自在山長久寺(田間)

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 東金市田間にあり、法華宗本門派に所属する。本寺は、永禄二年(一五五九)三月鷲山(じゅせん)寺(茂原市鷲巣にあり、その開基は上行寺の開山日弁である)の一〇世住職日進によって創立されたといわれている。そして、この寺について特筆すべきことは、日蓮宗の檀林(仏教僧侶養成のための学校)がおかれていたことである。それが設置された年代ははっきり分からぬが、おそらく日進による開基後間もなくのことではなかったかと思われる。どの程度の規模で、学徒の数がどのくらいあったかなどについては不明である(ただ、当時講堂に使用した大本堂が明治の頃まで残っていたということだ)。しかし、当時関東八檀林の一に数えられていた①というから、なかなか隆盛であったと考えられる。ところが、文禄三年(一五九四)にいたって、当寺と同じ鷲山寺系統の寺院である東金大沼田の妙経寺に檀林が移されてしまったのである。②それは、長久寺の開山住職である日進の考えによったらしいが、妙経寺は正中二年(一三二五)の創基で、開山は上行寺(別項参照)の開山日弁の高弟にあたる日寿であった。ともかく、妙経寺のほうが長久寺より二三四年ほど古い寺である。寺の貫録ということも移転の原因になったかもしれない。
 こうして、檀林を失った長久寺は、おのずから不幸な運命をたどらざるをえなくなった。徳川時代に入って、享保年間(一七一六-一七三五)それまで松之郷久我台にあった上行寺が田間に移って来た。上行寺と長久寺は同系統の寺院だが、由緒からいえば上行寺のほうがかなり古くて重みもある。その上、両寺の場所が近接している。そこで、長久寺は上行寺の末寺となることになった。末寺となった年時は、「江戸幕府寺院本末帳集成(中)」という書によると、「延享年中御改之節落末仕候」とあるので、江戸中期の延享年中(一七四四-一七四八)であったと考えられる。
 明治三二年(一八九九)一二月、本寺は失火をおこした。そのため、檀林があった当時、講堂に使用した大本堂が焼失してしまい、その他貴重な文書什宝類も烏有に帰したことは残念至極である。なお、その際、本寺の宝物たる祖師日蓮の親筆を彫刻した御本尊が、焼跡から無傷のまま掘り出されて、「火伏せの御本尊」として近郷の話題となって喧伝されたということが伝えられている。
 
注① 「日蓮宗ニ於テ、関東ノ重ナルモノ(檀林)ヲ挙グレバ、上総小西正法寺、宮谷本国寺・大沼田妙経寺・細草遠沾(おんでん)寺・下総飯高法輪寺・中村日本寺・武州池上南谷・甲州身延善学院ニシテ、之レヲ関東八檀林ト称シタリ。」(「沼田檀林誌」東金市史・史料篇三(一〇五四頁))右の「大沼田妙経寺」のところに、はじめは「田間長久寺」の名が入っていたわけである。
 
 ② 「文禄三年鷲山(じゅせん)寺十世日進、田間村ヨリ檀林ヲ妙経寺境内へ移サル。沼田檀林ノ起原、茲ニアリ。」(同)