常在山妙徳寺(北之幸谷)

573 ~ 575 / 1145ページ
 東金市北之幸谷(こうや)字大屋舗にあり、境内二千五百坪を有する顕本法華宗の寺院である。
 本寺の創立については、大正八年(一九一九)発刊の「千葉県誌・巻上」(六〇四頁)に、
 
 「寺伝に云ふ、正応元年(一二八八)十月僧天目草創せり。当時他宗なりしが、其の後今の宗に帰す。」
 
とある。正応元年は鎌倉時代の九代執権貞時の時代である。(これを「山武郡郷土誌」「東金町誌」が正徳元年と書いているのは明らかに誤まりである。正徳元年は江戸時代六代将軍家宣の頃である。)かなり古い創基である。しかし、何宗であったかわからないという。創基の年がわかっていて、宗派がわからないというのも妙な話である。もっとも、改宗された寺院は、それ以前の歴史はすべて抹殺されてしまうのが普通で、以前の宗派がわかっても年代が不明であるか、本寺のごとくその反対であるか、または、両方ともわからないかがほとんどである。もっとも、本寺は創基者が僧天目であることが伝えられているのはせめてもの幸せである。ただし、この人がどういう僧であったかは皆目わかっていない。
 本寺の運命は、戦国末期酒井定隆が土気城主となり、やがて東金へ移居したことで大きく変わった。
 
 「酒井定隆改宗布令後の二十年目即ち永正四年(一五〇七)日蓮宗に改む。永正五年(一五〇八)住持日秀の時、定隆鴇ケ嶺城を其の子隆敏に譲り、而して厚く日秀に帰依し、薙(ち)髪して清伝入道と号し、妙徳寺に隠栖す。依つて、堂宇及び坊中十五宇(う)を建設し、溝を境内外に繞(めぐ)らし、以て不慮に備ふ。日秀を延いて、中興開山と為す。同十三年(一五一六)寺領二百八十石を寄す。」(志賀吾郷著「東金町誌」(八一頁))
 
この記述によって経緯の大体がわかる。定隆が改宗令を発したのは長享二年(一四八八)であるが、それから二〇年後の永正四年(一五〇七)に本寺は日蓮宗(法華宗)に改宗したという。このことが書かれているのは、右の「東金町誌」ばかりである。(前引の「千葉県誌」にもこのことに触れていない。その他の点では「東金町誌」の記載内容とほぼ同様である。)この記事が何にもとづいているのかわからない。ついで翌五年住持日秀の時以下の記述によると、この年に日秀が本寺の住職となり、また、定隆がその子隆敏とともに鴇ケ根城すなわち東金城に入ったとなっているが、日秀の入寺はそのとおりであったかもしれないが、「上総国山武郡寺院明細帳」では「永正五年二月創立す。開基は日秀」としている。しかし、定隆の東金入りの年時はちょっとおかしい。すなわち、定隆は永正六年(一五〇九)まず田間城に入り、それから一二年後の大永元年(一五二一)に東金城へ入っているとするのが正しいと考えられるので、永正五年東金城入りというのは年時にちがいがある。したがって、定隆が妙徳寺に隠棲したのは大永元年と見た方がよいと考える。
 定隆が本寺に隠棲したのは、すでに八七歳の高齢で出家遁世の意が強かったことと、子の隆敏がすでに二五歳に達して一人前になっていたことなどが主な理由であろう。定隆が厚く帰依したという日秀がどういう人物か不明であるが、この人を住持にしたのは、おそらく定隆の推奨によったものであろう。定隆も本寺の堂坊建立には力を入れたようで、「十五宇」をそろえた偉容は人の目をおどろかすものがあったであろう。武将の隠居寺であるから防備面にも意をそそぎ、四周に堀をめぐらし外敵にそなえたが、今もその遺址をとどめている。
 定隆は本寺に隠居してから一年後の大永二年(五二二)、八八歳で永眠している。ともかく、本寺は酒井氏初代藩主定隆ゆかりの名刹であるから、その後も宗界に重きをなし、上総十か寺の一に数えられるにいたったのである。
 天正一八年(一五九〇)酒井氏が滅亡したことは、本寺に取って大きな打撃であった。しかし、幸いに翌一九年、徳川家康から寺領一五石八斗の寄進を受けて、一応の面目を保つことは出来た。ところが、それから一二五年後の享保元年(一七一六)火災にかかり、堂宇・什宝・古記類等が悉く焼失し、昔日のおもかげは全く失われるにいたった。本寺の盛時には末寺一八を数えたにもかかわらず、わずかに四寺に減じてしまう悲運にも見舞われた。堂宇はその後再建されたけれども、かつての偉観を取りもどすことは容易でない状況に立ちいたってしまったのである。
 
 参考資料
   左記は、最近東金市田間勝田家から発見された古文書中の書留(筆者不明)の一節で、本寺地内にあった「守元院」について書かれたものである。
 ○北之幸谷邑妙徳寺地内守元院ハ、享保十五(一七三〇)戍年新造営、日研聖師御願ニ付、研師御隠居処トナル。然レ共、御隠居ナク御遷化。其ノ後、日随聖師御時代ヨリ妙徳寺御隠居処ト御定メナサレタキ由仰セラレ候ニ付イテ隠居処ト定マル。初住守元院日涼、所化名元涼、四十八歳卒。