本寺は酒井氏時代の文亀元年(一五〇一)五月、僧日艶(えん)によって開かれた。そして、江戸初期の慶安二年(一六四九)八月、将軍家光から寺領一五石一斗の寄進を受け、いわゆる御朱印寺となっている。ついで、享保八年(一七二三)にいたって、一二代日仙の住職の時、堂宇が再建され、日仙は中興の祖として尊ばれた。
境内は五三二五坪の広さを持ち、本堂のほか、鐘樓・開山堂・観音堂・宝庫・位牌堂などの堂宇が建ちならんでいる。また、老樹が繁茂し幽邃の趣を呈している。なお、現在の本堂は昭和四〇年(一九六五)に再建されたものであり、鐘樓は宝永三年(一七〇六)日仙によって建立されたものだが、大東亜戦争中に供出を強いられ、昭和五六年(一九八一)七月再建された。本寺には宝暦三年(一七五三)信徒らによって寄進された半鐘がある。
要本寺・本堂と鐘楼
なお、本寺は昭和四四年(一九六九)当地にあった別寺・長永山勧照寺を合併していることを留意する必要がある。すなわち、本寺の境内に「合併縁起碑」が建てられており、それには次のような由来書がしるされているのである。
勧照寺ハ文亀二年(一五〇二)二月要本寺第二祖日能上人ニヨリ当地一七四番地ニ創立サレ、長永山ト称シタ。上代片海安達ノ十数家ヲ担徒トシ、田畑二町四反十歩山林一町三反六歩、宅地百六十八坪ト二十二坪の堂宇ヲ有シテイタガ、昭和二十一年農地改革ニヨリ、田畑全部ヲ解放シ、同三十九年企業誘致ノタメ山林八反七畝十四歩ヲ売却シタ。昭和四十四年二月要本寺本堂及ビ庫裏(くり)ノ建立ヲ契機トシテ、両寺ノ合併が具体化シ、四十六年三月二十三日要本寺トシテ認可サレ、宿願達成シタ。
昭和四十六年三月二十三日建之