東金市山口字正木にある。日蓮宗正法寺(小西)の末寺である。
本寺はかなり古い歴史をもつ寺院である。南北朝時代の暦応四年(一三四一、北朝年号、南朝では興国二年)足利尊氏の勢力下に、鎌倉御殿の局、一安比丘尼によって創立された。宗派は禅宗であった。そして、第二代住職の海潮安比丘尼の時に、寺号を海潮寺と名づけたと伝えられる。それなら、第一代の時には寺号が決められていなかったことになる。それとも、前にあった寺号を改称したものであるか、不明である。
ところが、本寺は当地方の寺院に多くの例が見られるように、その後、日蓮宗に改宗しているのであるが、改宗開基の僧は長谷(ちょうこく)山本土寺(下総国葛飾郡平賀村にある日蓮宗の名刹。文永七年(一二七〇)創立、開基は日朗)の九世住職の日端である。しかし、その年代については諸説があって決定しがたい。もっとも早い説が文明六年(一四七四)説、次が明応九年(一五〇〇)説、三番めが永正一一年(一五一四)説である。第一説は「山武郡寺院明細帳」の説であり、第二、三説は地元山口村文書(参考資料(一)(二))の説である。文明六年は酒井定隆の改宗令(長享二年、一四八八)より一四年前のことである。したがって、七里法華改宗とは無関係な、自発的改革ということになる。明応九年・永正一一年はいずれも改宗令後のことになり、明応九年ならば同じ山口村の福相寺(別項参照)と同時ということになる。おかしいと思うのは、明応九年説は明治二年の文書、永正一一年説は明治三年の文書に出ていることだ。一年ちがいでどうしてそんな相違となったのだろうか。明治三年の文書は明治二年の文書を訂正したものであろうか。訂正したとすれば、永正一一年説のほうが、より正しいということになろうが、といってこの説に決めてしまうわけにもゆかないだろう。以上のごとき事情で、改宗年代の決定は保留しておくより仕方がないと思われる。
参考資料
(一) 「寺籍」より
(明治二年八月、山口村より宮谷県庁へ届出)
暦応四(一三四一)辛巳草創、明応九(一五〇〇)庚申年改宗、日端聖人開基。
(二) 「日蓮宗本末寺号明細帳」より
(明治三年九月、山口村より宮谷県庁へ届出)
日蓮宗一致派
上総国山辺郡小西村
本山
一 正法寺末
上総国山辺郡山口村
海潮寺
住職
寿鵬
一 境内除地壱反五畝弐拾歩
一 滅罪檀家拾弐軒
一 元朱印地除地山林等無二御座一候
(三) 「日蓮宗本末一派寺院明細帳」より
(明治五年八月、山口村書上げ)
日蓮宗一致派
当郡小西村
本山
一 正法寺末
上総国山辺郡山口村
経王山
海潮寺
暦応四年(一三四一)辛巳九月禅曹洞宗一安尼開山、永正十一年(一五一四)甲戍三月本山二世為シテ二日端開基ト一改ム二日蓮宗ニ一。
熊本県士族田中亘之三男
熊本県管轄肥後国飽田郡熊本本妙寺日諦弟子
天保十四年(一八四三)癸卯二月於テ二同寺ニ一得度
嘉永五年(一八五二)壬子二月入寺
第三十六世
住職
寿鵬
壬申(明治五)四十二歳
当郡福俵村農小関三左衛門長男
慶応元年乙丑六月貰請育(もらいうけそだつ)
弟子
寿逞
壬申九歳
一 境内 壱反五畝二十歩 御年貢地
此高石五斗六升二合
一 檀家 三十八軒
(東金市山口区有文書)