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安国山最福寺は、東金市谷(やつ)一六九三番地にあって、鴇ケ嶺の麓、八鶴湖に臨む景勝の地に位置している名刹である。
本寺の歴史は極めて古く、往昔は天台宗に属していたが、その後顕本法華宗に改宗し、本山輪番上総十か寺の一で、天正一九年(一五九一)一一月、徳川家康から寺領三〇石を寄進され、その盛時には末寺三二を有していたと云われ、この地方最古の大寺である。
寺伝によれば、大同二年(八〇七)僧最澄(伝教大師)は、天台の宗旨を東国に弘めんためこの地に至り、鴇ケ嶺の山麓に一堂を創建して最福寺と名づけ(最福寺の名は最澄の「最」をとったものという)、その山嶺に近江国坂本村山王権現の分霊を遷座し、爾来六七〇余年にわたり天台の教義をこの地に弘布したのである。
天台宗時代の本寺の状況については、ほとんど不明であるが、当時の本堂は東京浅草の浅草寺(せんそうじ)観音堂に擬して造られたもので、十一間四面総桧づくりの豪華なものであったという。もともと桧は当地方には少ないものであるから、他地方から取り寄せたのにちがいない。したがって、その経費も莫大なものであったろうと思われる。それだけ教勢が盛んだったわけである。天台宗寺院としては、天応山観音寺、俗称芝山仁王尊(山武町芝山)が宝亀一一年(七八〇)の創立で、最福寺より二七年ほど古いわけであるが、両寺は天台宗を弘布しただけでなく、人民生活の安定と発展の軸となったものと考えられる。上代の東金は最福寺を中心として部落が形成されていったであろうから、この寺の歴史的な存在意義は非常に大きいものがある。
文明一一年(一四七九)①二月、京都妙満寺一〇世日遵上人が、この地に来って弘教の時の住職日近(少納言日近阿闍梨(あじゃり)と云われた)は深く日遵に帰依し日遵は法華宗秘法の血脈曼荼羅を書いて日近に授与したといわれるが、これによって、顕本法華宗に改宗することとなり、ここに大同二年(八〇七)以来六七二年の長い間つづいた天台宗時代に終止符が打たれ、日近を当山中興の開祖と仰ぎ、ついで、天正年間に寺号を「西福寺」と改めた。これは、当時の過去帳に「先年ハ最福寺ト書シ、天正年中西ノ字ニ改ム」(原漢文)とあるのによって、天正年中に改名されたことがわかるのである。しかし、この改名について、志賀吾郷はその「東金町誌」に「永正年間改宗後の二世日繁時代に西福寺に改む」(六二頁)と書いており、この説が一般に行なわれているが、誤りとすべきであろう。「山武郡郷土誌」に「天正以前は最福寺と号す」(一七一頁)と記している。このほうが正しいことになろう。また、二世日繁は天正以前の天文一五年(一五四六)六月死去しているから、天正時の改名とは無関係である。改名時の住持は五世日聰ではなかったかと思う。この名が長く用いられたが、昭和二〇年(一九四五)元のなつかしい最福寺の名にかえすことにしたのである。因みに本寺の顕本法華宗への改宗は、長享二年(一四八八)五月一八日、酒井定隆の改宗令に先立つこと九年前のことである。
最福寺境内
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土気城主酒井定隆はかねてから本寺の大檀那であったが、大永元年(一五〇四)その三男隆敏と共に東金城を修築してここに移り、山王権現をその鬼門鎮護の神と定め、本寺をその別当として社務を執行させることにしたのである。
天正一八年(一五九〇)酒井氏は滅亡し、徳川の世となった。翌一九年一一月徳川家康が東金へ鷹狩に来た時、当寺の七世住職であった日善(蓮成院と号し、また入蔵法師と称した)は家康に謁見して、寺領として東金郷の内三〇石の寄進を受けている。いわゆる御朱印地である。(御朱印状の写真が「東金市史・史料篇一」の口絵に掲載されている。)当時日善は本漸寺の住職を兼務していて、両寺に対して六〇石下されたといわれる。本漸寺にも三〇石の寄進があったものである。最福寺の過去帳に次のような記事がある。
「一駿府政治云。(書名ナラン)慶長一九年甲寅九月二十日上総国東金西福寺日善上人御目見。日蓮宗也。」
これによると、日善は慶長一九年(一六一四)九月二〇日に駿府へおもむき、家康に謁見していることがわかる。家康はこの年の一月東金御殿へ来て七日ほど滞在しているが、その時日善は御機嫌伺いに行ったものと思われる。すると、日善は少なくとも三度は家康と会っていることになる。日善は天和三年(一六一七)三月二〇日入寂している。行年は不明である。その後、元禄の頃、一五代の住僧となった日胤はなかなかの名僧として高名であったが、この人は道徳堅固で修養も積んでいたけれども、いわゆる天耳通で、鳥の啼き声を聞いて吉凶を識るという力をもっていて、ある時方丈にいて雀の声を聞き、門前を通る駄馬に異変があることを察知し、寺男に命じてしらべさせたところが、馬背に積んでいた炭俵が燃えていたという話が伝わっている。ところで、この人の時代に本寺の大移転が行われたのである。
本寺はもと八鶴湖岸にあったと云うが、一五世日胤上人の元禄一六年(一七〇三)から宝永六年(一七〇九)に至る六年の間に、人夫凡そ一万余人を動員して堂宇全部を現在の地たる鴇ケ嶺の中腹から麓に移して改修を加えるという大工事を実施したのである。(表山門は寛政一二年(一八〇〇)九月の建立という)(杉谷直道の「東金町来歴談」(稿本)には「本堂再興ハ宝永五子年(一七〇八)二月地形始アリ、同六年十二月棟上式、同七年九月十八日工事出来(しゅったい)ニナリマシタ」とある。)その後明治二六年(一八九三)に本堂・庫裏を改装・修築し、また最近に至って客殿・庫裏を新築し、さらに奥庭をも造成して、大寺の偉容を整え、現在は、本堂・山門・大黒堂・宝蔵・廻廊・鐘楼等多くの建造物を擁して、幽邃な自然を背景に名刹にふさわしいたたずまいを見せている。
境内は凡そ七、〇〇〇平方メートル、全山鬱蒼として巨樹に掩われ、鐘楼からは、東金市街や遠く九十九里浜も望まれ、珍奇な植物も少なくなく、また、歴代の名僧の供養塔、知名人の墓碑、記念碑、句碑、歌碑等、文化的価値の高い金石文等も豊富に存在し、文学散歩・歴史散歩等の折の最適の場所となっている。
本寺の秘蔵する寺宝は次の通りである。
(一) 唐呉道子筆、天台智者大師の影像(珊瑚を摺り潰して使用してある)
(二) 明呂紀筆、花鳥雪中兎竹雀、大幅絹本(世にこれを中将姫藕糸織と称する)
(三) 釈尊入滅涅槃像(足利時代作、全部刺繍、丈九尺、幅六尺)
(四) 大黒天像(運慶作、一品親王台徳院殿尊信の像)
(五) 日蓮聖人筆、尺牘
(六) 聖徳太子像(寛政期作)
この中には、国宝級または重文級の貴重品があるということであるが、中でも(一)の智者大師の影像は最澄が延暦二三年(八〇四)入唐して天台教義を修道の後、翌二四年帰朝する時、天台の高僧恒巽から餞別に贈られたもので、最澄は比叡山延暦寺の寺宝として登録し大切に保存していたものだとされている。それが、何故最福寺に所蔵されているのか、その事情について、志賀吾郷は「東金町誌」の中に次のように書いている。
「比叡山延暦寺の什宝たりし智者大師画像が、延暦寺が其の記録のみを留めて、其の什宝たる画像が我が西福寺に保管さるる所以は、平安以来延暦寺僧徒猖獗(しょうけつ)にして、朝廷を苦しめ奉りしのみならず、武家も亦之が為め大いに悩まされしを以て、元亀二年(一五七一)九月、織田信長大いに怒り兵を挙げて延暦寺を攻め之を焼き払ふ。時の住持某予め其の什宝の兵燹(へいせん)に罹(かか)りて烏有(うゆう)に帰せんことを慮り、密(ひそか)に携へ来て、之が保管を其の本来の縁故ありし西福寺に寄托されたるものなり、と。(現に比叡山目録中に記載しあり。)」(六二頁)
これが当寺の伝承となっている。つまり、戦国期の混乱で焼失するのを避けて疎開したということになろう。だが、この説はそのままに受け取れないところがある。この疎開は信長の比叡山焼打ちの時のことではなく、もっとさかのぼって源平争乱の時だったとするほうが正しいと思われる。信長の時代とすると、最福寺は法華宗に変った後のことであるから、比叡山延暦寺との関係も昔通り親密とは云えなかったにちがいない。だから、本寺が天台宗だった源平時代と考えるほうがずっと理屈にあうことになるだろう。「上総国誌」(巻之六)には「古時源平出乱ニ遭ヒ、比叡山ノ僧侶兵禍ヲ避ケ、智者大師ノ自画像及ビ日吉神幣ヲ携ヘ来リ其ノ神ヲ鴇嶺ニ祀リ」とある。「山武郡郷土誌」(一七一頁)もこの説に従っている。この説を史実としてすべてを受け容れられないところがあるにしても、時代的には源平時代とするのが穏当だと考えられる。
さて智者大師の自画像といわれるこの画幅は、金碧の色彩あざやかで、精密に描かれ、讃が添えられているが、文字が磨滅して読みにくくなっており、画の下部には、「大師真影一軀、天台沙門恒巽奉二澄和尚一、願帰二本国一永充二供養一、大唐貞元二十一年正月二十日記」と書かれてある。「上総国誌」(巻之六)はこの画像について、「智者大師自画像絹幅高四尺幅二尺描筆繊精、金碧密彩、賞〓スベキナリ。」と評しているが、ともかく価値高いもののように思われる。
なお、本寺にはいくつかの鰐口が寄進されていて、それぞれ貴重なものであるが、杉谷直道がくわしく書き留めているので、次に引用しておくことにする。
「西福寺鰐口ハ寛永五辰年(一六二八)四月二十五日領主蓮如坊日順ノ寄進デアリマス。大工ハ花沢善左衛門デアリマシタ。
西福寺番神ノ鰐口ハ文明十八午年(一四八六)十二月上総国菅生庄椿長谷(ちょうこく)寺鰐口、大檀那伊藤覚法入道、大工ハ大野五郎左衛門デアリノマシタ。
西福寺本堂鰐口二ツハ天文二十年(一五一五)十月題目講中ノ寄進デアリマス。」(「東金町来歴談」)
注① この年時について、杉谷直道の「東金町来歴談」(稿本)には、「享禄三庚寅六月三日」とある。享禄三年(一五三〇)は文明一一年(一四七九)より五一年も後になる。あまりに年代がへだたりすぎている。改宗令の出た長享二年(一四八八)からは四二年後である。酒井定隆の東金城入りの大永元年(一五二一)から九年後である。その頃まで改宗せずにいられるはずはなかったと考えられる。だが、もっとたしかなことは、この「享禄三年六月三日」は日近の死去の時である(西福寺過去帳)。杉谷直道は改宗の時を日近の命日と間違えていたものと思われる。したがって、明らかな誤記である。
参考資料
(一) 最福寺本堂の建築について 小川政吉
一 本堂の架構について
本堂は入母屋(いりもや)造り、桟瓦葺(ふ)き(昭和四六年(一九七一)以前は茅葺き)で、降棟には三本の経巻と稚子棟がついている。
軒は二軒で、せがえしの繁〓(はんすい)である。向拝は二軒の繁〓で、柱は経三五・三cmの几帳面取り、水引虹梁の中央に太瓶束(ふとへいそく)、その左右に蟇股を置き、柱上前方に獅子鼻、左右に象鼻をつけ、向拝柱と本堂側柱とに架けた海老虹梁の中央には、太瓶束をたて、手狭には天馬と雲の彫刻が施されている。
木階は五級で、蹴込みは二二cm、踏面は二六cm、昇高欄(のぼりこうらん)つきである。
平面構成をみると、桁行(けたゆき)の実長五四・八メートル、梁間(はりま)の実長二〇・一メートルの「五間堂」で、正面と側面に回縁(かいえん)をつけ、内部は桁行柱筋第三線を境として、外陣と内陣とに分けている。立面構成の架構をみると、礎石はすべて自然石を使い、柱は粽(ちまき)につくり、床下はすべて八面取りである。(中略)
外陣の上部架構をみると、桁行柱筋第一線柱と第三線柱とに四本の虹梁を架け、各虹梁の中央点に太瓶束をたて、その上に桁行方向に梁をおき、〓〓(とうきょう)(棟木を支える四角な木材)を具えて〓をのせている。また、この〓〓と第一線柱とを海老虹梁でつないでいる。外陣の室内空間をより広くするためには、そのスパン(支柱間の距離)を大きくせねばならない。そうした必要から、近世になると、このような施行上の工夫が現れてくるのであるが、本堂の建築上の優れた見どころの一つは、こうしたところにも見受けられる。
この外陣の天井は、前半部を化粧屋根裏とし、後半部は棹(とう)縁天井である。
次に、内外陣の結界は、創建時には上部に蔀戸(しとみど)、下部に「はめごろし板戸」を用いていたことが痕跡から推定されるが、現状はすべて開放である。
円陣の床は、外陣床より約二七cmほど高く、密教系の構造特色の一部がみられる。床は畳敷きで、天井は中央を鏡天井とし、その周囲は格(ごう)天井につくり、各格間には檀信徒の家紋を描きいれてある。
内陣中央の後方、桁行柱筋第七線上に来迎(らいごう)柱をたて、頭貫と台輪で結架し、その中央に二箇の二手先〓〓をそなえ、この来迎柱に接して、長さ五・六八m、幅二・〇六m、高さ一・三七mの須弥壇(しゅみだん)がある。
この須弥壇は海老の腰に牡丹と唐獅子が彫られ、蕨手(わらびて)高欄に逆蓮柱がついている。この須弥壇の上には、長さ四・〇七m、幅一・六m、高さ〇・八mの小須弥壇がのせられてあり、現状では二重須弥壇の形となっている。この上に、桁行三・〇五m、梁門一・〇一m、高さ一・五二mの厨子(ずし)が置かれている。
この厨子は入母屋造り、唐破風(からはふ)つき、繁〓の二軒につくられ、柱は粽柱、三手先禅宗様〓〓をそなえ、内陣の構成に一段と重厚さを与えている。
この本堂は全体的にみて木割が雄大で、施工技法にも優れた点がみられ、東金地方に於ける寺院建築史上に重要な史料となる架構の一つである。
二、改築年代について
寺伝等(山武地方誌、東金町誌所載)に拠ると、その開基は平安初期にさかのぼるといわれ、室町中期には日近上人等の活躍もあって、中興の業がすすめられ、七里法華最古の寺ともいわれ、東金城主酒井定隆らの帰依もあり、東金城鎮護としても重視された。その後、徳川家康等の信仰、寄進もあり、維新後も宗勢を誇っていた。
本寺はこのような政治的・宗教的な背景のもとに、元禄一六年(一七〇三)より宝永六年(一七〇九)にかけて、八鶴湖畔より現在地へ全伽藍(がらん)の移動、移建がなされた。したがって、現在の本堂もこの時改築されたものといわれる。明治二六年(一八九三)には一部改修補がなされたという記録もある。
叙上の記載に基づき、現状の構造材の風蝕度、架構法、施工手法等からみて(棟札(むねふだ)は目下のところ見当たらないが、小屋組調査を精細に実施すれば、発見される可能性はあろう)、本堂は宝永年間(一七〇四-一七一〇)の架構であると判定してよいであろう。
(「最福寺本堂一棟」)
(二) 最福寺の山門(建築学的考察)
法華宗の名刹、広大な境内の入口に山門があり、山麓台地上に本堂がある。
この山門は切妻造り、桟瓦葺(ふ)きの四脚門で、本漸寺山門より平面構成において、桁行・梁間も大きく、また、構造材も大きいものを使用している。
軒は二軒で和様の繁〓木でつくられ、妻構架は二重虹梁蟇(ひき)式で、和様の二手先〓〓(とうきょう)で軒の出を支え、懸魚をおさえている菊座の樽の口はやや長い。
構架は経三九cmの粽つきの円柱を主柱とし、経三三cmの袖柱を配しているが、向って内側左方の袖柱は改補のものである。
左右の主柱を〓と冠木(42cm×21cm)でつなぎ、主柱と前後の袖柱に女梁(めばり)と男梁(おばり)を架けている。桁行柱間は三九二cmで、梁間方向の各柱間は一八〇cmである。
各柱は礎石と礎盤を基礎とし、正面と背面の柱上の前方と左右に木鼻をつけている。
(「東金市文化財報告書-主として建造物について-」)
小川政吉
前千葉県文化財保護協会理事長。昭和五〇年(一九七五)一二月、当時同協会の事務局長であった氏は東金の文化財調査のため当地に来られ、調査の結果を報告された。