創建の年時は不明である。鳥居には「六所大明神・安永八己亥(つちのとい)九月吉日」と刻まれてある。安永八年(一七七九)は江戸中期だが、その頃かそれ以前に建立されたものであろう。六所宮とか六所明神とかいう社が各地にあるが、それらはその国の一の宮から六の宮までを一か所に祀ったものであって、往古は国府またはその附近に建立するのが普通であった。いわば、一種の綜合神社であろう。
本社の鎮座する小野福俵というところは、小野村と福俵村の中間地点にあって、二つの村の板ばさみ的な運命を背負っていて、農事関係とくに用水の問題ではいつもなやまされていた。地水(じすい)の流れたる小野川が小野村を流れ、その水を五十樋(どい)という堰で分水することになっていて、その五十樋は福俵村が管理していた。小野福俵では勢い両方の村に気を使わなければ身が保てなかった。水論も幾度かおこっている。親和と平安とはこの土地の人たちの切実な願いであった。そういうところから建てられたのが本社であった。これは筆者の独断的な見解ではなく、土地の故老に聞いた結論である。神社には多かれ少なかれ、こういうナマナマしい現実的な背景があるのである。
六所神社(福俵)