本寺の由来については、文政一一年(一八二八)二月から六月にかけて起こった訴訟事件(「東金市史・史料篇二」所収、大林寺出入文書参照)の済口証文中に、
「大林寺の儀は、往古先祖縫右衛門と申す者、仏法信仰の者にて、伜九郎左衛門へ家督を相渡し候後、法体(ほったい)致し浄林坊圓立(えんりゅう)と改名仕り、居屋敷内へ庵室補理(しつらえ)罷り在り候処、文禄の度御縄入りの砌(みぎ)り、右庵地三畝四歩御高受けいたし居り、其の後、菩提寺東金町西福寺へ申し出で、山王山大林寺と寺格に取り立て候故を以て、追って檀方出来候」(「東金市史・史料篇二」一一七八頁)
と書かれてあるのによって察知できる。この訴訟事件というのは、台方村の勝五郎が同村の組頭太郎左衛門らを相手取って、寺内にあった神輿堂の鍵の問題や墓地・立木の問題にからんだ事件だった。文中の縫右衛門は勝五郎の先祖にあたり、この人が仏教を信仰して出家して自らの屋敷内に庵をつくったのが、文禄年間(一五九二-五)に、一本立の寺となり、西福寺の末寺として山王山大林寺という寺号をもつようになったというわけである。いわば、大林寺は勝五郎の先祖が寄附した寺だと彼は主張しているわけで、彼は同事件関係の別の文書で「右大林寺屋敷地は残らず勝五郎先祖より寄附致し候儀に付き、勝五郎之れ無くて候ては、大林寺は相立ち難く」(同、一一六八頁)と、自分の云い分の正しいことを強調しているのである。なお、「山王山」という変わった山号をつけたのについては、同事件の別文書に、「本寺西福寺へ相頼み、当村(台方村)外五ケ村(辺田方・堀上・大豆谷・川場・押堀の各村)鎮守山王権現社僧致し、山王山大林寺と寺格に相定り……」(同、一一七四頁)とあるとおり、最福寺が別当をしていた日吉神社の社僧をつとめることになったためなのである。この点に本寺の特殊性がある。本寺が別称「別当寺」といわれるのは、ここに由来がある。ところで、大林寺が社僧となったのは、日吉神社の項で考証しておいたとおり、宝永五年(一七〇八)のことと考えられる。
大林寺が日吉神社の社僧となったことから、神輿をおさめる神輿堂が寺の境内に造営された。そして、祭礼の際には大林寺の住持が祭事を執り行なってきたが、明治になってから、神仏分離政策によって、大林寺の神輿堂は廃止され、日吉神社に移されることになった。しかし、長い間の慣習によって、大林寺の所在する大作の人たちが、祭礼の際など神輿を神輿堂から移す仕事をつとめることになっている。
こうして、本寺は日吉神社の祭事に深い関係をもつことになったので、祭礼に関係をもつ九か村(台方・大豆谷・堀上・押堀・川場の各村と東金の上宿・新宿・谷・岩崎の各街を加えて九か村という)が、大林寺の存続に協力するようになり、「此の寺の建設費は昔は、水仲間の九ケ村の寄附を以て之れに充(あ)つ。」(志賀吾郷「東金町誌」七五頁)というようなことにもなっていったのである。
大林寺