寺伝によれば、後醍醐天皇の御宇、正中二年(一三二五)蓮秀日寿の開基と伝えられている。日寿は日蓮門下の四長老の一人、日弁(鷲山寺・上行寺の開基)の高弟で、常に師と行動を共にして、上総・常陸・奥羽方面に日蓮宗を布教し、各地に寺院を創建し、師日弁の死後、その遺命を奉じて、この地に至って妙経寺を創建、嘉暦元年(一三二六)九月一七日入寂した。(なお、右の「正中二年」開基説については異説がある。本巻「宗教篇」神社の部熊野神社(求名)の項を参照されたい。)
文禄三年(一五九四)本山鷲山寺(茂原市鷲巣)一〇世日進が、田間村(東金市田間)長久寺にあった檀林を妙経寺境内に移したが、これ以後妙経寺は日蓮宗僧侶の学校として名声を高めることとなり、ついで一三世日乾の時代に講堂と学寮が完成し、関東八檀林(上総沼田妙経寺・上総小西正法寺・上総宮谷本国寺・上総細草遠霑寺・下総飯高法輪寺・下総中村日寺・武州池上南谷院・甲州身延善学院)の一つとして数えられるにいたり、学徒僧が四方から集まり、仏教妙典の研学が盛んに行なわれ、元和年中(一六一五-二三)、二代将軍徳川秀忠が鷹狩に来た際、当寺に立ち寄り、檀林についての下問があったと伝えられ、また、寺院の境内東西七〇間、南北一二〇間を御朱印地として与えられたという。
日乾は、学徳兼備の高僧といわれ、檀林中興の祖として崇敬され、寛永一三年(一六三六)三月三日、四八歳で入寂している。
檀林の最盛時には日乾を祀る乾師堂があったということだ。
宝暦五年(一七五五)七月二四日夜大暴風雨があり、本院・本堂・講堂・乾師堂・表門・学寮等ほとんど倒潰してしまったが、檀信徒の協力によって、三〇年後の天明五年(一七八五)五月、本堂・講堂・乾師堂等が再建されたのである。しかし、慶応三年(一八六七)正月九日庫裏より出火し庫裏と番神堂を焼失するという悲運にあっている。ところで、それより前、安政年間(一八五四-一八五九)から檀林に学ぶ学徒が次第に減少しはじめ、明治を迎えるとますますその度を加え、遂に明治七年(一八七四)歴史的意義のある檀林を廃止するに至った。
大正一三年(一九二四)三月一四日午後八時庫裏が焼失、住職が焼死するという悲惨事がおこって、そのため一時四天木要行寺の住職が兼務する状況であったが、昭和三年(一九二八)庫裏を新築し、新しい住職に六五世渡辺要修上人を迎え、ようやく、寺の復興が成った。
なお、昭和五七年(一九八二)本堂と庫裏の新改築が落成した。
境内は凡そ一万五千平方メートル、本堂前にはかつて檀林があった時の垢離井の跡も残り、宝暦の暴風雨の跡も今なお窺われて昔時の面影が偲ばれる。
妙経寺本堂