「開基実成院権大僧都日哲大聖人
当山開闢永正二年四月、石牌ニハ明暦二年ト記セリ。永正ヨリ明暦マデ其ノ年限甚ダ隔タリ不審ナリ。但シ、明暦ハ石牌建立ノ時日カ。若シ然ラバ、遷化ノ時カ明ラカナラズ。後日相糺(ただ)シ度シ。
明暦ハ石牌建立ノ時ナルベシ。永正ハ遷化ノ時ナランカ。開闢ハ明応元年トモアリ。改宗ハ長享二年ナルコト確実ナリ。長享二年ヨリ五年ヲ過ギテ明応元年ナリ。」
寺伝・口碑によれば、本寺は建長年間(一二四九-五五)、北条武蔵守長時が上総の守護に任じ、この地に久我台城を築いた際、真言宗の一宇を創立して寺領若干を下賜したのが、その草創と伝えられる。しかし、宗派は天台宗であったといっている人もある。その後長享二年(一四八八)五月二八日、土気城主酒井定隆の改宗令により、本寺も顕本法華宗に改宗したものと考えられるが、寺伝では明応元年(一四九二)四月、日哲が創建したというが、そこに四年のへだたりがある。それは発令後直ちに改宗されたのではなく、改宗までに四年を要したものと考えられる。なお、日哲の創建というのも寺そのものの創建ではなく、法華宗への改宗ということであろう。なお、「公平村郷土資料草案」には、「当山此ノ時(改宗発令時)既ニ日蓮宗ニ属シ居タルモ、其ノ派流多少コレト異ナル所アルニ依リ、更ニ改メテ現今ノ宗派顕本法華宗トナリタルナリ。」(「東金市史・史料篇一」八七頁)とある。もしこの記述を信ずれば、改宗発令時に日蓮宗の他異派に改宗したが、それを更に顕本法華宗にかえさせられたということになる。それは、改宗令の基本方針が顕本法華宗一派におかれていたことを物語ることになるだろう。
天正一九年(一五九一)一一月徳川家康より、慶安二年(一六四九)一〇月徳川家光より、寺領一一石を賜わり、本山輪番上総十か寺の一として、末寺一一か寺(上総十寺・下総一寺)を有し、塔中一二坊を擁する大寺となるにいたったと伝えられている。(この一二坊のうちには実成坊・大円坊・常厳坊・円珠坊などという名のものがあったと伝えられている。)
歴代住職中、日勇上人は存道と号し、碩学名僧の誉高く、本山百九世・当山一七世を継ぎ、その著書は十数巻あり、その一部は本寺に現存している。(第一篇「人物」参照)
本寺の檀信徒の範囲は松之郷は勿論、遠く極楽寺・八街町方面に及ぶことは、興味のあることで、本寺の勢力の大きさを思わしめるが、別の面では、本土寺(小金)系の影響によるものと思われる。本寺は現在一二の末寺を有している。
現在の本堂は最近改修され、山門・庫裏・客殿・廻廊等は逐次新築され、更に庭園池の造成も完成されて、かつての大寺の面目は完全に復活されている。
本松寺本堂
境内はおよそ一万四千平方メートル、老杉は鬱蒼として幽邃の趣を漂わせ、銘木大榧(かや)も珍らしく、その傍の番神堂・鼓楼は他寺に見られぬ貴重な建造物である。
また、寺内に並らぶ歴代住職の供養塔(宝篋印塔)墓碑・木刀塚碑等貴重な金石文の多いことも注目に値することである。
このうち、特に木刀塚は有名である。これは著名な剣客小野次郎右衛門九世の孫(名同じ)が建てたものといわれる。この寺のある松之郷は小野氏(旗本)の采地のあったところで、その関係からこの建碑となったものと思われる(別項参照)。ついでにいえば、本寺には幕末の剣豪で名高い山岡鉄舟書の「本松寺」と題した横額が掲げられているが、これは鉄舟が小野氏と親しかった縁故によるものとされている。
本寺を中心としてこの地には、史蹟・名所・旧蹟が多く、頗る歴史的環境に恵まれ、文化財指定の件数もまた多く、市民格好の散策の適地である。
(過去帳記より)
○元禄一六年八月表門建立
○享保二年十二月鐘楼堂建立
○享保十二年八月庫裏建立
○天保九年 客神両尾再興
○宝永七年 客殿建立