本寺の歴史は古く、その創立は鎌倉時代の弘安三年(一二八〇)五月、時の久我台城主北条久時によって創建されたものといわれる。その当時は禅宗(曹洞宗)であった。右の創建年時は本漸寺の古鐘の銘刻から判断されるのであるが、あるいは弘安三年より一五年後の永仁三年(一二九五)であったという別説もある(上行寺の項参照)。また、当時の宗派については、「上総国山武郡寺院明細帳」(明治一二年千葉県編)には真言宗であったとしている。しかし、「上総国誌」(巻之六村部下)では、禅宗であったとしている。(後段参照)
本寺は本漸寺の前身であったといわれる。本漸寺は酒井定隆の東金入城に際し、大永元年(一五二一)五月、現在の位置に建立され、東金酒井氏の菩提寺となった。それと同時に、願成就寺も法華宗に改宗し、僧日誦が開基となった。
本寺の由緒については「上総国誌」にくわしい。
「松之郷ニ古賀或ヒハ久我ニ作ル館址有リ。古伝ニ云フ、北条長時同ジク久時同ジク守時三世上総ノ守護職タリ。建長元年(一二四九)築城シテ之レニ居リ、世ヲ襲(つ)グコト八十余年。(中略)城址ノ北ニ古刹有リ。同夢山願成就寺ト号ス。古ヘ禅宗タリ境内に古石塔三基有リ。土人伝ヘテ三介ノ墓ト称ス。是レ、長時等三世上総介ニ任ズル略々(ほぼ)知ルベキナリ。
願成就寺
東鑑(吾妻鑑)ニ曰ク、文治五年(一一八九)六月六日、北条時政幕府ノ陸奥ヲ討伐スルヲ祈ルニ依ツテ、伽藍ヲ伊豆国田方郡北条ノ里ニ経営シ、名ヅケテ願成就寺ト曰フ。時政自ラ臨ンデ之レヲ監ス。特ニ修備ノ壮厳ヲ加フ。其ノ余南条上条中条ニ各々院ヲ置ク。然レバ、則チ本村ノ願成就寺ナルモノモ亦、当時北条氏ノ建築スル所、其ノ巨刹タル想フベシ。父老伝フ、嘗ツテ大仏舎ヲ置クノ地ヲ古ヘ堂庭ト称ス。今、隣地ニ道庭村有リ。是レ亦、当年願成就寺ノ境内ナルカ。後、酒井氏ノ時大永元年辛巳五月改宗、僧日誦ノ開基スル所トナル。」(原漢文)
これで見ると、本寺が相当重い歴史的意義をもっていることがわかる。本寺が北条時政によって創建された伊豆の願成就寺と同じ名称をもって誕生したのは端的にその重さを示しているといえる。(「公平村郷土資料草案」にも「時政伊豆ノ北条ニ老スルヤ、願成就寺ヲ建テテ子孫ノ冥福ヲ祈リ、又自ラ願成就院殿ト号シタルニ由ルナリ」とある。)しかし、はたしてどの位の規模を持っていたであろうか。松之郷の隣村たる道庭の名が「堂庭」から来ているとすれば「大仏舎」が置かれていたことになるというが、それを裏書きする有力な資料があればであるが、残念ながら今のところは心細い状態である。しかし、元来仏教弘布には力を入れた北条氏のことであるから、久我台(「古賀」の表記は用いていない)城下に大寺を建立したであろうことは想察が可能である。
なお、本寺には、しだれ桜の老樹があるのでも有名である。大正初年の頃の状況を前引の「公平村郷土資料草案」は左のように述べている。
「今、寺前ニ老桜二株アリ、枝椏垂下(しあすいか)シテ庭前数十歩ノ間ニ拡ガリ、中春花信頻リニ報ゼラルル頃ニ及ベバ、遠近〓(つえ)ヲ曳(ひ)クモノ絶エズト云フ。」(「東金市史・史料篇一」八七頁)
また、境内にはいわゆる「三介ノ墓」と称する古墳がある。これは、鎌倉時代房総の守護で久我台城主だった北条長時・久時・守時三代の墳墓であると伝えられるものである(別項参照)。北条三代と密接な関係を有する本寺の歴史的意義を表明する記念碑というべきものである。