諏訪神社は東金市大沼字諏訪にあって、祭神は建御名方(たけみなかた)命である。この神は大国主命の次子で、高天原朝廷の命に抗しつづけたので有名だが、信州諏訪の諏訪大社はこの神を祀ったものである。昔から武将の崇敬を受け軍神となっているが、農民からも賛仰され、農業の神として尊ばれている。この神の分霊を勧請したのがこの諏訪神社である。
この神社が勧請されたのは、戦国末期の酒井氏時代であると云われているが、その年時は不詳である。当時は東士川郷一二か村(幸田・関下・大沼・宿・荒生・薄(すすき)島・粟生(あおう)・細屋敷・藤下・下貝塚・西野・不動堂)の惣社として、酒井氏配下の土着武士たちと郷民たちから信仰されたものと思われる。
徳川時代に入ると、支配階級の変動などのため、右の氏子村一二か村についても、変移があった。それは同時代の初期元和年間(一六一五-二三)のはじめ頃といわれるが、不動堂・下貝塚・粟生・細屋敷・幸田・薄島・西野の七か村は、江戸北町奉行の与力給地となったため、諏訪神社の氏子村から離脱してしまった。そして、残りの大沼・関下・荒生・藤下・宿の五か村は、江戸南町奉行の与力給地となって、諏訪神社の氏子村としてそのまま残存することになった。つまり、氏子村が五か村に減ってしまったのである。氏子村数が少なくなれば、神社にとって痛手になることはいうまでもない。
明治初年になると、ふたたび氏子村に変動が起こった。右の五か村のうち、関下村は宮谷県の管下に入ったため離脱し、他の大沼・宿・荒生(以上、東金市)藤下(九十九里町)の四か村(現在は大字(区))が松尾藩に所属した関係でそのまま氏子村として残り、現在にいたっている。
なお、本社は昭和になって(年時不明)不幸にも火災にあって、大きな打撃を受けたが、その後再建された。しかし、昔日のおもかげはなく、元禄年間(一六八八-一七〇三)宿の小川新兵衛の寄進による社前の石彫龍一対のみが、ありし日を物語っている。