八坂神社(松之郷)

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 八坂神社は東金市松之郷に鎮座し、本社の由緒はかなり古いのであるが、それだけに不明の点も多い。明治三年(一八七〇)に当時の神主佐伯梅治の記した「八坂神社略暦」によると、「祭神素戔鳴尊、勧請(かんじょう)年紀不詳」とあり、注記に「正応二年(一二八九)字久我台ヨリ字本村(松之郷)ニ遷座」と記されてある。勧請とは神仏の分霊を迎え祀ることをいうのであるが、八坂神社の本社は京都祇園町にあることはよく知られており、その分霊をここに祀ったわけであるけれども、「年紀不詳」で、その年時がわからないという。しかし、注記に正応二年(一二八九)に久我台から松之郷に遷座されたとあることによって、鎌倉時代に久我台にあった社であったことが知られる。久我台には久我台城があり、北条長時・久時・守時のいわゆる北条三代のうち、久時の頃であったと考えられる。久時は延応元年(一二三九)に生まれており、正応二年には五一歳の城主であった。その年に久我台城内に祀られてあったこの社を松之郷に遷座したことになる。ところが、「山武郡郷土誌」には
 
 「伝へ云ふ正応二年久我台城主北条久時鬼門鎮護の為め創(はじ)めて祀る所なり、と」(三〇六頁)
 
とあり、「山武郡地方誌」(五六〇頁)もこの説を踏襲している。「創めて祀る」とは創建したということである。しかし、前述のように正応二年は、社を久我台から松之郷に遷した年であって、創立した年ではないのである。だいたい、武将が城を営む時には、城の完成とともに神を祀るのが普通であるから、あるいは初代長時の時代だったのではなかろうかとも考えられる。また、遷座の理由が鬼門鎮座のためであったことは信ぜられることである。
 本社の名称は明治以前は祇園牛頭(ごず)天王祠といった。これを普通には牛頭天王または単に天王と呼んでいた。いったい、牛頭天王とは釈尊の住んでいた僧坊祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の守護神で、とくに除疫神として信仰されていたものだが、それが日本に入ってきて、素戔鳴神と結びつけられたのである。爾来(じらい)松之郷(金谷・後谷・願成就寺・小井戸・黒田・岡谷・外谷・井戸谷・中峠・馬場・小又・粟生・殿谷・菅谷・宇治)の惣社として、氏子講中の信者から「松之郷の天王様」と愛称され崇敬を集めている。
 仏教が興隆し、神仏混淆の時代は、松岸山本松寺が別当として社務を執行した。それについて、「公平村郷土資料草案」には、「神仏混合ノ世、祇園牛頭(ぎおんごず)天王祠ト称シ、松岸山本松寺ノ管掌スル所トナリ、別ニ境内ニ仏像院ヲ建テ、其ノ主管ヲ別当ト云ヒタリト云フ。」(「東金市史・史料篇一」八五頁)とあって、境内には社殿と仏舎とが併立同居するという奇観を呈していたのであった。その形骸は境内に多くの仏院が残っているところからもよくわかる。
 ともかく本社は附載資料「由緒書」に
 
 「いそのかみ古き御代より、宮柱太しく立て、此の里の産(うぶ)神と斎祀(いつき)奉り、いにしへ正応の二とせといふ年、疫病の難を除き、産子(うぶこ)ども敬神の意厚く、同村(松之郷)久我台てふ処より、今の宮地宮本村に遷座なし給ふのよし、土人口碑に伝へ侍りぬ。」
 
とあるとおり、正応二年(一二八九)から現在地に鎮座しているわけであるが、里人の信仰が「疫病の難を除」く神、すなわち除疫神を対象としていたことがわかるわけである。
 その後、約四〇〇年を経て元禄五年(一六九二)にいたって、社殿の建て直しが行なわれたことは「由緒書」の次の段にあるとおりで、それが同年の九月七日のことであったことも知られる。しかし、その後しばしば火災に遭遇し、社殿・古記録が全て焼失したが、氏子・講中の信者の深い信仰と、篤志によってその都度復興され、明治二年(一八六九)神仏分離の布告によって八坂神社と改称し、村社に列せられ、明治二六年(一八九三)現在の拝殿および社務所を改築し、大正四年(一九一五)郷社に昇格、終戦後は宗教法人八坂神社として現在に至っている。
 境内は約四千平方メートル、老樹欝蒼と神域を掩い、本殿・拝殿・参籠殿・絵馬舎・社務所の位置結構も所を得、華表(とりい)・神垣其の他奉納品もよく整理され、市指定の文化財も多く、見るからに襟を正させるものがある。
 本社は、また、自然美に恵まれた勝地であって、前引の「公平村郷土資料草案」には
 
 「境内広濶(こうかつ)ニシテ、老杉蓊欝(さんおううつ)繁茂シ、其ノ間ニ多ク桜椎ヲ植栽セリ。コレヲ以テ春季百花妍(けん)ヲ競フノ時ニ於テハ、社殿全ク桜花ヲ以テ飾ラレ、其ノ壮観云フベカラズ。」(同八五頁)
 
と、その美をたたえている。これは大正初期の情景であるが、今もそのおもかげはゆたかにたたえられているのである。
 なお、社内末社として厳島大神・子安神社・駒形神社・天満天神が祀られ、摂社として一一部落に一五社が鎮座されている。
 本社の例祭日は、往昔から旧正月七日ならびに六月の六日夕から七日夕までと定められていたが、現在は一月七日と七月七日である。五穀豊穣を祈る新年祭には、その年の稲の品種を占う神事として農民の信仰が厚く、近郷の信者が参詣し、夏の例祭には、無事田植の終了の御礼言上の参拝人が近郷はおろか、関東一圓から参集して、講中の信者が夜を徹して、翌八日に及ぶことを通例としている。

八坂神社(松之郷)


明治20年代の八坂神社絵図

 
  参考資料
   八坂神社明細書(原漢文)
 人皇第九十二代伏見天皇正応二年三月七日、久我台城主北条武蔵守平久時、居城ノ鬼ヲ鎮護センガ為メ、京都下京区祇園町官幣大社八坂神社祀(まつ)ル所の素盞鳴尊(すさのうのみこと)ノ分身ヲ請(しょう)ジ、以テ奉祀ス。此レヨリ毎歳陰暦正月七日並ニ六月七日両日大祭ヲ行フ。
 抑々(そもそも)、尊(みこと)ハ所謂(いわゆる)造国ノ大神大国主尊以下神州経営ノ神々ノ父神ニシテ、嘗ツテ親(みずか)ラ八岐大蛇(やまたのおろち)ヲ屠(はふ)リ、勇武絶倫ノ大神ナリ。故ニ、武門武士ノ世ニ当リ、彼等ハ其ノ守護神トシテ常ニ武運長久ヲ祈願シ、崇敬殊ニ篤シ。城主北条氏居常本社ヲ尊崇シ、嘗ツテ以テ屡々(しばしば)山林及ビ水田ヲ寄進シタルハ、今天王山ト称スル所ノ天王田等ハ即チ是レナリ。一伝ニ曰ク、当地字(あざ)下相谷一反五畝二六歩、字後谷(うしろやつ)田一反一九歩、已上(いじょう)ノ神田ハ、明治十九年頃、社殿造営ノ資金ヲ得ンガ為メ、之レヲ売却セリ。又、毎歳春夏二祭典ニ於テハ、必ズ奉幣ヲ怠ラズ。然リ而シテ、元禄五年本殿ノ造営ニ際シテハ、許多(きょた)ノ資金ヲ寄進シタリ。又、嘗ツテ権中納言藤原定成卿書スル所ノ「祇園牛頭(ごず)天皇」六大字ノ扁額、及ビ祈願成就ノ時、前右大臣直徳公書スル所ノ「拝受大福」四大字ノ扁額等、此ノ二宝ハ、今本社ノ蔵スル所ナリ。
 本社ハ初メ一内殿有リ、元禄ノ頃ニ及ビ之レヲ改建セリ。爾後、屡々祝融(しゅくゆう)①ノ災ニ罹(かか)リ、本社及ビ其ノ記録書類等共ニ烏有(うゆう)②ニ帰シ、遺(のこ)ル所ハ唯前記ノ二扁額ノミ。然リ而シテ、神号並ニ報謝ノ二扁額ハ特ニ災ヲ免カル、又、以テ異トスベキナリ。
 現社殿ハ明治二十六年当地其ノ他一般崇敬者等ガ一万七千円ノ巨資ヲ出シテ新築セシ所ナリ。降ツテ明治三十六年工費六千円ヲ計上シ以テ拝殿及ビ社務所ヲ改築ス。而シテ、大正四年忝(かたじけな)クモ神饌幣帛料供進指定ヲ命ゼラル。同八年又工費三千円ヲ計上シ、以テ花崗石(かこうせき)ノ鳥居ヲ建設セリ。柱ノ高サ十五尺、女経一尺五寸、而シテ笠石ノ長サ二十五尺ナリ。同年又当地一般崇敬者等、一大神垣ヲ寄進ス。長サ三十九間三分五厘、全ベテ花崗石ヲ用フ。次イデ又、参道ヲ寄進ス。長サ三十三間半、幅六尺六寸ナリ。而シテ、此ノ二工事ハ実ニ一万円ノ巨費ヲ以テ成ル。而シテ、昭和四年五月、更ニ工費五千円ヲ以テ参道ノ改修ヲ行ヒ、其ノ完成ヲ見ルニ至レリ。
 本神ノ威徳祓除(ふつじょ)③、其ノ霊験顕著ナルヲ以テ、遠近ノ崇敬愈(いよいよ)篤ク、両大祭ノ賽(さい)客④無慮数十万ニシテ、平時ノ参拝者居常陸続トシテ絶エズ。今ヤ、神域全ク旧観ヲ改メ、賽客モ亦日ヲ逐(お)ウテ数ヲ加ヘ、遠キハ東京府並ニ茨城県等ニ及ブ。威徳ノ赫赫タル以テ知ルベキナリ。
                    (八坂神社所蔵)
 
 注 ①火災
   ②すべて燃えてしまうこと
   ③神に祈ってけがれをはらい除くこと
   ④お賽銭をあげる参拝人