道場山元福寺(道庭)

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 東金市道庭字(あざ)東にある。顕本法華宗に属し、本漸寺(谷)の末寺である。
 本寺は江戸時代の安永八年(一七七九)一一月、本漸寺の塔中(たっちゅう)たる善城坊・詮受坊・円蔵坊の三坊をまとめて、この元福寺を創立した。開基は日由である。
 なお、本寺の由緒については、「公平村郷土資料草案」には、左のような記述がある。
 
 「是ヨリ先キ当山一寺アリ。長享二年(一四八八)酒井氏ノ改宗布令アリタルモ、時未ダ酒井氏ノ領外タリシガ、越エテ大永元年(一五〇四)ニ至リ、領主酒井隆治(定隆のあやまりか)此ノ地ヲ併セタルニ及ビテ、尚、改宗ヲ肯ンゼザリシカバ、遂ニ領内ヲ放タルルニ至ル。其ノ後、東金本漸寺ハ、ココニ善成(ママ)、圓蔵、詮受ノ三坊ヲ置キ、寺務ヲ継続スルコトトナリシガ、安永八年(一七七九)ニ至リ、日由本寺ニ乞ウテ旧寺号ヲ復興シ、茲ニ中興ノ開基トナルニ至レリト云フ。」(「東金市史・史料篇一」八八頁)
 
これによると、本寺は酒井定隆時代以前に建立されたものであり、日蓮宗(法華宗)ではない他の宗派であった。そして、酒井定隆の改宗令に反対したため領外に追放されてしまい、そのあとに本漸寺の三坊が置かれたが、江戸時代の安永八年(一七七九)にいたって、当時の住職日由が三坊をまとめて一寺とし、もとの寺号元福寺にもどしたと言うのである。宗派間の対立意識の強い仏教界で、異宗派だったもとの寺名を復活させたのは注目にあたいすることといえよう。
 なお、本寺内には、三介ノ塔と称されるものがある。高さ四尺五寸、五層の石塔である。三介とは三浦介義澄・上総介広常・千葉介常胤の三武将をさす。この三人は治承四年(一一八〇)伊豆に挙兵した源頼朝が石橋山の一戦に敗れて安房の国に逃れ来った時、これを助けて覇業を成さしめた功績者である。つまり三将の顕彰碑のごときものであろう。これがここに建てられたのは、上総介広常の所領がこの地にあったがためではないかと想像される。