々(ゆるゆる)堅忍以て尊翁の志を成し玉はんことを祈り上げ候」(同三〇五頁)とはげましている。
 寛斎の悲願も結局、又一の頑強な反対の前に崩壊せざるをえなかった。最後の権力を握っている者には、父も兄も引退がらざるをえなかったのである。余作は絶望して斗満を去り医業にかえることになった。寛斎はそのことを芦花あてに知らせた模様である。それに対して芦花は同年七月八日付の余作あての手紙で次のようなことを書き送っている。
 
 「貴兄モ此ノタビ斗満ノ牧場ヲ去リ、医業ヲ以テ身ヲ立テ玉フ事トナリタル由、……関家全体ノ為ニモ祝着至極ノ事ニ候。貴兄ハ其ノ職業ニ於テモ精神ニ於テモ正ニ尊大人(寛斎をさす)ノ後嗣タルベキ人也。斗満牧場ノ経営ハ決シテ悪シキ事ニハアラザレドモ、尊大人ニトリテアマリ恰好(かっこう)ノ事業トモ思ハレズ。貴兄ニトリテハ万止ムヲ得ザル場合ノ仕事ニテ決シテ貴兄ノ天職ト看做(みな)スベキモノニ非ズ。」(同三二四-三二五頁)
 
そして、又一については
 
 「又一君モ心機一転ノ日ナキニシモアラザルベク、今度ノ背水ノ陣ガ却ツテ其ノ日ヲ速カニスルコトナシト云フベカラズ。又一君如何ニ剛腹(ごうふく)吾儘ナリトモ、貴兄ト同ジ気血ヲ受ケシ人ナレバ、翻然トシテ自己ノ非ヲ陥(く)ウルコトアルベキハ自然ノ道理也。貴兄ノ斗満牧場ヲ去ルハ屹度(きっと)又一君ヲ救フ動機トナルベシ。小生ハ的確ニ斯ク信ズ。」(同、三二五頁)
 
と、希望的観測をのべ、肉親の情愛による解決を願望している。
 余作は翌大正元年一〇月八日、網走刑務所の医員となるべく、斗満を去っている。余作に去られた寛斎は希望のすべてを失ったことになる。前途の光明がなくなったのである。もっとも、彼はこの年五月ごろには、すでに死の覚悟をいだいていたらしく、芦花あての手紙の中に「辞世」と題して、「もろともに契りしことも半ばにて斗満の里に消ゆるこの身は」という歌を贈っていたのであるが、余作の離去によって、いよいよその時が来たと思ったらしい。一〇月一三日の日記に「十月十三日は実母の忌日にて殊に偲(しの)ばるる。又一に話し更に決する所あり」としるした。これが彼の絶筆となった。彼の実母幸子は天保三年六月一三日に死んでいる。命日を迎えてひとしお感慨深かったものだろう。ただ、又一に何を話し何を決しようとしたのかは不明であるが、翌一四日に彼の止めを刺すようないやなことがおこった。
 
 「翌十四日徳島から長男生三の代理として息子大二が来訪した。之(これ)は兼ねて長男生三に譲与すべく金二千円也の借用証書を渡して置いたが、物欲に強い又一が肯(かえ)んぜず、この為め生三は根室裁判所へ証書をたてに支出強制の提訴をしたのである。この裁判に立会のため大二の渡道である。十五日根室裁判所から彼の出廷を促す通報があった。」(森本武「阿波医人伝」二七頁)
 
つまり、寛斎は長男生三から金のことで訴えられたのである。事もあろうに血を分けた自分の子と法廷で争わなければならぬとは、人道主義者の寛斎には堪えられないことだったろう。生三は財産の分割要求をしていたので、寛斎は二千円を分けてやろうとして、借用証書を書いて渡しておいた。しかし、又一はそれに反対したので、契約の履行が出来ずにいた。それを生三が裁判所に訴え出たのである。二千円という金は当時としては相当な金額だったろう。が、それを親が払わないからといって訴え出るというのは、非情極まることである。生三は元来強情で狷介な性格で父と反目していたが、すでに深く反省して、父の精神を継承すべく、徳島で貧民の施療、行路病者の救済その他いろいろな社会事業をやって評判を高めていたのである。それが、こういう態度に出るとは、思いもかけなかったことだろう。生三は自分では来ずに、息子の大二、すなわち寛斎の孫を代理によこしたのである。寛斎は地獄へつき落とされる思いだったろう。肉親の情も冷却しきってしまったのである。
 すべてに絶望した寛斎は、みずから死を選ぶほかに行く道はなくなってしまった。彼は裁判所へは又一に行かせるようにして、一〇月一五日、自宅の一室で静かに毒(阿片丁義)を仰いだのである。八三歳であった。奇しくもトルストイと同年(数え年で)であった。
 (なお、右の訴訟一件については、生三が訴えたのではなく、生三の子大二が放蕩者で遊び金ほしさに祖父を訴えたという説があり、また、大二は北海道へ出て来たのではなく、手紙をよこしたのだという話もある。)
 寛斎は他を責めるよりも、みずからを罰する人であった。生三が若い頃反逆した時も、「必定(ひつじょう)天より予を罰すると覚悟」したということを日記に書き留めていた。だから、死に際しても、すべての責任を自分一人で負うつもりであったにちがいない。芦花は寛斎が死んだ翌年の大正二年(一九一三)に「みみずのたはこと」を刊行して、その中で寛斎のことを書き、関家の悲劇の原因を「父は二宮流に与えんと欲し、子は米国流に富まんと欲した」ところに求めている。鈴木勝氏もいうとおり、寛斎はロマンティストであった。しかし、子どもたちはリアリストであった。これは普通の父子のばあいと逆である。早い話が、子どもたちは父が財産を肉親にゆずろうとしないで他人に分与しようとしているのが不満だったのであろう。又一はある意味で理想家だった。しかし、彼は「富まん」とする理想家で、兄弟中でも私有欲の強い男だった。寛斎の失敗はその又一を愛したことにある。もし、又一の代りに余作を愛したら、自分の夢を実現できたかもしれない。又一は札幌農学校で有島武郎と同級だった。有島は、周知のごとく父武から北海道狩太(かりぶと)の十万坪に及ぶ広大な農場をゆずられたが、父の死後、これを六十余人の小作人たちに無償で解放して、「共生農場」を建立した。その時、彼は「この土地を諸君の頭数に分割して、諸君の私有にするといふ意味ではないのです。諸君が合同してこの土地を共有するやうにお願ひするのです」(「小作人への告別」)と小作人たちに宣言している。これは大正一一年(一九二二)のことだから、寛斎の死後一〇年目のことである。有島はトルストイのやろうとしてやれなかったことを実現したのである。そして、有島の志向は寛斎のそれにかなり近いということがいえるであろう。
 関寛斎は理想家であった。理想家の生涯は悲劇的になりやすい。寛斎の生涯もまさに悲劇であった。それは、先駆者なるが故の悲劇であった。しかし、彼の理想は死なないであろう。いや、死なせてはならないのである。

関寛斎入植の地(北海道陸別町)


関寛斎翁之像(東金市中央公園)