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田間神社は、東金市田間(宮の下)二、一二六番地に鎮座している。
祭神は天之御中主神・高産霊神(たかみむすびのかみ)・神産霊神(かみむすびのかみ)の三柱を祀っている。(「上総国山武郡神社明細帳」(明治一二年千葉県編)には、これに伊邪那岐神(いざなぎのかみ)を加え四柱としている。)しかし、これは明治二年(一八六九)田間神社となってからのことであって、それ以前の神仏混淆時代には仏教の神たる第六天をまつり、社名も第六天といわれたのである。今でも土地の人たちは「第六天さま」といっている①。ところが、より古い時代の祭神は木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)、つまり浅間神社の神をまっていたようである。つまり、本社の祭神は三遷しているのである。
そこで、本社の創建であるが、それについて「山武郡地方誌」には、次の記述がある。
「伝説によると、朱雀天皇の承平五年(九三五)、上総介平良兼(よしかね)(上総政庁を今の上堺村屋形に置き四所神社を創立したといわれる)の創建に成るものといわれる。」(五八九頁)
平良兼は上総介となって都から下ってきた平高望の子で、有名な平将門の伯父にあたり、将門の父良将は良兼の弟である。高望は武射郡屋形村(横芝町屋形)に政務所をおき、その三子良兼に命じて支配せしめていたとされ、良兼の館が屋形にあったといわれており、屋形にのこる獅子舞は良兼にかかる伝説を含むものといわれるが、その良兼が屋形に四所神社を建立したのが延長元年(九二三)であり(右同書・四四四頁)その後一二年目に田間神社を創建したというのである。屋形と田間ではあまり離れていないし、高望や将門伝説の残る東金地方に良兼建立の神社があっても不思議はないとはいうものの、承平五年という年時まではっきり示した右の記述が、どこまで信憑性のあるものか、疑問は残るのである。良兼の屋形居館説は「将門記」の記事にもとづき、清宮秀堅などが肯定してはいるけれども、反対する学者も多いのである。(「横芝町史」(一二九頁)の説も否定的である。)本社が相当古いものであることは分かるが、承平五年創建説はにわかに肯うわけにはゆかないと思う。(平良兼は将門討伐のため承平六年六月に上総を出発して、やがて戦死してしまう。そこで、承平五年と考えたのではないか。)
注① 本社に奉献されたもっとも古い石灯籠に「宝暦八年(一七五八)一月、第六天王御宝前」と刻まれているので、当時第六天の呼称が一般的だったことがわかる。
社伝によれば、承平五年(九三五)上総介平良兼の創建と云われ、永正六年(一五〇九)、酒井定隆が土気城を長男定治に譲り、三男(次男ともいう)隆敏と共に田間要害台に城を築いてここに移った時、鬼門鎮護のため、現在元宮の地に第六天を祀ると共に、松之郷願成就寺を金谷に遷し、巨徳山本漸寺と改め、その内寺としている。天正四年(一五七六)六月、これを現地に遷座し一八〇年後の享保一七年(一七三二)八月一五日、新社殿を新築、以来田間郷の惣社として氏子の崇敬を集め、明治二年、神仏分離の布告によって田間神社と改称、従来社僧として社務は円因寺の住僧が執っていたが、その手を離れ神官にゆだねられ、終戦後は宗教法人田間神社と公認されて現在に至っている。
田間神社
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この神社の例祭日は隔年旧八月一五日で、これは今から二五〇年前、この神社の社殿が新築され、その神輿が購入された日に当たり、隔年となったのは、当時、二又・田間・東金の一町二村の領主板倉侯の配慮に基づくものである。
なお、この神輿購入を機に、田間神社の禰宜(ねぎ)世襲制度が確立し、現在も持続しつつあることは特筆に価することである。
この祭事の圧巻は、神輿の渡御を中心とする巡行神事で、それは一四・五両日に亘って、定められた巡行路を、屋台・榊・宝剣・神輿の順で取り行われる。
第一日 田間神社-仲通り-峯下-田間新田-小井戸-柴田道-砂押-砂押県道-田間お仮屋(一泊)
第二日 お仮屋-田中-仲通り-宮之下-白打-新町-新宿-千葉銀行-菅原神社-田間神社である。
この祭事には、松之郷後谷(うしろやつ)は氏子ではないが、祭事には参加し、砂押も祢宣は出さないが祭事には参加している。
境内は広いとは云えないが、老樹大木が繁茂している。献納物件も多く、特に第一の大華表(とりい)は天和三年(一六八三)の刻があり、日吉神社(明暦三年)に次ぐ貴重なものと云えよう。
参考までに高山彦九郎の「北行日記」の一節を掲げる。「東金の東出口田間に第六天の社有り、石橋石の鳥井金十仏有り」
ところで、現在の田間神社の社殿の背後に空堀があり、その奥のほうに小さなお宮がある。これを元宮(もとみや)または奥宮(おくみや)と称している。この地は旧田間城の城地に属し、このお宮の右側が本丸跡であり、左側が二の丸跡とされている。このお宮は明治四三年(一九一〇)四月有志の手によって建てられたものだが、もとあった宮舎が腐朽したので建て直したのであって、遠い昔ここに神社があったことを記念して、形ばかりの小さなお宮をつくり、年代がたって腐朽するとまた建て直すという風にして伝えて来たものなのである。土地の人は田間神社ができる前、ここに元宮があったとして代々伝えてきたのである。その元宮を土地の人は木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)をまつった浅間(せんげん)神社であったとしている。つまり、この小さなお宮のあるところに浅間神社があったのが発展的解消をして田間神社になったというのである。元宮の名はそこに基づいている。
浅間神社が田間神社の前身だったとするとそれが何時ごろの建立かが問題になるが、それは不明である。前記の平良兼の創建したといわれるのが直ちにこの浅間神社ときめてしまうわけにもゆくまい。では、浅間神社から田間神社に移ったのは何時のことか。そのよりどころとしては二つのことが考えられる。一つは田間神社の本殿につけられた社紋は左三つ巴であるが、これは土気城に拠った酒井氏の紋である。土気酒井氏からわかれた東金酒井氏の紋は右三つ巴である。もう一つは、本社に東金城二代城主酒井隆敏の献上した銘刀一振があることだ。以上の二件は、本社が酒井氏によって建立されたことを思わしめる。酒井氏の初代定隆(隆敏の父)は土気城主としてこの地方に君臨していたが、永正六年(一五〇九)子の隆敏とともに田開城に移った。そして大永元年(一五二一)に東金城へ本拠をかえるまで一〇年あまりは田開城と関係を持続していた。その間に田間神社を造営して守護神としたことは考えられる。また、土気酒井氏の家紋左三つ巴を神社の紋としたのは、東金酒井氏が成立する前だからだったのであろう。大永二年(一五二二)定隆が死去すると、隆敏がその後を嗣いで東金二代城主となるが、田間と深いつながりを持つ隆敏が銘刀を本社に献じたことはじゅうぶんあり得ることである。(献じた年代を「山武郡地方誌」(五八九頁)は天文年間としているが、隆敏は天文前の享禄四年(一五三一)に没しているので、それより前に献じたものであろう。)
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さて、ここで問題になるのは祭神のことである。酒井氏はどういう神をまつったのであろうか。それについて、田間の人たる河口竹次郎氏の書いた「田間神社における祭事・神輿の由来記」には、次のような記述がある。
「……元宮の御玉(みたま)を今の社(田間神社)に遷したならば、祭神は木花開耶姫命であるはずなのに、田間神社の祭神は天御中主神・高御産巣日神・神産霊神・三神を合祀いたしており、これは『房総双書』また県の台帳に記載されており、昔は田間神社の祭神は天照皇太神と春日様と八幡様で、今年の祭は春日様が出たから血を見なければお山に成らない、などと子供の頃聞いていましたが、元宮の御玉を田間神社に還してしまったので、空社に後谷(うしろやつ)区民が浅間様を祭ったとも考えられますが不明です。」(六頁)
この記述には、祭神についての疑問と迷いがあるようだ。誰だかわからないという懐疑がついてまわっている感じだ。浅間神社の祭神をうつしたはずだから、木花開耶姫命が祭神であるはずなのに、現在は天御中主神以下三神になっているが、天照・春日・八幡の三神だという説もあるというわけだ。いったい、一般的に神社の祭神には複雑怪奇なところがあって、普通人にはわかりにくい面が多い。しかも、うっかりしたことが云えないので困るが、筆者の臆測では、天御中主神以下三神となったのは明治維新以後で、それ以前は天照・八幡・春日の三神であったのではないだろうか。そして、酒井氏によって建立された時には、天照・八幡の二神であったのに、後になって春日が加えられたのかとも思われる。(「春日様が出たから」うんぬんの話は三神の不和を憂える民衆の気持が思われる。)江戸期は仏教色が圧倒的に強かったから、第六天に置きかえられた形になってしまったような感じがする。つまり、本社は、(一)浅間神社(木花開耶姫命)-(二)第六天(天照以下三神)-(三)田間神社(天之御主以下三神)という三遷を経ているような感じがするのである。
前に本社の創建時を酒井氏の田間城在城時であろうと述べておいたが、それについて次のような別説がある。それは、河口氏が前掲の書に左のように書いていることである。
「田間神社は現在の地に建立されてから、今年(昭和五〇年)で三百九十九年と言う人がおります。明治二年の神仏分離の後、当時の役人が神社の履歴を調査に来ましたが、第六天王様の総代人かあるいは管理者が境内の立木から見て、三百年ぐらい経っているでのはないかと、この時三百年と台帳に記載され、それから今日まで九十九年になります。」(三九頁)
昭和五〇年(一九七五)から三九九年前というと、本年(昭和六〇年)からでは四〇九年前であり、天正四年(一五七六)にあたる。東金酒井氏五代政辰の時代であり、酒井氏滅亡(天正一八年)の一四年前になり、定隆・隆敏の田間入城の永正六年(一五〇九)から六七年後になる。社紋と献刀から割り出すのも臆説だが、立木の年輪から推測するのもやはり臆説であろう。しかも、その間に七六年の開きがあるのでは、どうしようもない。ただ、四〇〇年以上前の創建であることは、まずまちがいないようだ。
さて、江戸期に入ってからの本社は、享保一七年(一七三二)八月一五日に、新しい社殿が落成したと伝えられている。(志賀吾郷著「東金町誌」八五頁)これが二度目の社殿建築ということになる。天正四年から数えると、一五六年後になる。ところで、この社殿再建の四七年前の天和三年(一六八三)に建立され小鳥居(一の鳥居と呼ばれる)がある。これは茨城産の御影石で造られたものであり、相当に立派なものである。(日吉神社の鳥居(明暦三年(一六五七)建立)とともに有名である。)そして、前記のごとく二七年後の宝暦八年(一七五九)一月に石灯籠(三の石灯籠と呼ばれる)が、次に五三年後の天明四年(一七八五)にはまた石灯籠(一の石灯籠と呼ばれる)さらに、天保六年(一八三二)一月には三つ目の石灯籠(二の石灯籠と呼ばれる)が、それぞれ献納されている。当時、石の産出されない当地方に石の建造物をつくることは大へんなことだったに拘わらず、このように度々奉納されたことは、本社が霊験著しい神として住民の厚い信仰を受けるにいたったことを物語ると見てよいだろう。氏子も田間郷一帯に増加していったことは勿論である。
本社の社殿は明治初年に三度目の新築が行なわれた。これが現在残っているものである。本殿・拝殿とも、その外容その内装相当に豪華なものである。境内には樹齢四百数十年といわれる欅の巨樹をはじめ松杉銀杏等の古木が多く、蒼古にして森厳の気をたたえている。
明治以前には、神社の管理は寺院が別当として執り行なうことになっていたが、本社は本漸寺がこれに当たっていたけれども、実務は同寺の末寺圓因寺の担当となっていた。圓因寺には檀家がなく、その住職は寺に居住していわゆる社僧として田聞神社の社務を取扱っていたということである。なお、この寺は県営住宅のところにあったが、廃寺となって今はなくなってしまっている。なお、本社は大正三年(一九二四)一一月九日田間字仲通り熊野神社を合祀した。
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田間神社の祭礼は、昔から八月一五日(旧暦)に行なわれているが、いつから始まったかは明らかでない。祭りに不可欠な神輿が造られたのは、その棟札の記載によって、享保一七年(一七三二)八月であったことが分かる。したがって、祭りもその頃から始まったものと考えられるのである。ところで、この年は前述のとおり社殿の新築の成った年である。社殿と神輿が同時に出来、八月一五日に祝賀の式典が行なわれたのではないかとも思われる。そこで、祭りの日をこの日と決めてきたのではないかとも想像される。しかし、説をなす人は、酒井定隆の時代、毎年八月一五日つまり中秋の名月の夜、月見の宴が催されたことにもとづくのだとしている。いずれにせよ、実りの秋をことほぎ神に感謝するという意味があったことと思われる。
さて、神輿を寄進したのは、田間仲通りに居宅のあった小安弾正忠(だんじょうのちゅう)という人物であった。この人は元酒井氏の家臣で五百石取りの儒者の血筋の者(酒井家の「諸士役人名前」による)で相当の資産家だったらしく(家号を長屋といった)みずから出資して江戸で造らせ(大工は師勝宮大工田中伊之助)当時田間村の名主だった田辺外記(げき)がこれに協力したという。外記も酒井氏の家臣筋で、もとは高百石の給人身分(前出「諸士役人名前」)だったが、その居宅は田間の新町にあったという(家号は弥惣といった)。出来上がった神輿を江戸から運ぶのはなかなか大へんだったようで、田間の若者数十人が昼夜兼行で担ぎ運び込んだという。その時の若者たちの家が代々袮宜(ねぎ)の役を受けついでいるという話である。
田間村は寛文一一年(一六七一)から板倉氏の支配となっていたので、祭事もその規制を受けていたが、日吉神社の祭礼との関係もあって、同年に二社の祭礼が行なわれるのは経費その他から問題があるので、たがいにダブらないように隔年実施という習慣が昔からある。
祭礼の圧巻は神輿の渡御巡行である。そして、祭事は一四日からはじまり本祭りの一五日まで二日にわたるのが原則であるが、雨天などのため日延べになることがあった。祭事は田間村が中心となって行なわれるが、砂押部落も参加し、また、後谷(うしろやつ)は氏子ではないが参加するのが例であった。さて、祭礼は一四日の神社での祭事ののち、神輿の御仮屋への渡御となる。それについて、文久三年(一八六三)の「勝田太兵衛日記」(「東金市史・史料篇二」一、一二〇頁)によると、「八月十四日、正午の刻、御(ママ)輿御旅に相成り、御仮家に入る。」とあるので、正午に神社を出発したことがわかる。祭列は屋台・榊・宝剣・神輿の順である。まず、仲通りの小安宅へ立寄り、神輿寄進者に敬意を表し、それから、峯下・田間新田・小井戸部落を通り、柴田道を下り、砂押の春日神社で休憩し、現在の砂押県道を上って、峯下の御仮屋(現在の滝口裕氏の前に設け、「田間神社」の額を掲げた)に着く。神輿はここで一泊することになる。
翌一五日朝、御仮屋を出発し、田中・仲通り・宮ノ下・白打を通って新町に出、同所の田辺宅へ立寄り、神輿献納の功績に対し敬意を表し、それから村境を越えて新宿に出ると、そこに東金陣屋の役人や新宿の役人が出迎えて神輿に拝礼する。そのあと、新宿のはずれ、今の千葉銀行支店の前で引返し、菅原神社で休憩して田間神社に帰ってくることになる。こうして、神輿の巡行は終了するのである。右のような祭礼のやり方は現在まで大体変わらないのであるが、ただ、途中小安・田辺両家に立寄ることは昭和のはじめ頃から取り止めにされた。理由は御神体を民家に立寄らせるのは不敬であるということらしい。祭礼には附祭(つけまつり)ということがあって、芸事が行なわれた。獅子舞・手踊り・小芝居などが音曲を伴って、相当派手に試みられたのであるが、幕末や、大東亜戦争期などには、抑制禁止の措置が取られたのである。また、祭には洒がつきものだから、それによるトラブルも何度かおこっており、刃傷沙汰を引き起こした例もいくつか伝えられている。