浅間(せんげん)神社(新宿)

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 本社は新宿の北方、岩川池のほとりの丘上に鎮座している。社名を「アサマ」といっている人もあるが、「せんげん」と読むのが一般的である。また、本社は古い時代には、「千眼天王(せんげんてんのう)」または「千眼大明神」と呼ばれていた。それが「浅間神社」と呼称されるようになったのは、明治二年(一八六九)からである。祭神は木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)と大巳貴命(おおなむちのみこと)(大国主命の別名)の二柱である。浅間神社は富士宮市にある神社が総本社となっており、本来は富士山信仰からおこったものであるが、普通には子育ての神として崇敬されている。
 本社の創立については、二つの説がある。一つは平安時代の大同年間(八〇六-九)であるとし、他の一つは戦国時代の天正年間(一五七三-九一)であるとする。あまりにも違いすぎるのに驚く。
 大同年間説は、「東金町誌」の著者志賀吾郷の説である。
 
 「大同年間、富士本山より分霊を移せしものにして、地方における最古のものなり。其の由緒は年暦遠くして其の詳を極むる能はず。殊に本社は元より上行寺に於て別当職を勤め、祭典を司り来りしも、先年上行寺は失火の為め書類一切烏有(うゆう)に帰せしを以て其の旧記の見るべきものなし。唯、境内樹木の古色を帯ぶるより考ふるも、五十瀬(いそせ)神社と同時代より祀られたることは明かなり。」(八三頁)
 
大同年間の創立のはずだが、別当寺たる上行寺(田間)が焼けて資料がなくなったから立証することができない。しかし、少なくとも五十瀬(いそせ)神社(長保三年(一〇〇一)創建、別項参照)の創建年ごろから祀られていることはたしかだというのである。
 次に、天正年間説は、杉谷直道の所説で、彼はその著「東金見聞誌」(稿本)の中で
 
 「創建不詳ナレドモ、天正年間酒井家東金在城中創立セリト云フ。」
 
といっているのである。資料が示されていないから、伝承にすぎないであろう。
 以上の両説のいずれが正しいかは、とても断定することはできない。
 江戸時代における状況について、杉谷直道はこう書いている。
 
 「元禄三午年九月、旧領主板倉内膳正重知氏願主トナリテ、茲ニ数百歩ノ地ヲ奉ジテ、家臣斎藤正倫・堀内元実ヲ以テ作事掛リトナシ、社殿建立シテ、元禄十四巳(み)年六月朔日(ついたち)、祭事執行ス。其ノ後天保七申年、板倉刑部少輔氏ノ命ニ依ツテ、太田綱次・名主杉谷直温之ヲ再建ス。」(同)
 
この記事と同内容のもので「浅間神社縁起」という文書があるが、それと読みくらべると、多少の異記がある。「数百歩ノ地」が「縁起」では「百歩ノ地」となっているが、これは「縁起」のほうの誤記であろう。また、元禄十四年の祭事のところで、「縁起」には「五月晦日より」とあるが、六月朔日が本祭で、その前夜夜宮を行なったということであろう。(現在も新暦でこの慣習が行なわれている)なお、太田綱次は当時の板倉藩の代官(東金御殿在勤)であったことが「縁起」によって分かる。そういう小さいことよりも、大切な件は元禄三年(一六九〇)(「縁起」によれば九月一日)社殿が建立され、同一四年(一七〇一)から祭事が行なわれるようになり、天保七年(一八三六)に社殿が再建されたことである。一四六年後の再建である。
 今から約三〇〇年の昔、板倉藩主が願主となって建立されたのであるが、場所はもちろん新宿の現在地である。しかし、「茲ニ数百歩ノ地ヲ奉ジテ(「縁起」は「給ヒ」)」の表現は、それまでは祀られる土地もなかったのを、板倉藩が土地を提供して祀ったという意味に取れそうである。その創始は大同年間とか天正年間とかいわれているが、しからば、どこに社があったのか場所については何も伝えられていないのである。これはたしかに変である。そうすると、本社の創建は元禄三年とすべきではないかとの考え方も生まれて来そうである。その問題は今後の考証にまつべきことである。
 さて、明治二年(一八六九)になると、本社の社地は官有地となったが、同九年(一八七六)民間へ払い下げになったのを、新宿町民たちは共同出金してこれを買い請け「町中持共有地」とした。そして、同二三年(一八九〇)にいたって、天保七年(一八三六)の再建以来痛みのひどくなった社殿を再築した。
 ところで、本社の祭事は前記のごとく元禄一四年(一七〇一)以来行なわれているわけであるが、江戸時代には板倉藩主の代理として、東金領代官が代参して執行され、神事としては、境内の巨樹の根もとで火を焚き、社僧の読経が捧げられた。祭典の執行は別当寺たる上行寺の責任であったが、それについて、「東金町誌」(志賀吾郷著)には、「元禄十四年以降の『奉社順番帳』其の他の記録によれば、上行寺住職を別当とし、寺僧等により祭典執行すとあり、」(八三-四頁)と記され、前引の「縁起」には「別当上行寺末永覚坊、毎年六月朔日祭事ヲ執行ス」とあるのによって見ると、祭典の実務は上行寺の末寺坊たる永覚坊の僧侶が取り扱ったものらしい。なお、「奉社順番帳」なるものは編者もまだ目にしていないが、附載資料に「新宿十四屋敷ヘ内玉中ヲ加ヘ、十五屋敷ニテ順番ニ祭典ヲ行フ」とあるのによって新宿と内玉とを十五の区画に分けて順番に当番をきめて祭務を取り扱っていたことが察せられる。
 次に、この祭典の特殊な行事として、「施餅の儀式」というのがあった。それは、参詣人たち(主として子ども)に餅をくばるのであるが、いわば神の餅であるから、これを食すると火傷などに逢うことがないとされた。江戸時代には領主板倉侯から糯(もちごめ)を供米される例になっていたが、明治以後は、佐久間七右衛門という篤志家が毎年一斗ずつ寄附したので不足分は町内有志の供米によっておぎなうことにしたということである。佐久間氏死後は、専ら町内有志の供米によることとなり、この習慣は現在でもつづいている。この餅配りは、五月晦日(今では六月三〇日)の前夜祭(夜宮)に行なわれているが、そのためか前夜祭はいつも非常ににぎやかで、近郷の子どもたちが父兄につれられて雲集するのが常である。いかにも子育ての神さまらしい、ほほえましい行事といえるであろう。
 本寺の入口石段の右側に一基の歌碑がある。そこには、次のような歌が刻まれている。
 
  (表面)千代かけていや栄え行く子持杉
       浅間の宮の守りともがな
  (裏面)  奉  昭和七年六月
       献    佐久間撰三
 
 境内の子持杉の徳をたたえ、児童の幸福を祈る意味の歌である。