社伝に依れば、建武元年(一三三四)、時の征夷大将軍護良親王が、父後醍醐帝の勅勘を受けて鎌倉に幽閉されるや、親王の姫宮(名は華蔵(けぞう)姫)は父宮の上を深く哀慕して鎌倉へ赴いたが、時は既に遅く、親王は足利直義の手によって討たれた後であった。姫宮は悲歎の末やむなく帰路の途についたが、その途次道に迷い下総・上総を彷徨の末漸く辿り着いたのが、家之子の地でここに館を建ててこれを鎌倉御所と称した。今の家之子妙宣寺地内の後丘である。
この地に居を定めた姫宮は、落飾して父君の菩提を弔いその冥福を祈ると共に、これ以後は御所の名も尼御所と変わる。この地を鎌倉に擬し、延元二年(一三三七)鶴岡八幡宮の祭神誉田別命の分霊を、御所の西北の山腹に勧請し、惣社八幡宮と崇めたが、やがて、家之子・姫島両村の鎮守と定められ今日に至った。
姫宮はその後正平一二年(一三五七)七月この地で逝去されたので、これを東方の山嶺に葬った。これを姫島の姫塚という。
当時姫宮に仕えた家臣の一人、中島義則は家之子に土着し、代々神職家として八幡宮に出仕し今に至っている。
元禄一〇年(一六九七)六月吉日の本殿棟札には、施主中島正春・大工松之郷五兵衛・木捲(こびき)当村賀兵衛とあって、本殿の建築されたことが明らかである。また、前社殿は中島式部正春の代再興されたが、明治三五年(一九〇二)旧八月二八日の暴風雨のため、丈余の御神木二本が本殿に顛倒してこれを破壊したのを、中島正則の代に再建したものである。
境内は老杉欝蒼と繁茂し、閑雅幽遽の趣に充満している。
春秋二季の祭礼は今なお昔通り行なわれている。
八幡神社(家之子)