東金市福俵字荒井にある。天迦具土神(あめのかぐつちのかみ)・武御方命(たけみなかたのみこと)・水速女命(みずはやめのみこと)・大山咋命(おおやまくいのみこと)の四柱の神をまつってある。(「山武地方誌」(五九一頁)は武甕槌命一柱とする)境内の広さは六四〇坪(二一一二平方メートル)である。
本社は田中の鹿渡神社と同じ名を持ちながら、祭神が全くちがっている。ちょっと異様な感じがする。天迦具土神(あめのかぐつちのかみ)は火の神、武御名方命(たけみなかたのみこと)は武の神、水速女命(みずはやめのみこと)は水の神、大山咋命(おおやまくいのみこと)は穀物の神であるが、武御名方神は諏訪神社の祭神で、鹿島神宮の武甕槌命とは敵対関係の神である。
ところで、「上総国誌」(巻之六、村部下)を見ると、本社のことが、田中の鹿渡神社と関係づけながら次のように記されている。
「福俵村ハ田中村ト東西ニ地ヲ接ス。古ヘハ一村タルカ。故ニ、鎮守ノ鹿渡神社ノ祭神ハ武甕槌命。天慶(てんぎょう)八年乙巳(きのとみ)(九四五)九月十九日鎮座ス未詳。田中村ト同神タリ。然レドモ、本村ニ移祀(いし)スル所ノ年紀不詳ナリ。」(原漢文)
これによると、田中の鹿渡神社は天慶八年(九四五)に創建されたが、その霊を福俵に移して同名の神社をつくったが、その年代は不詳である。祭神も同じ武甕槌命であるというのである。このように、「上総国誌」は武甕槌命一柱とするが、これと同説なのは前に注記した「山武郡地方誌」である。これに対して、天迦具土神以下四柱説を取るのは、「上総国山武郡神社明細帳」と「山武郡郷土誌」(三三五頁)である。しからば、いずれを正しいとすべきであるか。
本社の創立は、「上総国誌」では「不詳」ということだけれども、前引の「明細帳」には、次のような記述がある。
「当社創立文亀三年五月大旱魃にて、参籠して祈雨を乞ふ。然るに、其の神徳有って降雨す。」
これによると、室町時代の文亀三年(一五〇三)五月に創立されたと読める。そして、その年大旱魃があったことになる。田中の鹿渡神社が天慶八年(九四五)に建てられたとすると、五五八年後の建立になる。
なお、本社は大正二年(一九一三)九月一八日同所字中島の諏訪神社を、同年一〇月七日同所字新畑の水神社と同所高畑新田の日吉神社を合祀している。
また、本社の表鳥居は元禄一四年(一七〇一)九月(神名を「鹿渡大明神」と記す)の寄進であり、中鳥居は享保八年(一七二三)八月(神名を「八幡大菩薩」と記す)の寄進である。
参考資料
一鎮守鹿渡大明神(三間四面、高サ一丈)
除地ニテ本福寺持ニテ御座候。
御本尊 御丈一尺一寸
拝殿御座無ク候。
外
末社五ケ所御座候。
右同断除地ニテ本福寺持ニテ御座候。
(「福俵村明細帳」(享和二年)「東金市史・史料篇一」所収一九二頁)