大広山圓福寺(家之子 禅宗)

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 東金市家之子字(あざ)谷山にある。東金地方では唯一の禅寺である。曹洞臨済宗に属し、臨済宗妙心寺派樹林寺(香取郡五郷内村)の末派である。
 本寺の開基年時は明らかでないが、「公平村郷土資料草案」によると、「正平十二年(一三五七)円教大姉寂滅ノ際、墳墓守護ノ為建設セシモノナルベシト云フ。」(「東金市史・史料篇一」八九頁)とある。円教大姉とは妙宣寺(別項参照)開創の華蔵姫のことである。
 なお、前引の「公平村郷土資料草案」の別項(御所乱塔)には本寺について次のような記述がある。
 
 「(御所乱塔ハ)家之子区字谷山ニアリ。茲(ここ)ハ妙宣寺境内ヲ隔リタルコト西北約十余町、碑石墓標等認ムベキモノナシト雖モ、松林ノ間榛莽(しんもう)徒ラニ繁茂シ、土囲四周シテ自(おのずか)ラ一区画ヲ為ス。俚伝ニ尼御所歴代ノ墳墓ニシテ、当時一寺ヲ建テテ墳墓ヲ守衛セシムト云フ。圓福寺即チ是レナリ。爾来(じらい)、数百年ノ星霜ハ種々ノ変遷ヲ生ジテ自然ノ荒廃ヲ来シ、今ヤ墓標ノ見ルベキモノナシトイヘドモ、寺ノ名残ハ今尚存セリ。該(がい)寺ハ往古ヨリ檀家ヲ有セズ。里伝ノ空シカラザルヲ徴スルニ足ラン。」(同九〇頁)
 
本寺は家之子の尼御所(別項参照)の円教大姉はじめ歴代(一〇世までつづく)の墳墓を守護すべき目的をもって創立された寺であることがわかる。尼御所は「禅宗尼御所」ともいわれるように、禅宗を信仰としていた。したがって、本寺も禅寺となったわけである。檀家もないというのだから、まことに特殊な寺院であった。だから、荒廃におもむくのもいたし方のないことだったろう。ただ、酒井氏時代の法華宗一派に塗り固められていた時代には、どういうあつかいを受けたのであろうか。特殊扱いとして、見逃がされていたのかもしれない。
 本寺は樹林寺の末派となったというが、それは何時の頃からかは不明である。樹林寺は大治元年(一一二六)の創建というから、かなり古い寺であり、はじめは真言宗だったのが天文元年(一五三二)から臨済宗に改められている。圓福寺がその末派となったのは、おそらくそれ以後のことであろう。圓福寺の本尊は「上総国山武郡寺院明細帳」には、阿弥陀如来とあるが、「公平村郷土資料草案」には夕顔観音とある。樹林寺は夕顔観音を本尊としているので有名である。おそらく、樹林寺末派となってから、これを本尊としたものであろう。樹林寺の住職が退任すると、圓福寺を隠居寺として来住するのが例であったといわれる。しかし、幕末の文久二年(一八六二)に圓福寺は火災にかかり、堂宇が焼失してしまい、それ以後は小さな庵寺のごときものとなってしまった。今や往時のおもかげを偲ぶことも不可能になってしまっている。