南照山妙観寺(山田)

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 東金市山田にある妙観寺は日蓮宗身延派に属する寺院である。「山武地方誌」によると、「創立当時は真言宗であったが、長禄二年(一四五八)僧真善房妙高院の時、東葛飾郡小金町にある本土寺の僧日意が弘教のため本地方に来遊した折、その徳に服し日蓮宗に改宗したものである。即ち、酒井定隆の改宗令に先立つこと三十年である。開山は日意、二世は日祐となっている。」(五九九頁)とある。
 この寺は同じ山田にある貴船神社と深い関係があるらしい。同社には「上総国山田村貴船大明神縁起」なる文書が所蔵されているが、それを見ると、本寺の由来について、左のように書かれている。
 
 「頃ハ享徳年中(一四五二-五)迄(まで)モ此ノ村ニ精舎(しょうじゃ)ナシ。時ニ、下総国平賀本土寺十一世妙高院日意上人ハ古今独歩ノ大導師ニシテ、生涯已(すで)ニ八箇寺ヲ開基ス。隣村小西妙高山正法講寺モ其ノ一ケ寺ナリ。山田ノ里ハ往復(ゆきき)ノ道、休息ノ地ナリ。或ル時、日意聖人ヲ請(しょう)ジテ一寺ノ号ヲ願フ。スナハチ諾シテ一茅屋(ぼうおく)ヲ称シテ、南照山妙観寺ト呼ブ。年ヲ経テ檀家シゲリ、今ハ已(すで)ニ堂宇成リテ、平賀長谷(ちょうこく)山ノ末派ナリ。
  又、十有余歳ヲ重ネテ、文明元己丑(つちのとうし)年(一四六九)正月四日、彼(か)ノ貴船大明神ヲ改メテ、社頭ヲ造立シ、一ケ村ノ総氏神ト勧請シ奉リ、法楽ノ導師ナル故、社僧ハ永代妙観寺ニ定メ畢(おわ)ンヌ。」(同)
 
文初に「享徳年中迄モ此ノ村ニ精舎ナシ」とあるが、精舎とは寺のことで、この年代までこの村に寺がなかったと断定しているが、実は貴船神社の裏山は大立(りゅう)寺台と呼ばれ、そこに往古西行法師によって建てられた大立寺という真言宗の寺があったといわれていることを考慮に入れておく必要がある。(貴船神社の項参照)平賀(松戸市平賀)の本土寺は著名な日蓮宗の寺で文永七年(一二七〇)に創始され、開基は日蓮の高弟日朗である。この寺の住職だった日意が、山田からほど近い小西(大網白里町)に正法寺を開いたのは、長禄二年(一四五八)であった。日意は平賀と小西の間を往復していて、途中の山田にも親しみがあったのだろう。彼の力によって、本土寺の末寺として妙観寺が建立されたのである。だが、「縁起」には妙観寺の開基年時が示されていない。ただ、分かるのは、正法寺のあとで出来たのだろうから、長禄二年以後にちがいないだろう。
 ところで、妙観寺の開基について異説があるのだ。それは、前引の「山武地方誌」に、本寺はもと真言宗の寺であったのが日蓮宗に改宗したということになっていることである。その時の住僧が真善坊妙高院であったことまで分かっているとすると、この説も無視できない。「縁起」では、享徳年中以前に寺はなかったといっているが、どうもあやしくなってくるし、現に妙観寺の住職川島貫誠氏も以前は真言宗であったことを肯定している。「縁起」が「一茅屋ヲ称シテ、南照山妙観寺ト呼ブ」と書いている「一茅屋」は、前の真言宗寺院のことを指しているのではないかとも考えられる。廃寺になっていたのを、(あるいはなりかかっていたのを)本土寺の日意が引受けて、妙観寺と改めたのかもしれない。
 次に、長禄二年の開基だということだが、そうだとすると、小西の正法寺と同年ということになる。編者は長禄二年以後だろうと書いたが、もし真言宗の寺をそのまま改宗したのであれば、同年の開基ということもあり得ると思う。この件については、妙観寺には何の記録も伝承もないと、川島住職は語っている。なお、改宗以前の真言宗の寺は、前述の、西行が建てたといわれる大立寺だったのではないかということも考えられる。ただ、大立寺があったという場所は貴船神社の裏側であるが、妙観寺は神社のある台地の森から五〇〇メートルほどはなれた低地にあることが問題になるが、それも、はじめは大立寺をそのまま妙観寺に改め、後に現在の寺地に移転したのではないかという想像も出来ないことはないであろう。
 さて、妙観寺が設けられてから一〇年あまり経た文明元年(一四六九)に「貴船大明神ヲ改メテ、社頭ヲ造立シ」したとあるが、これは社殿を改築したということであろう。そして、「一ケ村の総氏神」つまり村の鎮守としての地位が固まり、妙観寺の住職が社僧として神社の管理をすることになったのである。妙観寺の住職は初代が日意、二代が日祐(以下はおおむね不明)であったというが、ともかく、寺僧が神社を管掌するという体制がここに整ったことになる。