日吉神社(大豆谷)

488 ~ 494 / 1145ページ
    

1


 日吉神社は、東金市大豆谷(まめざく)字大宮台に鎮座し、祭神は大山咋命(おおやまくいのみこと)である。境内は凡そ一万平方米、老杉の並木は鬱蒼(うっそう)として神域を掩い、森厳の気が自ら湧くのを覚える。
 社伝によれば、大同二年(八〇七)僧最澄が天台の妙法を東国に弘布するため、この地に至り、安国山最福寺を創建した際、捧持し来った近江国滋賀郡坂本村(大津市坂本)の日吉神社(別称山王)の分霊を、鴇嶺に祀り、山王大権現と称えたのがその起原と云われる。(鴇ケ嶺上のその場所には、現在、古山王社が祀られている。)日吉神社を山王と称したのは、最澄(伝教大師)が大和の大神(おおみわ)神社(大物主神をまつる)を近江国坂本に勧請(かんじょう)し、中国の天台山国清寺の山王祠にならって神号を山王権現と称したのにはじまるのである。その後嘉慶(かきょう)元年(一三八七)現在の地すなわち、大豆谷字大宮台に遷った。以上の記述を裏づける資料としては、明治一五年(一八八二)に書かれた「神社明細帳」(杉谷直道「上総国山辺郡東金町明細記」所収)なるものに、
 
 「当社創立ハ、五十一代平城天皇大同二年近江国滋賀郡日吉神社ノ御神霊(ヲ)当郡辺田方村鴇嶺(ヘ)勧請、其ノ後、嘉慶元年大豆谷村泉ケ池頂大宮台(ヘ)遷座ス。」
 
と記されてあるのによって判明する。つまり、本社は天台宗寺院最福寺の開基にともなって、同時に創建されたもので、天台宗が山王信仰と習合していた事情にもとづくことであった。そして当初は最福寺の裏山鴇ケ嶺に祀られたのが、五八〇年後に大宮台に移されたわけである。しからば、何故うつされたのであろうか。それについて「山王宮社記」(同前)という文献には、次のように書かれている。
 
 「嘉慶年中、大谷(ヤツ)里ノ士和泉某ノ女(ムスメ)。色慾熾盛(シセイ)ニシテ慳著(ケンチャク)最モ深シ。身ヲ変ジテ蛇体ト成リ、人民ヲ呑瞰(トンカン)シ、老トナク少(ワカ)キト無ク之レヲ悲傷セゼル者無シ。故ニ大蛇降伏、利世安民ノ為メニ、人皇百一代後小松院ノ御宇嘉慶年中、神殿ヲ池辺ニ遷ス。誠ナル哉。神明ノ守護、其ノ大ナルコト図ルベカラズ。云フベカラズ。蛇身忽チ滅ス。遠近ノ人民、之レヲ恐怖スルコトヤマズ。故ニ、衆人ノ参詣ヲ易カラシメンガ為メ、後ニ又宮ヲ今ノ地ニ遷ス。今、和泉ケ池トイフ。」
 
これを分かりやすく説明すると、鴇ケ嶺の麓に池(和泉ケ池)があり、ここに大蛇が棲んでいた。この大蛇は和泉某の娘が色慾さかんで邪心が深いため変身したもので、老若の人民を呑み傷つけるので、これを神感によって退治しようとして、池のほとりに社をうつしたところ、たちまち大蛇を滅ぼすことができた。人民は有難がってお参りしようとしても、社が池のほとりにあるので大蛇のたたりを恐れて近づこうとしない。そこで今の地すなわち大宮台に移したというのである。大蛇の話は古い伝説として受け取るよりほかないが、右の記述によると、本社は大宮台にうつされる前に池のほとりにうつされたことになる。そういうことがあったか、どうもうたがわしいように思う。(最福寺の過去帳には右の大蛇のことをのべ「神殿ヲ滝坂上ノ大豆谷ノ池ノ内ニ遷ス」(原漢文)と書いている。)

日吉神社鳥居

 
    

2


 ところで、大宮台にうつった年時を「神社明細帳」は嘉慶元年とし、「山王宮社記」は嘉慶年中としているが、嘉慶は南北朝時代の北朝の年号で二年までしかなかったから、この場合、嘉慶元年(南朝では元中四年)と考えておいていいであろう。さて、それから一一六年目にあたる文亀三年(一五〇三)五月にこの地方は大旱に襲われて大騒ぎであったという。その時のことを「神社明細帳」は左のように伝えている。(「千葉県誌(上巻)」は元中元年(一三八四)としている。)
 「其ノ後文亀三年五月、大旱魃、当邑六ケ村人民当社参籠、降雨祈請、則チ感応有リテ、早田霑(ウルオ)ス。右神徳ヲ仰ギ郷土産神ト崇敬シ奉ルノ由、古老口碑ニ保存ス。」
 
ひどい旱害のため人民たちは熱心に雨乞いをしたところ、神の感応があって慈雨に恵まれ、大厄をまぬかれたというのである。文中の「六ケ村」とは「山王宮社記」に、
 
 「是レ則チ、大豆谷村・台方村・辺田方村・堀上村・川場村・押堀村、以上東金郷六ケ村の総氏神ナリ。」
 
とあるのによって理解できる。辺田方村とは旧東金をさすことはいうまでもない。
 さて、これより六年前の長享元年(一四八七)土気城を手におさめた酒井定隆は(長享二年という説もある)東金地方をも領有するようになったが、永正六年(一五〇九)土気城を長子定治にゆずり、自らは次男(三男ともいう)隆敏とともに田間城に移居したが、大永元年(一五二一)になって鴇ケ嶺城が地の利を得ているのを見てここに本拠を移すとともに、本社を鬼門の守護神として重んずるようになった。爾来(じらい)、いわゆる東金酒井氏百年の支配が続くが、本社は酒井氏の君臣一同から特別の庇護を加えられた。酒井家の家来は領内各地に分散して土着していたが、現在、菅谷・小又・滝沢・下谷・高倉の各部落に日吉神社の末社があるのも、その当時の酒井武士によって建立されたものであったかもしれない。
 酒井氏は、周知のとおり天正一八年(一五九〇)滅亡し、徳川家康が代わって支配することになったが、家康は東金の地を愛して鷹狩に来ているが、前引の「山王宮社記」には、「抑(そもそ)も、山王宮本社造立は、往古元和元乙卯年(一六一五)東照神君(家康)東金御殿え御成り遊ばされ、」とあり、また、「神社明細帳」には、「尚、元和元年徳川府公(家康)巡守、臣本多某敬崇シテ社殿再興ノ伝説アリ。」とあるのから察すると、家康が鷹狩の途次立ち寄って、社殿の「再興」「造立」を命じたものらしい。もっとも、「伝説」であるからそのまま信ずるわけには行かないが、少なくとも家康が何らかの保護を加えたろうことは考えられる。
 ところで、前掲の「山王宮社記」の引用文のつづきには、「台徳院殿(二代将軍秀忠)御成り元和四午(うま)年(一六一八)より同八年(一六二二)迄三ケ度、其の節、御支配御代官高室金兵衛殿御願主となり、元和六庚申(かのえさる)年(一六二〇)造立成就仕り候。」とある。秀忠は父家康以上に東金の地に親しみをもっていたフシがあるから、本社の造営にも力を入れたものと思われる。代官の高室金兵衛が願主となり、鈴木佐渡が工事主任となって、元和元年には造立が成就したということだが、これは家康時代に本多某に命ぜられた仕事を引きついで元和六年までかかって完成したのか、あるいは、別時の仕事だったのか不明だが、「造立」とは社寺などを建設することであるから、腐朽していた社殿を再建したものと思われる。なお、この造立については、当時西福寺の住職だった僧日法が別当として、高室金兵衛を助けて働いたことが伝えられている。
 杉谷直道編の「上総国山辺郡東金町明細記」には、「山王宮棟札。元和六庚申衣更着(きさらぎ)中澣(かん)二日。勧請・西福寺曰法、判。願主高室金兵衛殿、ト有(リ)之。」と書かれてある。これによって、本社社殿の棟上げが、元和六年二月十二日であったことがはっきりする。再建されたことはまちがいないものと思われる。なお、志賀吾郷の「東金町誌」(六五頁)に「天和六年家康巡狩の時、代官高室金兵衛をして社殿を再興せしむ。」とあるが、家康は元和二年四月に死去しているので、秀忠のあやまりであることを注意しておきたい。

日吉神社拝殿

 こうして再建された本社は、右の「東金町明細記」中の記述によると、「本社造寛文九巳年(一六六九)」とあるところによると、再建後四九年目に修築の手が加えられたらしいが、記述が簡単すぎて事情が不明である。その後、さらに一二七年を経た寛政八年(一七九六)六月に、本社の造立のために寄進を氏子等の関係者に触れた文書が、右の「東金町明細書」に収めてあるのを見ると、元和六年の再建後かなりの星霜を経たので「折々修覆差し加へ候へども、霜雪風雨の憂ひ防ぐにいとまなく、既に大破に及ばんとす。依って、去る寛政六寅年(一七九四)雨屋を営み本社の防ぎを相斗(はか)り」「六ケ村(前出・東金郷六ケ村)人別割の寄附を以て造立を企て候へども、大作事の儀に御座候へば、中々成就(じょうじゅ)仕り難く」という状態なので、「此の度一統の勧進を企て、氏子に限らず御銘々御信心の御方の御施入を頼み入り候儀に御座候。」と、広く一般からの寄附によって「造立」をはかろうとしていたことが分かる。再建後すでに一七〇年以上たっているのであるから、建て直しの必要に迫られていたことはまちがいないことで、こういう企てがなされたことは当然である。この結果この年(寛政八年)から一、二年後には多分社殿の改築が行なわれたものと思うが、残念ながらそれを証すべき資料が見出されない。ただ、この時建て直されたと考えられる社殿等の規模については、明治六年(一八七三)郷社(ごうしゃ)に指定された時の文書に「一社殿間口九間奥行九間。境内四千坪。一供所 間口三間半奥行弐間半」と書かれているから、おおよその推定がつくであろう。明治以後も度々修築が加えられて今日にいたっているのである。
 杉谷直道の書き残した「東金開拓年表」によると、「明治二三年(一八九〇)一一月八日日吉神社本殿修繕ニ付キ、寄附金始ル」とあり、また、「同二五年(一八九二)一一月一五日日吉神社本殿銅尾ニ革替上棟式ヲ執行ス。参拝スルモノ数万人ニ至レリ。」とある。これによって、本殿修繕の工事が執行されたことがわかる。
 なお、本社は江戸時代に勅額を拝受していることも注意すべきである。すなわち、「東金町明細記」に
 
 「勅額、宝墳寺宮様御筆。元文乙卯(きのとう)年中、日量師下向ノ砌(みぎり)、本社ヘ納メ置クコト。」
 
とあるのによってその事実が判明するが、「元文乙卯年中」とは「享保二〇乙卯年(一七三五)」の誤記ではないかと考えられる。(元文年中に「乙卯」の年はない)
 
    

3


 本社の社務は、明治以前においては、神仏混淆の風習によって、西福寺の住職が別当として執行することになっていたが、台方の大林寺の住僧が社僧としてこれを助け、時に代行することがあった。
西福寺過去帳に
 
 「東金郷山王神輿棟札、宝永五戊子(つちのとね)年(一七〇八)五月下八日当社別当安国山西福寺僧日胤判
  氏子大豆谷台方辺田方堀上川場押堀合六ケ村社僧大林寺」
 
とあるが、宝永五年はたしかに「戊子」である。日胤は享保八年(一七二三)正月に死んでいる。
 西福寺の別当は開基以来であるが、大林寺の社僧は、神輿の棟札に「寛永五戊年(一六二八)五月八日、当社別当僧都日胤判、社僧大林寺」(志賀吾郷「東金町誌」六五頁)とあるのによって、寛永五年(またはそれ以前)から務めていたことが分かる。明治を迎えてからは神仏分離の原則によって、社務は社職の手に移されたことはいうまでもない。
 明治になると、その他にもいろいろな変化があった。第一、明治初年に名称が従来の山王大権現を改めて、日吉(ひよし)神社と変った。山王大権現とは神仏習合による名称であることはいうまでもないが、それが神道的な日吉神社になったのは、本来の姿を取りもどしたことになる。なお、日吉は「ひえ」とも読み「日枝」の字をあててもいる。次に、明治六年(一八七三)三月に当時の木更津県庁から郷社の社格があたえられた。郷社は県社の下、村社の上の位置である。例祭には県知事が幣帛を奉ることになっていたが、実際は郡長が代理し、郡役所廃止後は東金町長が代行した。
 神社と人民とのつながりとしては、慣例的なものに祭事祭礼があるが、五穀豊穣の神としての本社は、旱水害時の祈願が切実な問題として、人民生活と深く結びつくものであった。文亀三年(一五〇三)の大旱魃(かんばつ)の際の降雨祈願については、すでに書いておいたが、その後も、不作飢饉の度毎に祈請が行なわれたにちがいないが、徳川時代までのことについては、ほとんど不明である。徳川時代には、正徳四年(一七一四)と享保三年(一七一八)の両度に祈願がなされたことが、「東金町明細記」に出ているけれども、なお、同書所収の「山王宮社記」には
 
 「正徳四年四月、神殿ニ於テ雨ヲ祈リ甘雨ヲ蒙ルコト、申(さる)ヨリ寅年ニ至ル。神感七度、渇仰(かつごう)ヲ生ジ、例年四月妙経ヲ企テ、法談シテ法楽荘厳ニ擬ス。」
 
と記されているのを見ると、正徳四年の後、同五年をおいて、申年(享保元年)から寅年(同七年)まで七年つづいて祈祷が行なわれたことがわかる。この期間は全国的に見ても不作つづきで、年によっては暴風雨・洪水・干害があり、特に享保三年(一七一八)は有名な浅間山の大噴火があったりして、不安が絶えなかったから例年祈願をしたのであろう。祈願といっても西福寺の僧がお経をあげ護摩(ごま)を焚き修法をしたのである。氏子も参籠その他を行じたことであろう。記録としては右の正徳・享保の数年間のことしか伝えられていないが、このほか、たとえば寛永・天明・天保等の飢饉の際にもこういう行事があったことは確かであろう。
 さて、ここで前にちょっと触れた神輿(みこし)のことについて書いておきたい。神輿はその棟札の書記によって、寛永五年(一六二八)の制作とされているが、昭和三七年(一九六二)の祭礼の際調査したところでは、寛永五云々の文字は見当たらず、そのかわり「東金町住飛騨藤原綱行書印」とあるそうだ。(東金市郷土文化研究会編「日吉神社祭典誌」一四頁)しかし、見落しということもあるし、志賀吾郷がいい加減なことを書いたとも考えられない。なお、この神輿はもと酒井氏に仕えて納戸役をしていた秋葉帯刀の寄進によるものといわれる。帯刀は酒井氏滅亡後、押堀村に土着し、代々割元を勤めていたということである。神輿の形装について「日吉神社祭典誌」は左のように説明している。
 
 「吾が日吉神社の神輿の大きさは、一・四メーター、四方真鍮(しんちゅう)、屋根は宝形づくり、亀甲その他の地紋があり、頂上に真鋳の鳳凰がとまっている。四方の棟の先端が蕨手(わらびて)になっており、一個ずつのつばめがついており、四個とも廻転式になっている。(下略)」(同)
 
この神輿が寛永五年(一六二八)に奉納されたとすると、祭礼が始められたという寛文三年(一六六三)の三五年前になるわけである。