東金市御門字(あざ)新堀にある。社格は村社、境内の広さは一〇七坪(三五三平方メートル)。祭神は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)である。古事記によると、この神は天照大神が弟の素戔鳴尊と誓(うけい)をされた際に生まれた神とされるが、後にインド渡来の女神・弁財天(略して弁天)に附会されて水の神と崇められ(弁財天は河川を神格化したものといわれる)、有名な安芸(広島県)宮島の厳島神社の祭神となっている。
ところが、本社の実際の神は平将門の妻(第二夫人)桔梗前(ききょうのまえ)であるといわれる。土地の人もそう考え、「上総国山武郡神社明細帳」(明治一二年千葉県編)にも桔梗前となっている。ところが、土地の口碑では、将門の妻たる桔梗前を将門の母、すなわち、将門の父良将(まさ)の妻とし、彼女が将門を懐妊した時、占(うらない)師にうらなわせたところ、生まれる男の子は国家を乱す悪臣となるから母子とも海に流してしまえといわれ、桔梗前を海に流したところ、彼女は死なずに漂着し将門を生み落とした。しかし、乳汁が不足して困ったが、関内の水神社に祈ったところ、幸いそれを恵まれて無事に将門を育て上げた。土地の人は桔梗前を弁財天の再来とあがめてこれを神にまつったというのである。(参考資料を参照されたい。)
つまり、将門崇拝が母性崇拝となり、この神社をつくり出したことになる。将門は悪臣というレッテルをはられてしまったが、最近の研究では民衆の利益をはかった英雄であったとされているし、とくに、将門ゆかりの地域では将門を「我等の神」として尊信する風が強い。わが東金地方にもその伝承がある。右に述べたような伝説は、もちろんそのままに信用するわけにはゆかないが、将門に対する親愛感がかかる伝説を作り出し、また、桔梗前を将門の母とし、これを弁財天に附会して祀ったわけなのであろう。本社は、いわば土地の民衆の憧憬心が生み出したものであり、それなりの意義をもつ神社だといえよう。なお、市杵島姫命を祭神としたのは、後からの意味づけだと思われる。
なお、本社が創建された年時は不詳である。前引の「明細帳」の記述によると、現在残っている本殿の建立は文政一一年(一八二八)、今から一五七年前であり、拝殿は安政二年(一八五五)の築造というから、今から一三〇年前のものである。ところで、拝殿を造った時、次のような変事があったと、「明細帳」は書き伝えている。
「一宵、故なくして破壊し、其の響き山河に徹し、雷の如しと。土人之れを験するに、基木(もとき)を以て梁とせりと。大いに恐れて、翌〓年再び之れを造り、益々神威を敬す。」
これに類似の伝説は、よそにもあることだ。明治五年(一八七二)に華表(とりい)がつくられた。そして、同年当局から厳島神社という社名にせよという命令があったという。では、その前の社名は何といったか。「上総国誌」(巻之六、村部下)には「桔梗前弁天」といったとある。土地では略して「桔梗弁天」と、今でもいっている。なお、同書では、本社は稲荷神社(古称、将門稲荷)の摂社であるとしている。(「稲荷神社」の項参照)
本社では、毎年九月九日に祭礼が行なわれている。
桔梗の前の出自は明らかでないが、普通言われているのは、俵藤太秀郷の妹で将門の妾となり非常に愛されたが、兄の秀郷のためにスパイ行為をしたのを将門に疑われ、自殺して果てたとされる。彼女の伝説は各地に残り、また桔梗塚といわれる遺跡も各地にある。近いところでは佐倉市字将門、市原市平親王野にもある。また、「咲かず桔梗」(桔梗前の祟(たた)りで桔梗が生えなかったり花が咲かなかったりする)の伝説もそれに伴ってよく知られている。わが東金の地が平高望や将門との関係がある以上、桔梗伝説があるのは別に異とするに足らない。しかし、桔梗を将門の母としているのはあまり聞かないところである。これは史実に反する誤伝ではあるが、将門がこの地で出生したという伝説が、妻であるはずの桔梗を母に仕立てたのではないかと考えられる。
参考資料
(一) 古老の古碑を聞くに、桔梗前は平良将の妻にして娠(はら)めるあり。陰陽師(おんようじ)之れを卜(ぼく)して曰く、懐胎の児は男子にして、生長の後、国家を叛乱せんと。良将之れを恐れ、うつろ舟に載せ、海に放ちしに、漸々たる洋中を漂流して、上総の東浜に着き、ここに至って一子を産む。按ずるに、此の地当時海岸なるか。即ち、平将門これなり。其の産水を汲む処を求むるに、竹片を伐(き)って十字に束(たば)ね、之れを用水川の水上に流し、其の止まる所を占む。今なほ名づけて産前橋と云ふ。今、誤つて三枚橋と書し中の村にあり。又、旧記名を十文字領と云ふ。ここに原因せるものか。又、乳汁の足らざるに因り、傍らの祠(ほこら)に祈ると。今、関内村水神是れなり。
然りといへども、是れ俗説のみ。案ずるに、良将の守介たる時、此の地に将門を挙げしものか。而して後、将門下総に敗る。土人即ち桔梗前を此の地に祀り、弁財天と称し奉る。爾来、治乱相継ぎ、興廃常なく率(おおむ)ね戦世にして、旧記のあるなく、古禄存せじといへども、氏子の庭園所有地に桔梗の生ずる能はず、土人、胞衣に袖を附し(世間の胞衣袖を用ひず)幼児は涎懸(よだれかけ)を用ふるなし。俗人嬰児に涎懸を以て前を蔽はしむ。而して、此の地不用直虫に似たるを以て憚るものか。
(「上総国山武郡神社明細帳」(明治一二年千葉県編))
(二) 父老伝フ。三門村昔ハ帝村ト称シ、後、御門ト改ム。(中略)又伝フ、三門殿廻二村ハ平将門ノ嘗ツテ居ル所ト言フ。当時館ヲ環(めぐ)ツテ杉樹ヲ植エ、今千本杉ト称ス。(中略)今千本杉ニ祠有リ、将門稲荷(稲荷神社のこと)ト曰(い)フ。又、今ノ摂社ヲ桔梗前弁天(厳島神社のこと)ト曰フ。此レ通村ノ宗祠タリ。弁天ノ氏子タル者、児ヲ生メバ必ズ胞衣(えなぎ)ニ袖ヲ着ク。蓋シ、邦俗児生レテ百日前ハ白衣ヲ表被ス。之レヲ胞衣(えなぎ)ト謂フ。而モ袖ヲ用ヒザルナリ。亦、地名ニ関ハル所有ルカ。」(原漢文)
(安川柳渓「上総国誌」巻之六・村部下))