高福山上行寺(じょうぎょうじ)(田間)

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 東金市田間字(あざ)新町にある古刹である。現在は法華宗(本門派)であるが、古くは真言宗であった。真言宗としての開寺が何時であったかは不明である。それについて、「東金町誌」(志賀吾郷著)には
 
 「其の初め延徳三年(一四九一)の創立にして真言の古刹なりしが、六百四十余年後の正応二年(一二八九)三月、日蓮の直弟日弁の中興開基せしものなり。」(八一頁)
 
とあるが、ここには明らかに誤記がある。それは「延徳三年」という年代である。(この年は足利時代七代将軍義稙の時代である。東金では酒井定隆時代になる。)すなわち、延徳三年は正応二年よりも二〇二年後である。これは何としてもおかしい。そこで、「六百四十余年後の正応二年」とあるのを、逆算して、正応二年より六四〇余年前を算出すると、大化五年(六四九)頃ということになる。そうとすると、大へんな古さになる。「延徳」は明らかに誤記であるが、これに似た年号をしらべてみると、「延暦」(七八二-八〇六)・「延喜」(九〇一-九二三)・「延長」(九二三-九三一)・「天徳」(九五七-九六一)・「長徳」(九九五-九九九)とがあるけれども、どれも該当しそうにない。といって、大化五年(ないし三年)の誤記だと簡単にきめてしまうわけにも行かないだろう。とにかく、「東金町誌」は貴重な文献なので、見過すことがでないので、念のため吟味してみたのである。要するに、本寺の創始年時は決めかねるということになろう。
 ただ、ここに参考とすべき説がある。それは「上総国誌」(巻之六)に、本寺について左のように記述していることだ。
 
 「正応二年乙丑三月僧日弁中興ノ開基タリ。是ヨリ先、鎌倉時世ノ真言古刹ニシテ、古賀城主ノ香花院タリ。当時ノ北条氏ノ遺物寺什ニ現在スト云フ。」(原漢文)
 
古賀城とは久我台城のことである。傍点の部分によって、本寺が鎌倉時代に真言宗寺院として建てられていたことが分かる。また、本寺が久我台城主たる北条三代(長時・久時・守時)の「香花院」つまり菩提寺だったことも知れるのである。
 ともかく、本寺は鎌倉時代、真言宗の寺院として創立され、正応二年に日蓮宗に改宗されたことになる。この改宗開基の年時は諸文献も一致している。この正応二年から七年前の弘安五年(一二八二)一〇月日蓮が没している。祖師入滅後間もなく、日蓮宗に改宗したことになる。九十九里地方で最古の日蓮宗寺院といわれる茂原市の常在山藻原寺は建治二年(一二七六)日蓮の直門たる斎藤遠江守兼綱(法名日朝)によって創建されたものであるが、それにおくれること一三年である。また、東金の最福寺が日蓮宗に改宗した文明一一年(一四七九)より一九〇年も前である。さらに、酒井定隆の改宗令の発せられた長享二年(一四八八)より一九九年も以前である。すなわち、東金地方では、本寺がもっとも古い日蓮宗寺院である。本寺のプライドもそこにある。
 ところで、上行寺には「当山由緒書」という文書があるが、これは大正九年(一九二〇)九月、文部省に提出したもので、その中で本寺の成り立ちと歴史を左のごとく書いている。
 
  「開祖日弁ハ聖祖(日蓮)ノ命ヲ蒙リ、建治二年(一二七六)中、南総鷲巣大本山鷲山(じゅせん)寺の創立後、一笠孤杖、常奥羽ノ三州ヲ弘(ぐ)通ノ途次、松之郷久我台ノ城主北条武蔵守平久時ヲ折伏(しゃくふく)教化シ、其ノ菩提寺ナルヲ改宗セシメ、弘通道場トシ、足ヲ止メ四近ヲ教化シ、帰依スル者四方ニ相亜(つ)グ。其ノ後、永仁三年(一二九五)地ヲ卜(ぼく)シテ、願成就寺ノ堂宇ヲ鴇ケ峯北方高邱(きゅう)ニ創立シテ、現時ニ臻(いた)ル。実ニ四十有余代、其ノ布教帰依スル者日ニ月に旺盛ノ因ヲナシ、北条氏ノ信仰愈々(いよいよ)厚ク、長子守時公ニ臻リ、更ニ堂宇伽藍ヲ建設シ、法鼓四境ニ轟キ、宗風四近ニ洽(あまね)ク、其ノ旺盛ハ筆紙ニ尽シガタシ。
  正安元年(一二九九)春、久時公薨去シ、高福院殿ト法称シ奉ル、之レ即チ当山開基ノ因ニシテ、高福山上行寺ト命名セル所以也。」
 
本寺の改宗開基たる日弁(延応元年(一二三九)-応長元年(一三一一))は日蓮の高弟で、なかなかの傑物であったが、建治二年(「茂原市史」(八三頁)では建治三年)に茂原市の鷲山寺を創建し、その後、東金の地に来り、当時の久我台城主北条久時を折伏して、真言宗であった本寺を日蓮宗に改宗せしめたのである。(日弁も本来天台僧だったが改宗して日蓮宗の僧となった人である)これが前記のとおり正応二年(一二八九)のことであったと考えられる。久時は深く日弁に帰依したらしく、彼が本寺の大檀那として大いに庇護を加え、その死後高福院殿と称されたところから、本寺の山号を高福山と呼称するようになったのである。なお、久時は永仁三年(一二九五)に願成就寺を「創立」したとあるが、はじめ禅宗であった同寺を日蓮宗に改宗せしめたもののようである。(願成就寺の項参照)また、ついでながら附言すれば、上行寺は願成就寺にあった釈迦堂を移築して建立されたとし、その時名工といわれた阿部勘六なる者が腕をふるったという話も伝えられているが(「山武地方誌」五九六頁)、上行寺のほうが創建が古いとすれば、この話はそのままには受け取られなくなるだろう。
 さて、北条久時の死後はその長男守時が嗣いだが、守時は第一六代の執権となって、鎌倉に居住していたため久我台城は留守になり、元弘三年(一三三三)五月、新田義貞が挙兵して鎌倉を攻めたため、ついに北条氏は滅亡するにいたり、その時、守時は第一四代執権で鎌倉幕府の最高実力者たる北条高時とともに自殺を遂げてしまった。このため久我台城も亡失し、したがって本寺も後援者を失ったことになり、それ以後しばらくの間は衰廃の状態がつづいたのである。
 かくして、徳川時代に入り、享保年間(一七一六-一七二六)二四世住職日寛の時にいたり、現在の田間の地に移転することとなったのである。四三〇年ほどの長い間つづいた久我台時代がここに終りをつげ、新しい田間時代に入ったわけである。田間に移る前、延宝八年(一六八〇)本寺は火災にあっている。このため、古記録、什宝のたぐいを大半烏有に帰してしまい、本寺の歴史(関係の深い浅間神社等の歴史も)もすべて分からなくなってしまったのである。田間に移転したのは、あるいはこの火災が大きな起因となったのかもしれない。その後、明治二二年(一八八九)に、また火災にあい、重ねて大きな痛手を受けた。その際、堂塔の改修等をどのようにしたかは不明だが、その後一〇年を経て、明治三三年(一九〇〇)三月六日重ねて失火し、本堂と庫裏が焼失した。だが、大正一〇年(一九二一)本堂の改築に取りかかり、同一五年(一九二六)完成したという記録がある。
 本寺の末寺には、長久寺と中道寺(いずれも田間)がある。この本末三寺は檀家を共有する習慣が昔からあった。上行寺は、また江戸時代に新宿の浅間神社の別当として、社務を執行していた。(浅間神社の項参照)
 また、本寺では毎月十二日を御縁日の逮夜(たいや)とし、(十二日講という)信徒が参集して御題目をとなえることになっている。さらに、毎年四月八日の灌仏会(かんぶつえ)の日には盛んな花祭りが行なわれ、稚子行列でにぎわうことは有名である。

上行寺山門


上行寺標塔