水神社(御門)

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 この社は関内の水神社と同じく、水の神罔象女命(みつはのめのみこと)(水汲能女命)を祀ってある。東金市御門字前に鎮座する。境内は一八〇坪(五九四平方メートル)の広さで、社格は村社である。
 この社の由来については、次のように伝えられている。
 
 「当社の勧請(かんじょう)は詳かならずといへども、天慶(てんぎょう)年中(九三八-九四六)と見え古老相伝へて云ふ。平将門誅(ちゅう)に伏せし時、家士七人有り、脱走して此の地に住む。俗に七豪士と云ふ。其の一を内蔵之助と名づく。尤(もっと)も永続す。同家の亡ぶる時、慶安四卯年(一六五一)土人其の氏神を再興して村社と為す。産神と崇(あが)め水神社と唱へ奉る、と」(「上総国山武郡神社明細帳」(明治一二年千葉県編)
 
平将門が誅伐された時、七人の家士がこの地へ逃げてきて土着したが、その中で内蔵之助という者の家がもっとも永続したが、それも結局亡家となったけれども、その時土地の人たちが「氏神を再興し」たのが本社の起こりであるという。記述に分かりにくいところがある。将門の遺臣たちが自分たちの氏神をまつっていたが、絶家となってしまったので、土地の人たちが将門を慕う気持から、氏神を再興した、その年が慶安四年だということなのだろう。では、そのもとの氏神は天慶年中(将門の死は天慶三年である)に創建されたことになるのだろうか。(別項「稲荷神社(御門)」参照)由来、御門・宮・殿廻りの地域は将門伝説で知られたところである。本社もその雰囲気を背負う神社ということになろう。
 慶安四年に再興されたとされる本社は、その後天明五年(一七八五)にいたって、本殿が再建されている。(これが現在も残っているといわれる。)さらに、寛政二年(一七九〇)華表(とりい)が建てられ、嘉永四年(一八五一)には拝殿が築造され、規模が整えられた。そして、毎年九月十九日には祭礼が行なわれている。
 本社は産神であるから、いわゆる子安信仰を基軸とする神社であるけれども、その背景にはやはり将門信仰が揺曳(ようえい)していると考えられる。