開基は日悟、天正一九年(一五九一)徳川家康の関東入国の翌年に創建されたという説もある(「山武地方誌」五九九頁)が、地元山口村の文書(参考資料(一))では元和年間(一六一五-一六二三)としている。
本寺については、「山武沿革考」(吉井老湖編)に次のような記事がある。
「山口宝樹山常安寺ノ居屋敷北西南ニ空堀ノ跡アリ。往昔、石田庄司常安入道ノ居住ノ跡ナリト云フ。石田入道行円覚知居士、応永三十三年(一四二六)六月八日卒スト云ヘリ。」(「東金市史・史料篇一」二五頁)
石田常安という人物のことは不詳であるが、室町時代の土豪であったらしい。その屋敷あとにこの寺が出来たので、常安寺と命名されたもののごとくである。
ところで、石田常安は千葉氏の一族たる千葉介満胤と同一人ではないかという説がある。すなわち、「続群書類従・巻第百四十三」(系図部三十八・千葉系図)に
「満胤千葉介応永卅二年六月八日卒法名道山阿弥陀仏号常安寺殿」(一六五頁)
とあり、また、同部・千葉系図別本には、
「満胤従五位下千葉介然所、応永三十三年丙午六月朔日ニ御煩(わずらい)付、同八日ニ六十四歳ニテ逝去。道覚院殿ト号」(一七八-九頁)とあることから、千葉満胤と石田常安とが同じ人物ではないかと考えられるというのである。さらに、上総に石田荘があったといわれ、その荘の支配者が千葉満胤であり、彼が常安寺の建立者であったところから、石田常安と呼ばれるようになったらしいとの説をなす人もある。真疑のほどは不明であるが、参考説として記しておく。
なお、千葉満胤は千葉惣領家の一四代(一五代とする説もある)を継いだ人で、千葉介を称し従五位上の位をもっていた。正平一八年(一三六三)癸卯一一月三日に生まれ、応永三三年(一四二六)丙午六月八日、六四歳で没したとされている。(年齢的には石田常安と一致する)彼の時代は千葉氏分裂の動きがはげしくなった時代で、いわゆる千葉六堂の結束がくずれ出すとともに、彼の長子兼胤、二子の康胤、三子の胤高がそれぞれ自己の所領を固めて対立をはげしくしていた。その間にはさまって、満胤の立場も不安定になるばかりで、世の無常を感ずることも多かったのである。
ともかく、本寺も往古は相当の大寺であったらしく思われるが、今やそのおもかげは全く残っていない。
常安寺
石田入道常安ほか墓碑
参考資料
(一) 「寺籍」より
(明治二年八月、山口村より宮谷県庁へ届出)
元和年中(一六一五-一六二三)、日悟聖人開基
日蓮宗妙高山正法寺末
宝樹山
常安寺
無住
一 本尊 釈迦仏 妙法蓮華経
一 本寺
上総国山辺郡小西村
一 境内山林除地
上総国山辺郡山口村
但 弐反弐拾歩
甲斐国巨摩郡高下村百姓茂左衛門二男
同国同郡小室村妙法寺弟子
慶応元丑年九月中より留主居
留主居
明治二巳二十九歳
勝泰
(二) 「日蓮宗本末寺号明細帳」より
(明治三年九月、山口より宮谷県へ届出)
日蓮宗一致派
上総国山辺郡小西村
本山
一 正法寺末
上総国山辺郡山口村
常安寺
但、住職無クレ之、同村海潮寺住職寿鵬兼帯、勝泰差置候。
一 境内除地弐反弐拾歩
一 滅罪檀家七軒
一 元朱印地除地山林等無ク二御座一候。
一 田畑合八反壱畝拾四歩
村内御年貢地
(東金市山口区有文書)