東金市山口字(あざ)川端にある。日蓮宗身延派に属し、正法寺の末寺である。
本寺ははじめ真言宗寺院として創立された。すなわち、鎌倉末期の嘉暦(かりゃく)元年(一三二六)僧円性房によって開基されたのである。当時の東金地方は久我台城主北条守時によって支配されていた時代だった。
ところが、それから一七四年後の明応九年(一五〇〇)、僧覚意が住職の時、下総国葛飾郡平賀村の長谷(ちょうこく)山本土寺九世日端の感化を受けて日蓮宗に改宗した。日端は、同じ山口の海潮寺を禅宗から日蓮宗に改宗せしめている。(その年代については諸説がある。別項「海潮寺」参照)明応九年は酒井定隆の改宗令(長享二年、一四八八)から一二年後になる。改宗とともに覚意は住職の地位を日端にゆずり、みずからは名を永覚院日範と改めて、日端の下で副住職になったということだ。
こうして改宗され新しい出発をした本寺は、五五年後の弘治元年(一五五五)になって、一大災害に見舞われた。それは火災にかかって、堂塔から寺宝古記類にいたるまで一切烏有に帰してしまったことである。その復興には二〇年近くを要し、天正二年(一五七四)になって、ようやく復興にこぎつけたのであるが、その翌三年北条氏政の軍が当地に侵入したため、その戦火によってふたたび潰滅したと伝えられている。しかし、その年北条軍が侵入したという古記はないから、確実性には乏しい。ただ、当時は酒井氏が里見氏と北条氏の間でトラブルを続けていたので、そのあおりを食ったということはあったかもしれない。
ともかく本寺は再三の大被害で再起不可能の状態に追い込まれたが、九世日聚の時に再建に取りかかり、一三世日相の時にほぼ旧観に復することが出来るようになったという。(年時はいずれもはっきりしない。)
現存する本堂は延享三年(一七四六)一一月二〇世住職日雄の時建てられたものといわれている。
参考資料
(一) 「寺籍」より
(明治二年八月、山口村より宮谷県へ届出)
嘉暦元(一三二六)丙寅年草創、明応九(一五〇〇)庚申年改宗、日端聖人開基
日蓮宗妙高山正法寺末
宝珠山
福相寺
無住
一 本尊 釈迦仏 妙法蓮経
一 本寺
上総国山辺郡小西村
一 境内山林除地
上総国山辺郡山口村
但、壱反六畝歩
(二) 「日蓮宗本末寺号明細帳」より
(明治三年九月、山口村より宮谷県庁へ届出)
日蓮宗一致派
上総国山辺郡小西村
本山
一 正法寺末
上総国山辺郡山口村
福相寺
但、住職無クレ之、同村海潮寺住職寿鵬兼帯罷在候。
一 境内除地反別壱反六畝歩
一 滅罪檀家三拾四軒
一 元朱印地山林等無シレ之
外
一 田畑合壱町五反八畝二拾五歩
村内御年貢地
一 田畑合四反九畝二拾二歩
御年貢地 辺田坊分
一 田合二反二畝三歩
御年貢地 一乗坊分
庵室二ケ所
但、辺田坊一乗坊年暦不詳、境内造立空庵ニテ寺持有レ之
(東金市山口区有文書)