鳳凰山本漸寺(東金)

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 鳳凰山本漸寺は、東金市谷(やつ)にあって、顕本法華宗に属し、往昔は本山輪番上総十か寺(本漸寺・最福寺・妙徳寺・本松寺・法光寺=以上東金市。本国寺・蓮照寺・正法寺-大網白里町。善勝寺・本寿寺=以上千葉市)の一で、巨刹最福寺と相対し、八鶴湖を下瞰する城山の中腹にある名刹である。

本漸寺

 本寺の縁起については、十二世住職日応が元禄一二年(一六九九)に書いた「鳳凰山縁起」があるが、その冒頭に
 
  「夫レ、当山開闢ノ縁由ヲ考フルニ、伝ニ曰ハク、往昔ハ近郷松之郷村ノ内ニ在リ。同夢山願成就寺(がんじょうじゅじ)ト号ス。則チ、禅宗ニシテ、七堂伽藍ノ大寺ト云フ。大檀那平朝臣久時ノ時代、弘安三年ニ寄附ノ鼓鐘今ニ之レ在リ。」
 
とあるのによって、本寺がもとは松之郷にあり、鎌倉時代に創建された禅宗(曹洞宗)の寺院で大寺の規模をもっていたことが知られるのである。寺名は同夢山願成就寺と称したというが、残念ながら、その開基の年時と開基者がわかっていない。(「上総国誌」(巻之六)には天台宗であったと記しているが、「上総国山武郡寺院明細帳」(明治一二年千葉県編)は「元、禅宗の巨刹にして」と記し、また本漸寺現住職坪井氏も禅宗であったとしている。)
 本寺には古い梵鐘(ぼんしょう)があって、それには「弘安三年(一二八〇)五月二十九日大檀那平朝臣久時」と刻まれてあったというが、この鐘は文政一三年(一八三〇)に改鋳されたもので、その鐘銘は左の通りであった。
 
  「本漸寺弘安三年鐘名
 願諸賢聖 同人道場 願諸悪趣 倶時離苦
  弘安三年庚辰五月廿九日施主沙門寂妙
          大檀那平朝臣久時
  古洪鐘大破文字不分明故年号施主書為後代半鐘写置焉」
  (この半鐘は高さ一尺七寸ばかりのものである。)
 
というわけでこの鐘は制作時のものではなかったが、大東亜戦争中、政府に供出してしまって、今残存していない。この刻銘を信ずるならば、本寺が鎌倉時代の弘安三年(蒙古が来襲したのは弘安四年である)には存在していたことになる。すなわち、本寺の開基は少なくとも弘安三年以前ということになる。北条久時は、久我台城主で、いわゆる北条三代の二代目にあたる人であり、また、願成就寺という寺名は鎌倉にある北条政子創建の同名の寺の名を取ったものであろうから、本漸寺の創立は鎌倉時代だと考えてよさそうである。
 なお、北条久時は優秀な人物で仏教信仰のあつかった人であったらしく、六波羅守護にもなったことがあったが、惜しむらくは病身のため、徳治元年(一三〇七)官を辞して翌二年には出家し、久我台城に住み、松之郷の菩提寺願成就寺(後の本漸寺)に籠ることがあったと伝えられる。そして、この年三六歳の若さで長逝している。ただし、死んだ場所は分からない。久時はまた、当時久我台にあった八坂神社(当時は牛頭天皇祠といった)を松之郷に移した人だともいわれている。(八坂神社の項参照)
 その後永正六年(一五〇九)になって土気城主酒井定隆が田間郷要害台に田間城を築き、本寺をその内寺と定め、これを田間城に近い金谷の地(東金市松之郷金谷)に移し、顕本法華宗に改宗し、巨徳山本漸寺と改称した。そして、名僧日親(日泰の法弟)を中興の祖たる住持として迎え、大いに寺勢を拡大したのである。これは本寺にとっては大きな革命であった。(「上総国誌」(巻之六)に開基の年時を大永元年(一五二一)三月としている。)
 しかし、定隆はかねてから田間城の狭小であることを不満とし、大永元年(一五二一)東金城を改修してこれに移居すると共に、金谷では寺の境内も狭く、いろいろ不便も多いので本寺をこの地に移し、鳳凰山本漸寺と改称、その菩提寺として寺運を盛大ならしめたが、五代政辰に至って、遂に豊臣秀吉のために亡ぼされることになった。これは本漸寺にとっても不幸なことであったが、徳川の世となっても幸いに将軍の庇護を受け、天正一九年(一五九一)一一月、徳川家康から寺領三〇石の寄進があり、以来寺運は次第に立ち直り、末寺二七を有する房総有数の大寺になった。
 この時期には、本寺から日殷・日乗・日英等の名僧が輩出して、彼らがいずれも本山妙満寺の貫主に昇任しそれぞれすぐれた実績を挙げたことは特筆すべきことであろう。
 
    

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 しかし、本寺は不幸にも元禄一三年(一七〇〇)と宝暦五年(一七五五)の二度、火災にかかり、いずれも全焼の打撃を受けている。その状況と復興の経緯について、杉谷直道が左のようにかなり詳しく書き残している。
 
 「本漸寺十二世日応師時代元禄十三年七月二十三日夜九ツ時焼失、本堂方丈残ラズ灰燼トナル。宝永二年(一七〇五)十月十四日本堂講堂新築ニナリマシタ。
  宝暦五年十二月二日夜四ツ時客殿ヨリ出火、本堂及ビ方丈マデ残ラズ再ビ全焼ニナリマシタ。明和五年(一七六八)十月十二日本堂再築棟上ゲニナリマシタ。大工山下伝四郎ト申スモノ、土方頭ハ権七ト申スモノ、江戸ヨリ来リマシタ。家根屋ハ下総国布鎌(ふかま)新田元七ト云フモノデアリマシタ。)(「東金町来歴談」)(稿本)
 
元禄の火災は五年で復興できたが、宝暦の火災は再建まで一三年を要している。
 大正年間、更にこれを改修し、昭和五〇年庫裡を新築、現在に至っている。
 境内は凡そ九〇〇〇平方メートル、杉の古木は天を衝いて林立、鬱蒼と繁茂し、梅園と菖蒲園は名園としてその名を謳(うた)われていたが、今は梅林のみが残っている。その季ともなれば、ここに杖曳く人士は数多いといわれている。
 本堂は寺域の奥の高所にあるが、その周囲には歴代住職の供養塔・豪族の墓碑・記念碑等豪華な碑石が並列しているのに対し、手前下段の墓地内には、素朴な歌碑や句碑が点在するのも面白い。
 大檀那酒井氏の墓碑には
 「大檀那酒井一類正保四年亥夏創立焉」とあって、その左右に数十の同族の碑がある。
 また、天和二年七月建立の「東順院日格大居士」の碑は、徳川家光に仕えた酒井正直(八代)の墓である。
 「本漸寺の午鐘」の伝説で名高い鐘楼は、山門の左方の高台にあったが、今は取払われて存在しないのは寂しい感じがする。(「本漸寺の午鐘」については、本巻伝説の項を参照されたい。)
 本漸寺什宝中の主なるものを次に列挙してみたい。
 
 一 日蓮聖人御曼荼羅
 一 同 御真筆
 一 日什上人御曼荼羅
 一 本門戒血脈(顕本法華宗開祖日什より日仁に与えた書翰)
 一 日泰上人御曼荼羅
 一 日親上人御曼荼羅
 一 日経上人一遍首顕
 一 日経上人御法難法衣血痕附着
 一 御奈良天皇御真筆と称する一遍首顕
 一 日殷上人書幅
 一 日乗上人御曼荼羅
 一 同 書翰
 一 日英上人御曼荼羅
 
 以上いずれも国宝・重文級の品々であるが、この外本寺には専門の歴史家が高く評価する「本漸寺文書」がある。これは、わが国の歴史上、文化史上、極めて貴重な文献で、日殷上人や日乗上人に関連する「口宣案」・「北条伝馬添書」・「養徳文庫」等である。
 天文二〇年(一五五一)来四三〇余年、その間、幾度かの戦禍や災厄に遭遇しながらも、その都度危機を脱し、現在重要な文化財として無事保存されていることはよろこばしいことである。(「明治四十二年十二月十五日本漸寺内ニ乾竜文庫開設ス」(杉谷直道「東金町来歴談」)
 
    

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 右のごとく、本寺の開創が鎌倉時代の弘安三年(一二八〇)だとすると、かなり古いことになる。しかし、これを最福寺が大同二年(八〇七)の創基というのに比すれば、四七〇年ほど後になる。さて、禅宗として発足した本寺は戦国期になって、日蓮宗に改宗されることになる。その経緯は必ずしも明らかではない。「鳳凰山縁起」には、
 
 「其ノ後、田間村ノ隣境金谷村ニ之レヲ移シ、改宗シテ巨徳山本漸寺ト名ヅク。且ツ又談林ニシテ、勤学ノ輩春秋ニ聚会ス。時ノ貫首(かんす)ハ則チ権大僧都日親上人ト云フ。」(原漢文)
 
とあるが、これによると、その後、寺地が金谷村に移され、日蓮宗に改宗され、談林がおかれ、その時の貫首が日親であったという。これは、革命的な変化である。金谷村は「田間村の隣境」とあるが、地籍からいうと現在、東金市松之郷の小字(こあざ)金谷となっているところである。(杉谷直道は「往古此ノ寺ハ松之郷金谷樋ノ口ニアリ」と書き残している。)だから、寺を移したといっても、ごく近辺へ移したにすぎない。しかし、「七堂伽藍ノ大寺」といわれた寺を他所へ移すのは容易なことではない。それを敢えて移したのは、改宗のためだったのだろうか。しからば、その改宗はいつ行われたか。それについては、「鳳凰山縁起」にも示されていない。が、杉谷直道の書きのこした「鳳凰山本漸寺来歴談」には、「抑(そもそも)当山之開基ハ今ヲ去ルコト四百十五年之其昔文亀元年(一五〇一)之創立ニシテと記している。(「今」とは大正四年(一九一五)のことである。)
 また、同人の編んだ「東金開拓年表」には、「文亀元年鳳凰山本漸寺日親聖師開基ス。当時庄屋役ハ杉谷弥左衛門直重ナリ」ともある。(直重は直道の祖先である)ここで「開基」とか「創立」とかいうのは、寺の創始という意味ではなく、日蓮宗への改宗のことを指しているのは、当地の寺院一般の風習であるから、この場合も改宗の意味に取っていいと思う。すると、「文亀元年」が改宗の時だと考えられる。この年は、土気城主酒井定隆が改宗令を出した長享二年(一四八八)から一三年後になる。改宗令にしたがって禅宗から日蓮宗に切りかえたということが考えられる。ただし、別説としては、文亀元年ではなく永正六年(一五〇九)とする説、同一三年(一五一六)とする説、大永三年(一五二三)とする説の三つがある。第一の永正六年(一五〇九)であるとする説は「山武地方誌」(四四六頁)に記すところで、その年、酒井定隆が二男隆敏と田間台に城を築いて土気から移居し、松之郷の願成就寺を「田間台城の近くの金谷に移し、顕本法華宗に改め、巨徳山本漸寺と号した」としているのである。だが、第二の別説としては、永正一三年(一五一六)説がある。これは「東金市年表」に出ている説で、本寺はこの年金谷に移り改宗したとしている。なお、同年、酒井定隆は同じ金谷の本通寺(その後廃滅)の大檀那になったともいわれる。第三の別説たる大永三年説は「上総国山武郡寺院明細帳」(明治一二年千葉県編)に「創立大永三年(一五二三)三月、開基日親」とあるのがそれである。いずれも数年のずれがあることになる。どうしてこういう諸説があらわれたのか判断に苦しむ。酒井定隆は大永二年(一五二二)に死去しているので、大永三年は死後ということになる。改宗は定隆の在世中のことだと考えられるから、大永三年説は無理であろう。永正一三年説は改宗と金谷移転と同時説である。かなり有力な感じがする。しかし、改宗と金谷移転が必ず同時だったとも考えられない。永正六年は定隆が田間城を営んだ年である。これも可能性はあろう。巨徳山本漸寺のあった場所は、現在の東金女子高校の校地にあたるが、そこに立てられている「本漸寺発祥の地」という標示には、左のごとく説明され、永正六年説をとっている。
  本漸寺はもと戦国時代松ノ郷金谷の当地にあり、巨徳山本漸寺と称し、七里法華開創の外護者酒井小太郎定隆が永正六年(一五〇九)山小屋台地に城(田間城のこと)を構えた時、七里法華開基日泰上人の法弟日親上人を開基として当所に建立された。(下略)
 
    

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 さて、改宗時に重要な役割をつとめた日親とはどういう人物だったか。これは有名な鍋冠聖の日親(応永一四(一四〇七)-長享二(一四八八))とは別人である。「鳳凰山縁起」には、日親のことをこう書いている。
 
 「此ノ師、生処ハ西上総木更津ノ辺ニ在リ。然ルニ、法ヲ日遵(じゅん)ニ禀ケテ、泰師(日泰上人)ニ琢学シ、誠ニ少年ヨリ聰明他ニ秀デ、一ヲ聞イテ十ニ至リ、文ヲ解シ意従フ。殊更、内ニハ道念ノ志ヲ孕(はら)ミ、外ニハ、弘経(ぐきょう)ノ願ヲ専ラニシ、知行兼具ノ碩徳(せきとく)ナリ。是ヲ以テ、緇素(しそ)貴賤崇敬日ニ新タナリ。」※
 
これで、人物の大体が分かるが、木更津に生まれて(鍋冠日親は山辺郡埴谷(山武町)の生まれである)日遵の門弟となったという。日遵は顕本法華宗の祖日什の系統の僧で、ここに出る泰師すなわち日泰と同門ということになる。日泰は酒井定隆を助けて七里法華の改宗を断行した人であることはいうまでもないが、「泰師ニ琢学シ」とあるのは、日泰に師事したことを示すと考えられる。二人の年齢がどのくらいちがっていたかは分からないが、日泰は永正三年(一五〇六)七五歳で死去している。日親はそれから一八年後の大永四年(一五二四)正月八日逝去しているが、(「鳳凰山本漸寺代々」による)年齢は不明である。おそらく、日親のほうが十年以上は若かったのではないかと思われる。ともかく、日親が日泰と親しい関係にあったことは充分想察することができよう。七里法華の推進にあたっても、日泰を大いに援助したことであろうし、金谷村に移した本寺に談林を設けたというのも、七里法華の強化策であったかとも考えられるのである。酒井定隆も日親への信頼は深かったらしく、「鳳凰山縁起」にも「金谷ノ本漸寺ヲ以テ内寺トシ、二世ノ願望悉ク日親師ニ仰グ。」とあり、日泰の死後は日親を後継者と考えていたかもしれない。そして、何よりも本漸寺を東金酒井家の菩提寺と定めたことに、信倚の深さが端的にあらわされているといえよう。
 ところで、酒井定隆は大永元年(一五二一)になって、田間の地が将来の発展に適しないことと、田間城が狭小なのに鑑みて、鴇ケ根城を修築して、ここに移居することになった。それとともに本漸寺をも城側に移したと伝えられる。ただし「鳳凰山縁起」には、「年時ハ大永年中ナランカ」と漠然とした云いかたをしている。大永も七年まであったから迷うが、おそらく寺の規模も大きくしたであろうから、諸堂の整備までには、相当の年月を要したかもしれない。寺の移転とともに、寺名も鳳凰山本漸寺と改められた。
 
 「其ノ前ハ山ヲ巨徳山ト曰フ。当山ニ移リテ後、之レヲ改メ鳳凰山ト曰フ。其ノ故ハ、往古鳳凰飛ビ来ツテ、且(しば)ラク此ノ山間ニ休ラフ。足跡今ニ在リ、池トナル。之レニ依ツテ号ス。」
 
これは、「鳳凰山縁起」の記すところである。いかにも大時代的な説話で、とても信じがたいが、明治までは本寺内に鳳凰ケ池という名の池が実在していたという。杉谷直道は、
 
 「鳳凰ケ池。本漸寺本堂の北方、山岳ノ中間ニアリ。此ノ地嶮阻、雑木繁茂シテ、往昔ハ登ル事能ハズ。(里語ニ鳳凰ガ羽ヲ洗ヒシ池ナリト云フ)今ハ雑木枯朽シ山上ノ土崩レテ其ノ旧跡アルノミ。明治以降漸次開拓シテ、今「墓地トナレリ。」
 
と書き残している。こうして、東金酒井家を大檀那として深い庇護を受けることになった本寺は自然に寺格も高まり、この地方の巨刹として重んぜられるにいたったのである。
 しかし、その酒井氏も、天正一八年(一五九〇)豊臣秀吉の部将浅野長政の軍に攻められて、ついに滅亡の悲運を迎えたのであるが、東金城の陥落は同年七月七日本寺で鳴らす正午の鐘を合図として、浅野軍が一斉攻撃をかけた戦いのためであったので、その後午鐘をつくことはやめにしてしまったという伝説が残っている。また、本寺には東金酒井氏五代、すなわち初代定隆(大永二・四・二四死)二代隆敏(享禄四・一一・一三死)三代敏治(天文四・四・二二死)四代敏房(天正五・二・二〇死)五代政辰(慶長八・一一・二二死)の墓碑が本堂左側に並立し、その左右に同族数十の碑が建てられ、「大檀那酒井氏一類正保四丁亥夏四月創立焉」の標示がある。正保四年(一六四七)は天正一八年から五七年後にあたる。
 ところで、この酒井氏の墓について「東金史話」(清水浦次郎氏執筆)には、次のようなちょっと気になる記述がある。
 
 「一説には、酒井氏の墓は三本杉の下で、この杉は墓じるしに植えたもので、墓石は供養塔ではないかともいわれている。三本杉の北に周囲約三〇米、高さ約七米の円形の塚の如きあり。西方直ちに急斜面なるより風水蝕のため生じた自然のものか、また人工のものか今後注意すべきである。」(一七三頁)
 
今の墓は後につくられた供養塔であって、実際の墓でないのではないかという説である。古昔は屍を地下に埋めて、その上に椎を植えて目じるしにしたことは普通であったから、実際の墓は三本杉の下にあるか、あるいは、三本杉の北にある「塚の如きもの」がそれであるのか、これは発掘でもしてみなければ決めがたいことである。今後の探査にまつよりほかはないであろう。
 やがて酒井氏は滅亡し、徳川氏の世となった。酒井氏の後嗣は徳川家に仕えて旗本となったが、本寺に昔日のごとき支援ができるはずはなく、「自(おのずか)ラ当山モ衰微ニ及ビ、僧房減少ス。」(「鳳凰山縁起」)という状態に追い込まれたが、幸いにして天正一九年(一五九一)一一月、最福寺同様御朱印三〇石の寄進を家康から受けるようになったので、ふたたび昔の栄光を取り戻すことができたのである。慶長一八年(一六一三)には旧鴇嶺城あとに東金御殿が造成され、家康も本寺に立ち寄り、いわゆる御手植蜜柑を残していることはよく知られている。(家康が東金御殿地に三河国白輪村から苗木を取り寄せて植えたという、御手植の蜜柑は、明治二年本漸寺境内に移植され、今も残っている。)
 
    

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 改宗後の本寺には、著名な高僧が出ていることを注意したい。初代の日親は同名の鍋冠日親があるため多少損をしている不運はあるが、日泰につぐ名僧であることはすでに述べたとおりであるが、三世日乗、四世日殷、九世日英などは史上かくれもない偉大な業績をのこしているので、「人物篇」で取り上げてあるからここでは省略しておくが、その他各代の住職には、すぐれた人物が出て、それぞれ本寺の発展のために尽瘁しているのである。
 さて、天正一九年(一五九一)に本寺も最福寺同様三〇石の寄進を将軍から受けたことを前に書いたが、これは五世日惣の時であったと、前引の「本漸寺来歴談」や「本漸寺法灯誌」にあり、また、日惣は最福寺の住職を兼務していたとされているが、一方、最福寺の資料では、当時の住職は七世日善で彼は本漸寺の住職を兼務していたとされていることは、最福寺の項でのべておいたとおりである。いずれが正しいのか、ちょっと判断に苦しむところである。後考に俟つよりほかあるまい。
 一〇世の日厳は、九世日英の弟子として出色の人物であったらしく、師の日英は不受不施の大物であったため日向に流されたり苦難の生涯を送ったが、日厳は師の救難のため色々と手をつくしたことは特筆すべきである。一二世の日応は山門に浄圓坊を設けて研学を奨励した功があったが、不幸にも元禄一三年(一七〇〇)七月二三日夜出火して、本堂庫裏方丈等残らず焼失し、宝物類も多く灰燼に帰してしまった。やむなく本堂等の再建に取りかかり、宝永二年(一七〇五)一〇月ようやく本堂が落成し、同七年(一七一〇)までにはほぼ堂塔の造立が成った。それから四六年後の宝暦五年(一七五五)一二月二日夜、それは一四世日玄の時であったが、客殿から出火して、本堂方丈鐘楼等が焼失してしまった。度重なる大災厄に遭って本堂の痛手は正に痛烈であった。日玄の苦労も大きかったが、一五世の日茲、一六世の日立、一七世の日台の時まで再建のなやみが続き、ようやく明和五年(一七六八)一〇月に至って、本堂等の復興が成った。その間のことを「本漸寺法灯誌」は次のように記述している。
 
 「日慈上人は宝暦五年全山烏有の後を受け寺門の再建に苦慮し、仮りに民屋を購入して仏事を行ひ、後之を庫裏となし、翌年梵鐘を改鋳し、続いて本堂客殿の再建に着手せられしものの如く、次代日立上人を経て、日台上人の明和五年十月十二日に至り、漸く現今の本堂客殿の上棟式を見るに至る。此の間実に十四年間の工事にして、日慈・日立・日台三師の苦心、檀徒の外護容易ならざるべく、棟梁山下伝四郎また能く勉めたるものの如し。」
 
この工事には、当時の東金領主板倉家でも応援したらしく、土木方には江戸四ツ谷番町の板倉藩邸出入りの鳶頭車屋権七が手下五人を引き連れて来り、大工山下伝四郎を助けたという記録が残っている。かくして、本堂まず成り、翌々明和七年(一七七〇)四月までかかって堂塔の再興が完了したのである。
 
    

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 明治維新を迎えると、例の排仏棄釈のあらしが吹き荒れたため、本寺でも強い風当りを受けて苦労つづきであったようだが、いちばん打撃だったのは、御朱印三〇石を取り上げられたことだった。時の住職は二八世日遊であったが、この人は「高徳にして実践躬行身を奉ずること薄」(「本漸寺法灯誌」)い名僧であったから、檀徒の信望も深く、寺の危機を救うべく、檀徒たちが醵金をして、一二俵入りの水田を購入し、これを寺の財産として永続をはかるようにしたのであった。
 こうして、維新の危機は一応乗り越えたのであるが、明治三五年(一九〇二)暴風雨のため寺の所有林の木のほとんどが倒折するという災害に見舞われ、その事後処理の際いわゆる払下げ事件がおこって大失敗をしたため、寺債等も多くなり経営上に非常な困難を来し、その始末が同三八年(一九〇五)までかかってしまったのである。この困難を克服するため非常な努力をしたのは当時の住職今成乾随であった。しかも、その頃には寺の堂塔が再建以来長い年数を経ているため、痛みが甚だしくなり、そちこち雨漏りがするほどになってしまったので、同四〇年(一九〇七)から四一年(一九〇八)にかけ屋根の修覆等を行なって応急の措置は施したものの、抜本的な大改築を施さなければならない時機を迎えていたのであった。たとえば、伽藍の屋根などもまだ萱屋根のままのものが多いのをそのままにしておくわけにはゆかなかった。そこで、前島治兵衛ら有志の建策もあって、寺塔の再建築を実施することとなり、浄財の喜捨を募ることにし、大正二年(一九一三)から工事にかかり大正四年(一九一五)四月八日竣成の運びとなったのである。
注※東金市田間勝田家で最近発見された古文書の書留(筆者不明の中に、日親のことに触れた左のごとき一文がある。
 
  「日親ノ御曼荼羅(まんだら)、宝永二乙酉、之レヲ求メ価ヲ出ス。日泰上人ノ御弟子ニテ、本漸寺第一世目ノ御上人。松ノ郷金谷ニ本漸寺之レ有リシ時、切開ノ御住持ナリ。中風ヲ御ワヅライナサレアソバサレタルナリ。去ル間、類ノナキ曼荼羅ナリ。之レヲ貴ブベシ。」
 
 参考資料
  本漸寺の山門(建築学的考察)        小川政吉
 東金市八鶴湖に面して建てられ、切妻造り、桟瓦葺きの四脚門である。軒は背返しの和様繁〓木で、二軒につくり、妻構架は二重虹梁太瓶束式で、軒を深くするために、二手先〓〓(とうきょう)を使用している。
 構架は経三五cmの上下粽つきの円柱を主柱として、これに経三〇cmの袖柱を配しているが、内側の右方の柱一本は近年の改補である。
 各柱とも基礎は石の「礎石」と「礎盤」を用いているが、一部には昭和三〇年代に改補したものもある。主柱を〓と冠木(かぶき)(53cm×28.5cm)で結架し、〓下(びか)の内法(うちのり)は二八五cmである。主柱と袖柱とは、冠木と直角方向に架けた女梁(めばり)と、その上にのせた男梁(おばり)とで結架し、前後の袖柱の上部の左右と前方に木鼻をつけている。
 軒桁(けた)を支える〓〓は和様の出組である。
 通路上の天井は鏝天井とし、主柱につけた双開扉は、昭和一三年(一九三八)七月の改補である。
 この四脚門の創建(改築)年代を示す文献資料は、目下のところ見当たらないが、構造材の風蝕度、構架施工等の手法から見て、江戸中期末頃のものと推定され、市としての指定保護の必要が認められる。
 (「東金市文化財報告書-主として建造物について-」)