正宝山嶺根(れいこん)寺(東金)

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 東金市谷(やつ)にある。御殿山(城山)の北側の池袋というところ、みどり深い丘を背負う台上にある風雅なお寺である。階段をのぼって行くと、閑静な情趣がただよう中に、古めかしく可憐な薬師堂がある。昔から、布田の薬師さまに対して東金の薬師さまとして親しまれた寺院である。毎月八日が縁日で、大勢の参詣者があって、にぎやかである。
 この寺は現在顕本法華宗に所属し、本漸寺の末寺となっているが、もとは真言宗であったといわれる。その創建がいつであったかは不明である。しかし、酒井氏時代より前に開かれた寺であるとされ、酒井氏が東金城に入った頃、改宗したと伝えられている。
 この寺は、また、虚無(こむ)僧の修業寺でもあって、修業のため用いられた滝壺(つぼ)が残っている。
 なお、薬師堂にあった薬師如来の像が江戸時代に紛失(盗難という説もある)してしまい、一時寺が荒廃してしまったことがあったらしい。また、本寺には、天文一八年(一五四九)松戸平四郎という人物が寄進した梵鐘がある。天文一八年は酒井定隆が東金城に入った大永元年(一五二一)から二八年後である。
 なお、本寺の境内には番神・八幡大神が祀られているが、その鰐口には、「永禄二年(一五五九)領主坂東下総国中相馬郡賢光東金池袋嶺根寺先養泉坊日光」と刻まれている。酒井氏時代の永禄二年に「東金」の地名が使われていたことが知れる。
 酒井氏時代、この寺の隣地は家老古川出雲の邸宅があったといわれる。寺の前面には用水池があった(東金七池の一に数えられた)が、文政年中(一八一八-一八二九)に水田化され、今はそのおもかげは見られなくなった。
 本寺の境内には、明治の初年非業の死を遂げた勇俠峯与左衛門(「人物篇」参照)の墓がある。