本社の社殿は特殊な構築をなしている。これはおそらく地相の関係から来ていると思うが、拝殿のうしろに勾配の強い数十段の石段があり、それを登ったところに本殿が建てられている。高燥で眺めのいいところである。
この神社の由緒を記したものに「東金領辺田方村神明宮社記」(「東金市史・史料篇二」一一一〇頁)がある。祝詞式の古めかしい文章で綴られているが、その要領をのべると、一条天皇の御代、長保三年(一〇〇一)の春、方々の国々に悪疫が発生流行し、庶民がこれに罹かり、死人が多く、天皇のお耳に達すると、大いに驚かれ、直ちに役人達と相談なされ、伊勢の皇大神宮に勅使を遣わし、斎場をつくり、火をたき神楽を奏して、事情を申し上げたところ、大神のお告げに、このように天下の人民が悪疫のため苦しみ死するのは、悪しき神が悪しき事をするからである。直ちに国中の各郡に斎場を造り、御幣を建て、わが分神を祀れとお命じになった。そこで上総国においては一一郡の太守で大滝城主(大多喜)の薄井遠江守貞景に祀らせた。貞景は一郡ごとに大神を祀らせて最大の敬意をあらわした。すると、神威はたちまちあらわれて、さしも流行した悪疫も癒えて、天下の人民はおだやかに楽しく暮らすことができるようになった。
そこで大守遠江守貞景は、山辺郡の神社へお礼の品々と御田一六石を奉納して、神徳を称えたので、神の稜威(みいつ)は輝いて、郷人は久しくその加護を受けるようになったのであるという。
本社はその時山辺郡全体の神社として創立されたわけで、大きな重みをもっていることになる。それだけ、郡内人民の崇敬もひとしおであった。
その後の本社の歴史はほとんど不明であるが、徳川時代の寛永四年(一六二七)五月四日、神社の前で市祭が行なわれ、同年一二月二四日から市場がたったということが伝えられている。これは本社が市民生活と深い関わりを持っていたことを語るものである。本社の花崗岩づくりの鳥居は元禄一三年(一七〇〇)五月新宿町民によって奉建されたものである。その後、文政五年(一八二二)六月に火除道路が開かれたが、そのことについては、杉谷直道の「東金開拓年表」に左のように記されている。
「東金新宿神明宮火除道、領主(板倉侯)役所ヘ願上ル。徳川政府ヘ伺ヒノ上、御許可ニ成ル。長谷川荘蔵・内田清三郎所有ノ屋敷ヲ分裂シテ、之レヲ買求メ、二間一尺ノ通路ヲ開ク。」
また、社殿は明治四四年(一九一一)二月二〇日に改築落成し、同年三月一日遷宮式が行なわれた。当日は山車が出て大いに賑わったということである。これが現在の社殿である。(この件について、杉谷直道の「東金町来歴談」には「明治四十三年三月新宿五十瀬神社本殿新築ニ定マリ、五月ヨリ工事始マル。明治四十四年四月三日五十瀬神社新築竣工ニ付キ御遷宮式アリ。」と記されている。年時に多少の狂いがある。いずれが正しいか、きめかねる。)
なお、祭礼は毎年二月一日に執行されている。
また、江戸時代本社の別当寺は東金山大田寺であったが、この寺は年代は不明であるが廃寺となり、一時本覚坊と称されていたということである。(杉谷直道「東金町来歴談」による。)
安川柳渓著「上総国誌」(巻六六)には、本社のことを左のように記している。
「東金町新宿鎮座ノ五十瀬神社ハ、祭神天照皇大神。長保三年辛丑(かのとうし)五月朔日、大田喜(大多喜)城主薄井遠江守貞景ノ祀ル所ナリ。其ノ由縁詳カナラザルナリ。」(原漢文)
また、杉谷直道の「東金町来歴談」に左のような記事がある。
「安政五午年(一八五八)八月、吉田太兵衛所持ノ山地、神明社ヘ寄附致サセマシタ。杉谷直敬(直道の父)、神明社ノ濫觴(ハジマリ)ヲ記載シテ、町内信仰ノ者ヨリ出金ヲナシマシテ太兵衛氏ヘ渡シマシタ。」
なお、本社の入口左側に「礎」の碑がある。これは、昭和四四年(一九六九)三月、十三夜会によって建てられたもので、背面に永久平和を念願する意味の文章が刻まれ、そのおわりに、「みちにあり 今日あり 吾あり ああ礎ぞ 此処に祀(ま)つらん」という歌が書かれてある。
五十瀬神社(新宿)