この社は東金市御門字(あざ)前にある。境内の広さ七二坪(二三七平方メートル)という小さな社である。祭神は平将門である。そして、由緒が同じ字前にある水神社と似たところがあり、また、同じ御門の新堀にある厳島神社が将門の母とされる(実際は将門の夫人)桔梗前をまつった社であって、いずれも関係の深いことを考えるべきである。
右の水神社の由来が将門の家士七人が将門の死後この地に来て土着したことにもとづくものであることは、別項水神社のところで説いてあるとおりだが、この稲荷神社については「上総国山武郡神社明細帳」に左のごとく書かれている。
「本社の旧記存せずといへども、父老の口碑を参考するに、天慶年中の勧請(かんじょう)と見え、相伝へて曰く、相馬小二郎平将門(相馬小二郎は将門の別称である)下総に叛し兵敗るるの後、其の臣七人遺骸を負ひ、逃走して此の地に匿る、祀りて将門稲荷神と称し奉る。
将門の此の地に生長せし事、土人の口碑に伝ふ。『上総国誌』に曰く、将門は城ノ内(じょうのうち)に生る、と。其の地、今本村を去ること十町余、片貝村(九十九里町片貝)にあり。亦た、将門稲荷の事見えたり。未だ何れが是(ぜ)なるを知らず。七士も蓋(けだ)し此の地の子弟将門に従ひ江(利根川のこと)を渡つて西し、遂に七人の帰るものか。」
この記事内容は水神社の場合のそれ(別項「水神社」参照)よりも具体的である。七士は将門の軍敗るるや、その遺骸を背負ってこの地に逃げ帰りかくれ、将門の遺骸をまつって、将門稲荷と称したという。したがって、本社の起原は天慶年中(九三八-九四六)ということになるだろう。また、この七士はこの土地の者たちであるとしている。
次に、「上総国誌」の記事が引いてあるが、それは次のようである。
「父老伝フ、三門村、昔ハ帝(みかど)村ト称シ、後、御門ト改ム。徳川氏其ノ猶(なお)僣称タルヲ恐レ、改メテ三門ニ作ラシム。蓋(けだ)シ、邦音帝・御門・三門皆通ズ。又、伝フ、三門・殿廻(とのまわり)二村ハ平将門ノ嘗ツテ居ル所ト言フ。当時館ヲ環(めぐ)ツテ杉樹ヲ植エ、今猶(なお)千本杉ト称ス。僅カニ二三株ヲ有スルノミ。蓋シ、按ズルニ、殿廻村ノ名其ノ殿ヲ環(めぐ)ルノ地ヲ指スニ似タリ。里人ノ説或ヒハ然ルカ。又、殿廻ヨリ東海浜ニ接シ、片貝村中ニ地有リ、城之内ト称ス。里老又伝フ、将門ノ生ルル所ナリ、ト。按ズルニ、高望王(平高望)ノ孫、世々上総介ニ任ズ。故ニ、当時上総ノ民人、平氏ノ為ニ畏服セラル。将門モ亦、此ノ土ニ生ルルカ。然レドモ、正史ノ証スベキモノ莫(な)シ。(中略)今、千本杉ニ祠有リ、将門稲荷ト曰(い)フ。又、摂社ヲ桔梗ノ前弁天ト曰フ。此レ、通村ノ宗祠タリ。」(巻之六、村部下)(原漢文)
少し長い引用になったが、将門関係の神社がほかにもあるので、理解の便のためにあえて紙幅をさいたわけである。将門の出生問題はここでは取り上げないが、「将門稲荷」の名称には注目する必要がある。つまり、叛逆者将門と農業の神稲荷との結びつきが問題である。将門が農民の味方であり、農民の休戚のためにあえて叛逆をくわだてたことは重視されてよいが、彼は多く怨霊(おんりょう)神として恐れられて祀られている場合が多いのに反して、農民愛護者として、「将門稲荷」の名でここに鎮座しているのは、まことに意義深いことといわねばならない。
稲荷は現在では農業のみならず、商業・工業の神として広く信仰をあつめているが、語源の「稲ナリ」が示すように、本来は農民の生み出した神といっていいだろう。わが東金地方にもいくつかの同名の社がある。田間にある稲荷神社は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)をまつり、北之幸谷にある稲荷神社は保食神(うけもちのかみ)をまつり、道庭の稲荷神社は大宮能売命(おおみやのめのみこと)をまつっている。この三神はいずれも農業の神である。しかるに、御門の稲荷神社は将門を主神としていることは興味深いことである。将門は長い間悪逆の叛臣とされていたから、本社も前記の三神のうちの一柱をえらんで祭神にしておけば世間の通りもよかったろうのに、将門稲荷の名をそのまま伝えたことも、今から思えば意義のあることといえよう。
ところで、前引の「明細帳」には、この社内に将門の像がまつられていたことを記し、その状貌を、左のようにのべている。
「神影は直垂袴(ひたたれ)を着し、右手に剣を握り、散髪にして実に雲上の人を見るが如し。ここを以て、之れを見る土人の説信ずべし。」
これが将門の真影をうつしたものかどうかは問題であろう。
さて、本社が前記のとおり天慶年中の建立であるかどうか、にわかに断定しえないところであるが、ただ、参考としていってみたいことは、日本全国に一万以上もあるといわれる稲荷社の総社たる京都伏見の稲荷大社は、和銅四年(七一一)の創建ということだが、はじめはきわめて小さい祠だったのが、やがて朝野の尊信を受け、とくに弘法大師空海が京都に東寺を立て、その鎮守として稲荷明神を崇め、真言宗の弘布とともに稲荷信仰を大いに広めたことから、天慶五年(九四二、将門死後二年)に正一位大明神に叙せられ官幣を賜わるようになったという時代的背景である。そういう背景があったから、本社が天慶年間に建立されたろうといっては、あまりにも甘い短絡説になろうが、参考までに言い添えておく。
本社は農業神であるが、別な信仰もある。それは、境内にある古井の水に霊験があって、悪疾にかかったもの、眼をわずらっているものが、この水で患部を洗うと治療するというのである。これは将門のごとき荒神は、人を苦しめる悪魔を克服する力があるという考えかたから出ているものであろう。
本社の社殿建築の歴史は不明である。ただ、現在の社殿は明治九年(一八七六)の築造であると伝えられる。また、本社の祭礼は毎年九月二二日に執行されている。