不老山薬王寺(上布田)

589 ~ 591 / 1145ページ
 「布田の薬師様」「布田の目薬」の愛称で、県内外の庶民に親しまれている不老山薬王寺は、東金市上布田字布田前にあって、日蓮宗妙満寺派本山布田薬王寺と呼ばれ、現住持は富田日覚氏である。
 本寺の開基は日常である。「上総国誌」(巻之六)に「元和二年(一六一六)丙辰二月八日僧日常ノ開基ナリ。」と記されている。
 その日常が本尊薬師如来を伝来したと云われ、二世日円の時代の寛永一〇年(一六二五)これを本堂に安置したもので、最澄(伝教大師)の作と伝えられている。ところが、この開基年代の問題について、薬王寺当局は「布田薬王寺」と題した由来書(昭和五〇・八制作)の中で
 
 「日常上人は薬師如来の伝来師として伝えられている。二祖日円上人が寛永二〇年(一六四三)九月二日に入寂された事が過去帳に記されているので、これから推量すると、創立年月日は寛永年間以前であったことが判明するのである。」
 
とのべている。「寛永年間以前」という、あいまいな結論しか出していない。しからば、「上総国誌」が元和二年二月八日と、はっきりとした年時を示したのは、何に拠っているのであろうか。同書にはその根拠を示していないのである。こうなると、本寺の開基は元和・寛永の頃というようなことしか示せなくなって来る。
 さて、本寺は延享二年(一七四五)二月火災にかかり、古記・什宝等一切が灰燼に帰したが、その後篤信の檀信徒の協力によって再建されたのが現在の堂宇で、その建築は宏壮で美観を呈し、特に本堂の内外に配置された彫刻には見るべきものが多い。
 境内は約四〇〇〇平方メートル。祖師堂・大庫裏・製薬工場等の殿宇高楼が、背後の丘陵に並び立つ蒼古な老杉とよく調和されている。
 講社も辺境の地には珍らしく多く、郡内は勿論県内外から遠く関東にまで及び、特に九十九里浜に多いのは、眼疾に悩む檀信徒が多いためであろう。
 
 見たか お薬師 寺の屋根
 親子揃って あの山鳩も
 布田の目ぐすり
 布田の目ぐすり つけに来た
 あの娘(こ) 十八 いそいそと
 好いて好かれて 施餓鬼(せがき)の夜は
 忍ぶ細道 月あかり
 
 これが大橋恂氏作詩に成る布田音頭の一部であるが、古来有名な「布田の目薬」(点眼薬)・「血の薬」(調血散)は、当山三世日正によって創製された霊薬で、彼は法華経の「是好良薬(ぜこうろうやく)・今留在此(こんるざいし)・病即消滅(びょうそくしょうめつ)・不老不死(ふろうふし)」の妙文を感得して調剤したと伝えられ、代々の住職に口伝された家伝の漢方薬で、長い間多くの難病者を救済して来たものである。この売薬は多くの病者を救済するとともに寺に意外の富をもたらし、また「寒郷之ガ為ニ余沢有リ」(「上総国誌」)といわれるように村民をうるおし、門前町的な発展をもたらしたのである。現在は当山内にある千葉製薬株式会社布田薬王寺工場で製造し販売されている。
 当山の施餓鬼会の縁起については、これを詳らかにしないが、素朴な庶民の薬師信仰と郷土色豊かな芸能が融合して成ったものと考えられる。本寺では、これを関東一の大施餓鬼大会と称しているほど盛んなものである。この法要は九月七日・八日の両日に亘って数十人の僧侶の出仕によって執行され、七日には山武郡市・県内は勿論関東各地から講中を初め、檀信徒及び一般人が、観光バスや自家用車を駆って蝟(い)集し、往時には万を数えた時もあったという。これらの善男善女は法要終了の後、あるいは本堂に、大庫裏に、民家に、それぞれ分宿・お籠りして、それからは飲み・歌い・踊って一夜を明かすのが例となっている。両日は露天商が数十軒並び、花火が打ち上げられ、演芸の舞合が設けられ、盛んな時は大庫裏にお籠りする者が千人を数えたこともあったといわれる。正にこの辺境の山寺に一夜の不夜城が現出したのである。
 現在は昔日ほどのおもかげはないといわれているが、当地方の盆行事の最大なるものである。また、この施餓鬼会は別名「縁結び薬師」ともいわれ、この一夜の取りもつ縁で幾組かの新婚カップルが成立したともいう。上代東国で行われた「歌垣(かがい)」の名残りというべきか。
 本寺の山門から本堂に向かう参道の両側に、皇室の菊の紋章入り鉄製の天水受四基がある。これは当山第二五世日寂が、嘉永二年(一八四九)京都妙満寺第二一九世となり上京し、皇室の信頼も厚く大僧都に叙任され、二年の任期を終えて薬王寺に帰山する際、仁孝天皇の皇子・霊明院・常寂院の御二方の御位牌を奉戴し、その御回向を御母君から依託を受け、同時に御紋章御墨付を賜わり、帰山後これを本堂に安置し当寺の宝物としたものであって、時しも江戸講中の奔走によって鉄製の天水受が寄贈されて、御紋章を鋳込むことになったのである。なお、第二次世界大戦の折には軍部から供出の命令が出たが、現住持富田氏はこの由来書を当局に提出して供出を免かれ、今も当山の宝物として残されている。本寺はこの地方の寺院としては、めずらしく繁栄し、他国にまでその名が知れわたっている。それは、本寺が本尊薬師如来の御利益を点眼薬・調血散という二種の漢方薬の現実的効能によって大いに拡散した巧みな商法によることはもちろんであろう。薬自体もすぐれた調剤によって絶対に副作用がないことなども、おのずから大衆に迎えられる素因となっていたのである。

不老山薬王寺