華蔵(けぞう)山妙宣寺(家之子)

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 妙宣寺は、東金市家之子字(あざ)奈良一三八四番地にあって、日蓮宗一致派に属し、当山中興の祖と云われる日顕上人を一世とし、四六〇年の法燈は四四世勝義上人(現住職)に継承されている。
 寺伝に依れば、応永二八年(一四二一)四月、(「上総国誌」は一〇月とする)の創立で、東光院日顕によって開基され、四世日解が本堂を改築したが、正長元年(一四二八)・弘化四年(一八四七)三月、二回の大火に罹り、七堂・重宝・文献等一切焼失し総門のみが焼け残ったが、檀信徒の協力を得て、漸く旧態に復することが出来、特に近時の復興は目覚ましいものがある。
 口碑によれば、当山はもと海岸寺と称し、尼御所とも云われ、その開基は円教大姉で、以下二世永如大姉・三世永海大姉・四世海円大姉・五世尊秀大姉・六世栄尊大姉・七世春芳大姉・八世尊融大姉・九世尊道大姉・十世貞円大姉に至るまで十世の間尼寺であったが、寛永一四年(一六三七)貞円大姉が寂するに及んで、現在の妙宣寺に併合されたという。
 開基円教大姉は後醍醐天皇の皇子護良親王の息女華蔵姫であると云われ、建武二年(一三三五)、親王が鎌倉で足利直義のため殺された際、姫はこの難を逃れ、わずかの従者を供に道に迷い、徘徊の末、上総のこの地に辿り着き、ここに草庵を結び、父君の冥福を祈られた。この草庵を尼御所と称し、代々尼僧によって継承され、第三世永海大姉の時代、茂原藻原寺東光院日顕の教化により、御所を寄進し寺号を公称するに至ったといわれる。
 御所跡は、空濠・土塁・一の丸・本丸跡が僅かに窺われ、また、この附近には、姫の勧請したと伝えられる八幡神社もあり、(神社の部「八幡神社」の項参照)姫の墓所「姫塚」もあり、「姫島」「家之子」「御所下」「鎌倉道」等、姫にゆかりの地名が周辺に存在し、姫の従者で土着した「佐藤」・「高科」・「岩崎」等の姓を名乗る子孫も現在残っていると云われている。
 仁王門に安置されている仁王尊像は、華蔵姫の守り本尊と云われ、作者は不詳であるが、その御利益は広大で、特に家業繁昌・悪病退散(皮膚病・眼病に効能あり)の霊験は顕著で庶民の信仰は深く、毎月一六日の縁日は勿論、元旦・節分には、講中の信者たちが参集し寺中は殷賑をきわめるのである。

妙宣寺仁王門

 二度の大火(その一度は弘化四年(一八四七)のことという)により寺宝は少ないが、華蔵姫の守り刀と云われる波の平行安の短刀が秘蔵されている。
 なお、当寺は伊藤左千夫の小説「春の潮」にも描かれているし、近くには、家之子台遺蹟・家之子八幡神社・丑ケ池・ゴルフ場等も散在し、散策に適している。