水神社(一之袋)

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 この神社は市内一之袋にある。本社は水の神たる水象命を祀ってあるが、熊野大権現・気多(けた)大明神も併祀されている。
 徳川時代には、大沼田の妙経寺が本社の別当として社務を取り扱っていたが、その妙経寺の所蔵文書の中に、本社関係の次のような文書が発見された。
 
 「  一札の事
 一当村鎮守水神宮来由ハ始メ弘安元年(一二七八)戊寅(つちのえとら)正月二〇日、大沼田村妙経寺開山蓮秀日寿上人御勧請(かんじょう)ナリ。時ノ名主刑部左衛門ナリ。其ノ後、天明元年(一七八一)巳丑(つちのとうし)二月朔日、妙経寺延命寺社僧ノ為メ、熊野大権現御勧請ナリ。時ノ名主市郎左衛門ナリ。又、其ノ後弘化四年(一八四七)丁未(ひのとひつじ)三月五日気多大明神建立、御勧請ノ砌(みぎり)、妙経寺日証上人社僧タルノ由緒御尋ネニ付キ、往古ヨリノ糺明記録書写シ差上ゲ申シ候処、一札件(くだん)ノ如シ。
    弘化四年(一八四七)丁未九月五日
                  一之袋村
                   名主 嘉左衛門
                   請人 四郎右衛門
   大沼田村
    法輪山妙経寺様    」
 
これは、別当寺の妙経寺から、一之袋村の名主に対して、幕末の弘化四年に、本社の由緒について質問があった際、「往古ヨリノ糺明記録書」の写しを、名主から提出した覚書である。ところで、右の引用文によれば、本社は弘安元年(一二七八)妙経寺の開山蓮秀によって勧請されたことになり、今から七〇八年前の古い創建という次第である。しかし、妙経寺は別項(本巻「宗教篇」寺院の部・妙経寺の項参照)によれば、正中二年(一三二五)の開基とされているので、仮りにその同じ年に勧請されたとすると、弘安元年との間に四七年の開きがある。別項によると、日寿は嘉暦元年(一三二六)に入寂している。年齢は分からないが、仮りに六〇歳で死んだとすると、弘安元年には一八歳、七〇歳で死んだとすれば、二八歳である。それではいかにも若すぎる。したがって、弘安元年説はどうも疑わしいように思う。そうすると、正中二年(あるいはその後)という説に傾いてくるが、日寿の死んだ嘉暦元年は正中二年の翌年なので、日寿が勧請したとすれば、正中二年か嘉暦元年の二年のうちということになろう。そうと考えると、今から六六一、二年前となるから、かなり古い創建ということになる。
 さて、本社は創建から四五五、六年後の天明元年(一七八一)二月一日、熊野大権現を勧請して併祀し、それからさらに六六年後の弘化四年(一八四七)三月五日、妙経寺住職日証の代に気多大明神を勧請して合祀したということである。
 さて、右のごとく、一之袋村名主から妙経寺に「糺明記録書」の写しを送付したのに対して、妙経寺側からは、「預り手形一札の事」と表書して「慥(たし)かに預り置き申し候」という一札を返送し、その文書も残っているけれども、「記録書」そのものは現存していない。したがって、本社の由緒を知ることもできないのである。