武射(むざ)神社(上武射田)

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 東金市上武射田入会地無番地にある。境内の広さは一二七〇坪(四一九一平方メートル)ある。祭神は大己貴神(おおなむちのかみ)(大国主命の別称)を主神とし、面足命(おもだるのみこと)と惶根命(おそれねのみこと)を相殿(あいでん)に祀ってある。
 本社は遠い昔、武射(むさ)(「牟邪」とも書く)国造(くにのみやつこ)だった彦忍人命によって創建されたと伝承されている。もちろん、創立のはっきりした年時は不明である。それ以来、武射田郷の氏神として尊信されてきたものと思われる。
 武射田には武射屋敷という地名があり、国造はここに居住していたと伝えられ、また、今、古谷という名になっている所は昔、古屋本城といった場所で、ここには砦があり、国造の防衛地であったともいわれる。本来、武射神社は右の場所にあったのを、延徳二年(一四九〇)現在地に移転したものと伝えられている。武射の国造だったといわれる彦忍人命は現在の松尾町大堤(おおつつみ)にある箱根神社のあたりに日本武尊が構えたという城砦を居城としていたという伝説もあるが、松尾あたりも支配地域になっていたものであろうか。ところで、国造は大化改新の前後に大和朝廷から任命された地方長官であり、この制度は七世紀の半ば頃までは続いていたのである。そうすると、この社もその頃までの建立となるはずである。それが事実とすれば、本社は当地方で最古の神社ということになる。しかし、そのように断定してしまうことは、もちろん出来ないであろう。
 その後、平安初期に平将門の祖父たる平高望が上総国司としてこの地を支配していた頃、本社を尊崇していたという話もあり、また、ずっと後の戦国期に酒井定隆が文亀二年(一五〇二)この社に参拝して神宝を寄進し、その子孫も代々祈願所として尊重したといわれる。徳川時代に入って、慶長一二年(一六〇七)それまで荒廃していた社殿が再建され、上武射田・下武射田・嶋の三か村が氏子村として信仰を捧げ、明治初年、村社に列せられている。
 なお、本社には「夏越(なご)しの神事」と称される由緒ある神事が伝承されている。それについては、本巻「文化財・金石文」篇の文化財の項を参照されたい。

武射社神