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日吉神社の祭礼については、特に筆を費しておく必要があるようだ。祭礼がはじまったのは、記録によると、今から三二〇年ほど前の寛文三年(一六六三)であったようである。(最福寺の過去帳にも「祭礼寛文三癸卯年始ル」と記されている)それについては、たびたび引用する「山王宮社記」に左のような記事がある。
「承応年中(一六五二-四)男蛇池ノ争論アリ。衆人神殿ニ誓ツテ云フ、利有ラバ則チ報ズルに重祭(チョウサイ)ヲ以テセント。之ニ勝チ即チ誓ノ言ノ如ク、寛文三癸卯(ミズノトウ)ノ年(一六六三)ヨリ今ニ至ルマデ、六月十五日ヲ以テ之ヲ祭ル。則チ、大豆谷村・台方村・東金街(マチ)ノ内、上宿・両谷(ヤツ)・岩崎・新宿ヲ以テ四ケ所ト為シ、下郷ニ至リ、堀上村・川場村・押堀村合セテ九箇所ナリ。是ニ於テ、隔年楼車ヲ出シテ、神楽ヲ奏シ、歌舞ヲ聯(ツラ)ネ、神慮ヲ慰ムルハ是ノ故ナリ。」
文初の承応年中におこった「男蛇池ノ争論」とは、正確にいえば、承応三年(一六五四)七月、男(雄)蛇ケ池の水利問題で、地元の養安寺村(大網白里町養安寺)と東金領の十か村(山口村・田中村・○台方村・○大豆谷村・福俵村・○辺田方村・○堀上村・○押堀村・高畑村・○川場村(○印は日吉神社の氏子村)と係争し、幕府評定所の評議に持ちこまれ、同八月裁決され、十か村側の勝訴となった事件である。これは、養安寺村側が男(雄)蛇ケ池に田地を作って水利を妨げようとしたのに対して、十か村側が男(雄)蛇ケ池の造成が用水供給のため幕府によって行なわれた趣旨を守ろうとして出訴したのであったが、その際、日吉神社の氏子たる六か村が懸命に祈って神霊の加護を得た結果勝訴になったものと歓喜して、神への奉謝を形にあらわすべきだと考えて、それから九年後の寛文三年(一六六三)から、六月一五日を祭日と定め、以後隔年に実施することとしたというのである。(六月一五日に定めたのは、農事の上からこの時季がもっとも降雨を必要とするからである。)
日吉神社祭礼
なお、言い添えるが、祭礼を一年おきにしたのは、もちろん毎年では経費その他大へんであるということのほかに、用水の状況を見通すという気持もあったろうし、六月一五日はこの地万では田の一番草を取る時期なので、田仕事の上で都合がよいという考えにもとづいたもののようである。
祭礼を行なうのも、祈雨止雨を神に願い農事をスムースに行なうためであることはいうまでもないが、雨のための祈祷は別当の最福寺で必要に応じて実施していた。それを同寺では「雨祈祷」と称していた。それについて、同寺の過去帳には、正徳・享保の頃のこととして、次のような記事がある。
「雨祈祷。正徳四午年四月十三日、山王神前ニ於テ説法之レ有リ。明未(ひつじ)ノ年(正徳五年)大雨之レ有リ。之レニ依リ、申(さる)ノ年(享保元年)ヨリ、当寺ノ本堂ニ於テ之レヲ勤ム。戍(いぬ)ノ年(享保三年)ヨリ十五日ニ定ム。時代ハ日専上人。」
ちょっと意味の分からないところがあるが、正徳五年(一七一五)までは日吉神社の神前で祈祷を行なっていたが、その年は大雨に降られて困ったので(?)、翌享保元年からは最福寺の本堂で行なうことにして、同三年からは毎月一五日を定例日として実施するようにしたというのであろうか。
さて、第一回の祭礼が寛文三年に行なわれて、その後どうなったかについては、まとまった記録がない。ただ、「東金町明細記」によると、享保一七年(一七三二)、同一九年(一七三四)と、飛んで元文五年(一七四〇)に実施されたことが出ている。そのほかは分からない。右の三回はどういうわけか、いずれも雨にたたられている。実施された日はもちろん六月十五日だが、享保一七年は「村雨故、御輿新宿迄(マデ)。翌日、下三ケ村ヘ渡ル。」享保一九年は「雨降ル。日々小雨、十九日ニ三ケ村ヘ渡ル。」元文五年は「雨降ル。十六日新町迄渡ル。十七日、下三ケ村ヘ渡ル。」とある。下三ケ村とは、堀上・川場・押堀の三か村である。十五日当日雨降りだと、二日ないし三日がかりで行なわれたことがわかる。(お祭りの時に雨に降られると困るにちがいないが、農業者にしてみれば、恵みの雨であり祭りの当日に降るのは縁起のいいこととされた。日吉様のお祭りの時には必ず雨が降ったという言い伝えもある。)
元文五年以後、祭礼は予定どおり隔年に行なわれたかどうかを証する資料がないから何ともいえないが、文政一〇年(一八二七)組合村制度が実施され、農村生活への締めつけが強くなると、祭礼禁止の線が打ち出されて、農村では唯一のレクリエーションたるお祭りが行なえなくなってきた。当局としては、祭礼は贅沢な遊びであり、農民たちにムダな金を使わせたくないという腹であり、事実、祭りがだんだん派手になり、東金地方でも「附祭(つけまつり)」と称して、踊りや芝居などを興行する傾向もあった。しかし、農民たちにしてみれば、二年に一回の娯楽だから何としてもやりたいという希望があるので、強引にやってしまおうとする傾向があり、そのためかなりのトラブルもあったようだ。特に日吉神社の場合は、氏子村が六か村もあり、東金町のごときは商業町であるから、祭りをやれば景気をあおる効果もあり、商店の金もうけにもなるから、ぜひやりたくなるし、それに若者たちにしてみれば、血気のはけ口にもしたいであろうから、祭りなしではすまされなくなるのである。そこで、関係六か村の役人たちは関東取締出役へ一札を入れて、自分たちが責任をもつからと許可をとって実施するようにしたが、少し派手なことをやるとすぐに出役から文句が出るので、しまいには出役が取締りに出張してその監視下に祭りが行なわれるような形になったのである。そんなわけだから、隔年とはいっても、とても予定どおりには行かなかったと思われる。ただし、明治以後は生活が自由になったから、状況はかなりちがったであろう。戦時等いわゆる非常時を除けば、おおむね予定のごとく実施されていたと思う。
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祭礼の実施については、別当たる最福寺の住僧と社僧たる大林寺の僧侶が指揮を執ったことはいうまでもないが、実際の運営は社地のある大豆谷村の役人たちが中心となり、他村の役人たちがこれに協力するようにした。これについて、志賀吾郷の著「東金町誌」には、
「昔、神仏混合時代に日吉神社の祭典を執行するに当っては、西福寺住職が之れが別当として祭事の一切を総括し、其の事務を大林寺に代行せしめ、祭事終れば、大林寺境内の神輿(みこし)堂に之を納め置くを例とせしも、明治の近年に至り、其の神輿堂を日吉境内に移せしを以て、今は唯其の旧慣を重んじて大林寺の所在地たる台方の大作(おおさく)部民に祭事の前日神輿を神輿堂より移し出すことを代行せしむ。」(七五頁)
とあって、大林寺がかなり深く関与していたことがわかる。
祭事の執行については、享保一三年(一七二八)に定められた「山王宮祭礼定法」なるものがあった。そのはじめの数か条を摘記すると、
「一、祭礼の儀は先規の通り隔年に相勤め申すべく候事。
一、六月十五日御輿(みこし)へ御神体御移し申す儀、西福寺より御出家中御出で、大林寺御一同にて御祈祷成さるべく候。大豆谷村よりも御祈祷前に御旅屋(たびや)まで御迎への為め罷り出で立合ひ申すべく候事。
一、西福寺院守〔主〕衆の中御両人、大豆谷村御旅屋まで御見送り、彼所にて御祈祷相済み候はば、御帰りなさるべく候事。一、村々御旅屋にて村限り寺々御出でにて御祈祷御勤めなさるべく候事。」(「東金町明細記」)
六か村の寺々僧侶総動員で御神体を神輿に移すこと神輿を御旅屋に移すことが行なわれ、それより大豆谷村から台方村を経て東金へ入り、東金御殿の正門いわゆる開(あ)かずの門へ向かうことになる。志賀吾郷の「東金町誌」はこう書いている。
「(開(あ)かずの門は)往昔、東金城の大手口にして、火正神社の東方小坂を下る所にあり、慶長十九年(一六一四)正月、徳川家康巡遊の為め建立す。平時は開扉を許さず。因つて是れを不開(アカズ)の門と云ふ。其の後、隔年六月十五日山王祭典を執行するに及び、神輿の渡御に際しては、此の門を開きて、其の門前に仮屋を建て、領主板倉の代官此処に出役して、神輿を拝するを例とす。明治七年(一八七四)民間に払下げとなり、今は其の形跡を存せず。」(四六頁)
さらに、その際の神輿の迎えぶりについて、杉谷直道の「東金町誌」(稿本)は次のように伝えている。
「隔年六月十五日、鎮守日吉神社祭典ノ時ハ開扉ヲナシテ、御門下ニ見張所ヲ建設シ、側ニ武器ヲ陳列シテ、旧領主板倉内膳正ノ御代官ハ礼服着用出張セラレ、神輿渡御ヲ拝観スルノ例式アリキ。此ノ際、祭礼ニ随行セラレシ九ケ村ノ人々、此ノ御門前ヲ通行スルトキハ、各々頭笠ヲ取リテ一同敬礼ヲ為ス。其ノ状最モ厳格ナリキ。」(「東金市史・史料篇一」四二頁)
このあと、神輿は下三か村(堀上・川場・押堀)を練りまわったものである。神輿の巡行の順路をまとめてみると、大豆谷(まめざく)--台方--上宿--谷(やつ)--岩崎--新宿--堀上--川場--押堀の順となり、押堀の御仮屋で解散となったようである。また、神輿には山車(だし)または屋合が附き随うのが例になっていたが、岩崎と新宿とが山車をもち、他は屋台をそなえていたもののようである。山車には人形などの飾り物がつき、屋台は踊り舞台をそなえ、ともに鳴り物入りで曳かれるから、たいへんはなやかなものになる。編者は安政三年(一八五六)四月二八日付の江戸人形町通り若松屋金左衛門なる者の書いた「出シ(山車)印(じるし)御注文仕訳(しわけ)覚」という文書(関岡帝一家文書)を見たことがあるが、そのはじめに「一神功皇后人形、高サ四尺五寸、但頭手足胴并鎧金仕立金物、代金拾弐両弐歩也」とあった。これは、新宿から注文した山車人形(人形の装飾品等を合わせると総計三拾八両弐分也)の仕訳(しわけ)書と考えられる。神輿をかつぐ者、山車屋台を曳く者、踊りをおどる者、下座をつとめる者など、なかなかにぎやかで派手にもなっていったことであろう。安永年間(一七七二-八〇)には、手古舞の派手姿もあらわれていたということだから、かなり華麗な色どりであったことが想像される。
以上のような祭礼の様相は、明治以後にも受け継がれていったものと考えられる。
3
次に、現代における祭典の状況をのべてみよう。とにかく、寛文三年(一六六三)以後三三〇年の伝統をもつ祭礼のことであり、また、古例を尊重する神事のことであるから、基本路線に変わりはないけれども、時代の変遷に応じた変化はいろいろな面にあらわれているようである。まず、期日は隔年の旧暦六月一五日(新暦では七月二〇日頃)とすることに変わりはないが、一四日を前日祭として二日にわたって行なうことになっている。そして、九区(元の九か村)が全部参加して、神輿の渡御、山車屋台の巡行が行なわれるのを連合祭典と称している。しかし、これは必ず実施するというのではなく、社会情勢等によっては、神輿の渡御のみを行なう場合もあり、全く休祭にしてしまう場合もある。また、定例年以外の年には、神社でのみ挙式し、これを「カゲ祭」といっている。
祭典の執行本部は神社の所在する大豆谷区におかれ、これを「宮元」と称する。祭典の準備は早くから始められているのであるが、六月一日(旧暦、以下同様)関係者の会議が持たれ、行事の細部まで決定される。ついで、十日には各区から人数を出して、神社境内・表参道の清掃が行なわれ、十三日までに各区の山車屋台等の整備が済まされる。十四日を迎えると、午前一〇時に祭典はじめの祝詞奏上等の儀式が執行される。そして、午後三時三〇分神輿渡御の儀に移るが、すべて神官・氏子総代および弥宜らの手によって行なわれる。まず、神輿堂から神輿が出され拝殿前に安置され、御霊遷(みたまうつり)の儀(御神体を神輿に移すこと)が行なわれ、鳥居前で祝詞を奏上、ついで、大豆谷の仮宮(御旅所)まで大太鼓を先頭に榊・山鉾・高張提灯・神輿の順で一キロの道を進む。神輿は禰宜(ねぎ)四五人が担ぐ。仮宮で、また祝詞奏上等があり、神輿は仮宮で一夜をおくることになる。一方、神輿に随従すべき各区の山車と屋台は、当日午後八時までには、大豆谷の仮宮へ集合して、神輿とともにそこで一夜を明かすことになる。
なお、山車と屋台は「付属」と呼ばれているが、山車をもつ区は岩崎(人形は神武天皇)・新宿(人形は神功皇后)・押堀(人形は牛若丸)の三区で、屋台をもつ区は大豆谷・台方・上宿・谷・堀上・川場・押堀の七区(押堀のみは山車・屋台の二種をもつ)である。
いよいよ一五日の朝を迎えると、八時に山車と屋台が先導して大豆谷の仮宮を出発、その後に神輿がつづき、国道一二六号を東へ進み台方から上宿・岩崎へかかり、八鶴湖をまわり谷を経て、ふたたび岩崎に出て新宿から砂押県道を南へ下り、川場から押堀へ向かう。(その途中、神輿の寄進者たる秋葉家に立寄る習慣が大正初期まで続いていたが、その後秋葉家は東京へ転宅してしまったので、現在は行なわれていない。)押堀には仮宮が設けられてあるので、神輿はここに安置され、祭典終了の儀式が執り行なわれる。そして巡行の隊形は解かれ、山車・屋形は各区に帰り、神輿は神社へ帰還して、御神体は本殿に遷されることになるのである。