東金の上宿にある。御殿山の一角を占め、市街地に面している。祭神は迦具土神(かぐつちのかみ)である。この神は火をつかさどる神で、伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉(いざなみ)両神の子であるという。別名を火産霊神(ほむすびのかみ)とも称する。創建は元禄一一年(一六九八)一月二八日とされている。(杉谷直道は「酒井家東金在城中の創建にて」(「東金月報」五三号、明治四五年二月刊)といっている。)この年は、幕府が防火意識の徹底に力を入れ、火事・消防に関する規則を制定した年である。当時、東金は板倉領であった。板倉氏は消防には熱心だったともいわれているので、町民と協力してこの社をつくったのであろう。社名ははじめ火消大明神といっていたそうだが、宝暦一〇年(一七六〇)の「辺田方鑑」には「火正大明神」と出ている。明治以後火正神社と改めた。そのことについて、志賀吾郷の「東金町誌」には、「神号は吉田神祇官に請ひ、奉号火正神社と改む」(八四頁)と記してある。いつ改称されたかは不明である。
この社の祭典は隔年一月二八日に行なわれる。その創始の年時は不詳であるが、神輿は享保一八年(一七三三)一月に建造されているので、そのころから祭典もはじまったものと思われる。祭りの日には、上宿・岩崎・新宿・田間の四区から山車が出て露払いをつとめ、神輿は上宿(羽黒前)の御仮屋から田間の峯下まで巡行するのが例になっている。ただ、明治一六年(一八八三)一二月一七日の東金の大火後は一時休祭となったが、その後は復活して現在にいたっている。もっとも現在は山車は出ないで神輿の巡行だけが行なわれている。
ところで、この祭の起原などについて、こんな話が伝えられている。
「東金町火正神祭礼ハ、誠ニ小児ノ戯レナリシガ、追々盛大トナリ、岩崎ヘカツギ込ミ、其ノ時大木(桜木)ノ名主中ニテ詑書(ワビショ)ヲ取リシ事アリ。然ル後、段々ト益大トナリ、今ハ東金中ノ祭リトナレリ。(大多和平左衛門ノ話)」(吉井宗元「山武沿革考」東金市史・史料篇一所収・一一頁)