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貴船神社は、東金市山田字大立寺台(あざおおとじだい)に鎮座し、玉依姫命(たまよりひめのみこと)を主祭神とする農業・漁業を護る神として崇められている。ただし、祭神については、玉依姫命と闇〓神(くらおかみのかみ)を祀るという説(「山武地方誌」五九一頁)と〓〓草葱不合尊(うがやふきあえずのみこと)・玉依姫命・豊玉媛(とよたまひめ)命の三神を祀るという説(「山武郡郷土誌」三二九頁これは「上総国誌」(巻之二)の説によっている)とがある。
ところで、同神社には、宝暦一四年(一七六四)五月、元底院日近の書いた「上総国山田村貴船大明神縁起」が所蔵されているが、それによると、祭神は「玉依姫」とのみ記して、他の神の名は出ていない。以下、右の「縁起」に従って、この神社の由緒を探ってみよう。
「抑(そもそ)モ、上総国山辺郡山田村ノ鎮守貴船大明神ハ、坂東順礼ノ負(おい)神ナリ。其ノ順礼ト云フハ、和歌ニ名誉タル西行法師、文治建久ノ頃、諸国ニ歌枕ノ詣(もう)デヲナシ玉フニ、此ノ国ハ山辺ノ赤人・小野ノ小町、往昔(ソノカミ)左遷ノ地ナル故ニ、郡名ヲ山辺ノ郡ト云ヒ、村号ヲ小野ト聞ク。イザヤ、色敷島ノ往祖ノシバラクモ住ミ玉フ佳郷ヲ見ント--」(「東金市史・史料篇二」一一一一頁)
有名な歌人僧西行法師が、文治・建久の頃諸国の歌枕を見るため、東国順礼の旅の途次、山辺赤人・小野小町が左遷された故地たるこの地方にやってきたという。(このあとの文を引用すると煩わしいから略するが)その際西行は山城国深草の郷の墨染の桜と称する木の枝を杖(つえ)にしていたのであるが、小野・山田・山口のあたりを里まわりしたあと、この山田の地にその杖としていた枝を指し、「深草の野辺の桜木心あらばまたこの里に墨染に咲け」という歌を詠じたというのである。
さて、西行が奉じてきた「負神」はどういう神であったか、また、神社の創始はどうだったか--以下、引用しよう。
「マタ、負神貴船大明神は宗廟山城国愛宕ノ郡鞍馬山ノ西北ニ在リテ、其ノ神体ハ〓〓草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)ノ后(きさき)豊玉姫ノ妹、神武天皇ニハ母、玉依姫ナリ。……黄色ノ船ニ乗リ玉フ故ニ、黄船ノ明神ト崇(あが)ム。……此ノ神竜神ニシテ、雨ヲ祈リ雨ヲ止メ、風ヲ祈リ風ヲ止ルニ、此ノ神ヲ祭ル。第一、船中守護ノ善神ナリ。此処山田ノ里ハ、既ニ海浜ニ近シ。止メ置キテ後代ノ済度ヲ顕サント、杖ノ根(もと)ニ草ノ神祠(ほこら)ヲ結(むすび)構、神道ノ秘術ヲコメ、神体ヲ安置シテ、法師ハ古郷ヲサシテ去リ玉フ。
里人呼ビ伝ヘテ、此ノ辺ヲ坂東順礼谷(サク)ト云フモ、一理ナキニアラズ。(今、バントウサクト云フハ是レガ略ナリ。)古人ノ発句ニ
コロモキテ見ヨヤ坂東谷(サク)ノ花」(同)
西行の「負神」は貴船神社の祭神玉依姫であったという。玉依姫は竜神であり、風雨の神海の神船の神である。西行は山田の地に指した桜の根元に簡単な神祠をつくり、「神道ノ秘術」をこめて神体を安置した。これが当社の創始であり、そのあたりを坂東順礼谷(サク)といったのを略して坂東谷というようになったという次第である。
貴船神社(山田)
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これは由緒とはいいながら、いわば伝説であるからそのつもりで考えないといけないだろう。由来、古い神社や寺院の創立に聖人や聖僧が結びつけられる場合は多いのである。西行は歌の方でも仏教の方でも神格化された存在である。この地方に山部赤人や小野小町の歌人伝説があることは事実だし、また、山田には墨染桜の話もある。西行は非常に桜好きの人で、生涯の歌作二千首のうち一割以上は桜の歌であり、また、謡曲には「西行桜」というのもある。神仏混淆時代のことだから、仏僧が神社を建てる話も成立するであろう。
墨染桜
そこで、この由緒を西行の伝記から吟味してみよう。西行は生涯に二度関東から東北地方を行脚している。第一回は、彼が三〇歳のころ久安三年(一一四七)に行なわれ、この時は房州へも立ち寄ったらしく、同国館山水口の西行寺に伝説を残している。第二回は文治二年(一一八六)六九歳の時のことである。右の「縁起」には「文治・建久の頃」とあるが、この語に即して考えれば、文治二年のほうがあてはまりそうである。この年彼は平重衝(しげひら)によって焼打ちされた奈良東大寺の再建のため砂金勧進に老躯をひっさげてはるばる奥羽の地にまで赴いたのである。この時彼は鎌倉に立ち寄り、それから奥州平泉に行っているが、どの道を通ったかは、もちろん不明である。したがって、わが東金地方へ来たかどうかも証明はできない。第一回の時は、房州を通って奥羽へ行っている形跡があるので、東上総を通った可能性が考えられるかもしれないが、といっても明証などあるはずはない。また、彼が貴船神社の神体を奉じてきたというが、それがなぜかということになると、これも分からない。
貴船神社の本社は京都の貴船山(左京区貴船町)にある。祭神は闇〓神(くらおかみのかみ)である。この神は水を主宰する神であって、祈雨または止雨には特に霊験あらたかだというので、平安時代からその分霊を各地に勧請(かんじょう)する風習があった。農作地であり、また海浜に近いこの山田の地にこの神が祀られたのも当然のような気がする。しかし、右の「縁起」に玉依姫のみを祭神とし、肝心の闇〓神のことが記されていないのはどういうわけであろうか。玉依姫の本体は「綿津見神(わたつみのかみ)」すなわち海神とされているので、山田の貴船神社は本来海の神として祀られたのであろうか。京都の貴船神社の分祀であるならば、闇〓神をまつるのは当然であろう。それから考えれば、「山武郡地方誌」に祭神を玉、闇二柱としたのは理にあうような気がする。もっとも、この両神はいずれも水の神にはちがいないから、さほどこだわらなくていいのかもしれないが。(なお、「山武郡郷土誌」の豊神は玉神の姉〓神はその夫である。つまり、同族の神を併祀したことになる。しかし、このことも「縁起」にはない。)
ところで、「縁起」の次のところを見ると、当社の御利益が左のように書いてある。
「不思議の化(け)現ハルルカニ、春秋ヲツミ、星霜ヲカサネ、利益数フルニ遑(いとな)アラズ。シバラク其ノ一、二を云ハバ、或ヒハ癩病難ヲ祈リテ平癒ヲ得、アルヒハ旱魃難ヲ祈リテ郷村耕作ニ雨ヲ得、アルヒハ海中ニ没シナントスル時、此ノ神ニ祈誓シテ、波浪忽チ静マリ、却ツテ順風ノ渡海ヲ致シ、或ヒハ悪魔ノ者ノ落馬ニ因リテ、心ヲ転ジテ善人ニ復シヌ。故ニ、三里四方ノ海辺ヨリ船長(ふなおさ)ノ参詣ハ何処ヘモウヅルゾト問ハズ。」(同、一一一二頁)
どこの寺社の縁起にもある盛り沢山な御利益である。農事の難を救ったこともあるが、どちらかというと漁業の神という印象を受ける。事実、土地の人に聞いても、水難の神さまだと答える人が多いのである。「船長ノ参詣ハ何処ヘモウヅルゾト問ハズ」とは、船長ら漁業関係者は必ずここに参詣するという意味であろう。ただ、土地の農民たちの間には、雨乞いの神として信仰されていたこともたしかである。
なお、一三世紀のころ、土気の西辺の大椎城に拠っていた千葉氏が、当社を鬼門鎮護の地として崇信していたことが伝えられている。そのことから、当社の創建や発展に千葉氏が何らかの関わりをもっていたのではないかという想像もめぐらされてくる。
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その後、室町時代に入り、一五世紀の半ば過ぎ頃に、当社には二つの大きな変化がおこった。一つは、社地を坂東口から大立寺台(おおとじだい)に移したことである。他の一つは、南照山妙観寺が併設されたことである。まず、社地を移したことについて、「縁起」は、
「然ルニ、桜木ノ元ノ社ハ余リニ途傍(みちはた)ナル故ニ、霊籖(みくじ)ノ託(つげ)ニマカセテ、中頃大立寺台ト云フ山ニ遷移(うつ)ス。今ノ社地是レナリ。」(同)
と記している。「桜木ノ元ノ社」とは墨染桜のある坂東谷の社のことで、道端に面して(低地でもあった)いて、神社としての荘厳さが保てないということだったのだろうが、おみくじを引いて、より高地で樹木に囲まれた大立寺台に移すことにしたというのである。これは、社伝では、享徳二年(一四五三)六月一五日のことだという。
ところが、この大立寺台には、もと、大立寺(だいりゅうじ)という名の寺があって、それは西行法師によって建立されたものだという伝説がある。その寺のあった場所は現在の貴船神社の裏側のところで、今は畑になっている。西行が神社と寺を建てたとはちょっと信じられないが、土地の人は大立寺台という地名からしても、寺があったにちがいないと云っている。
次は、妙観寺を創立したことであるが、それについては、「寺院」の部、妙観寺の項を参照されたい。