序説

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 現在、宗教法人に登録されている東金市の寺院の総数は、五六か寺でその他三ということになっている。その分布状況は、当地を東西に二分する国鉄東金線の西部(丘陵地帯)に三一か寺、東部(平地帯)に二六か寺と、ほぼ均衡がとれて存在している。また、地域別に見ると、東金(一五)・公平(七)・源(四)・丘山(七)・大和(七)・福岡(七)・正気(四)・豊成(六)となっている。更にこれを宗派別にみれば、法華宗=日蓮宗五六・真言宗一、天台宗一、禅宗一と、法華宗一色に塗り潰されている。
 この現象こそは、この地域の仏教の特異性を物語るもので、長享二年(一四八八)時の領主酒井定隆によって、領内悉くの寺院が日蓮宗(顕本法華宗)に改宗せしめられた名残りを示すものである。
 しかし、その内容を仔細に検討する時、顕本法華宗は三九か寺で、内五か寺(最福寺・薬王寺・法光寺・本福寺・大林寺)は単立本山である。日蓮宗(身延派)一一か寺・法華宗(本門流鷲巣派)四か寺・日蓮正宗一か寺・本門仏立派一か寺・其の他三か寺となっている。そもそも、仏教が当地方に伝えられたのは、大同二年(八〇七)僧最澄によって天台宗が弘布されると共に、最福寺が創建され、続いて真言・禅・日蓮の諸宗が弘められて諸寺が建立されている。しかるに、中世後期酒井氏によって法華宗に統一されて(いわゆる七里法華)江戸期には、幕府の庇(ひ)護を享受し、権力と結んで隆盛を誇ったが、明治維新を迎え、神仏分離の布告が行なわれると、仏教界も漸く衰微の傾向を辿り、当時七〇寺になんなんとした堂塔伽藍もそのいくつかは荒廃の運命を迎えるものがあるにいたった。やがて、終戦となり、社会の混乱のあおりを受けて、各寺とも経営に苦しんだが、幸いに国の立ち直り、檀信徒の仏心信仰心も昂揚し、諸寺院の新築・改築の機運も隆盛となり、往時の盛況を見るに至った観がある。