東金市北幸谷にある。顕本法華宗に属し、戦国末期の天正一八年(一五九〇)僧日暁の開基といわれる。
この寺に詣ると、何となく静閑でみやびやかな感じに打たれる。本堂にいたる右側に墓石が並立しているが、それらの中に、碑表には戒名がしるされているけれども、碑陰には俳句などが刻まれているのが数基ある。その一つを見ると、碑表に「当山二十四世 霊松院元統日甘」とあり、碑陰に
おもふ事忘れて
居れば秋の風 三化
文政二年
己卯(きぼう)四月七日
とある。つまり、本寺の二四世住職日甘は三化という号をもつ俳人で、文政二年(一八一九)四月七日死去し、生前の作句「おもふ事」がここに刻まれたのである。
ところで、この僧日甘俳号三化という人は、吉井永氏の調査によると、江戸中期の俳人の石河積翠(いしこせきすい)(名は貞義、通称は右膳)弟の子で、積翠が文化一〇年(一八一三)に刊行した「野ざらし紀行翠園抄」(松尾芭蕉の紀行文「野ざらし紀行」の注釈書)に序文を書いているのである。積翠は大身の旗本(食禄四千五百石)であったが、二世天野桃隣に師事した人である。右の書は江戸時代の俳諧注釈書中の白眉といわれたもので、夏目成美が序を書き二世桃隣が跋を書いている。その中にまじって三化が序文を記しているのは、彼の地位も軽いものではなかったことが知れる。
さて、三化の序文を左に示そう。
「……(前略)石河何がし積翠居士世にいまそがりし(ご在世の)をりをり、このみちにこころあるわが友どちの手引の糸のいと口ともならば幸せとて、ここかしこ註し給へる反古(ほご)あり。もとより功者の手にふるべきにはあらねど、月草の(枕詞)うつれるにつけて、しみの巣となしてはてむも本意なくはべれば、あらがねのつちさす錐をまじへ、野ざらし紀行翠園抄と名づけて梓行の沙汰に及ぶ。時も今、文化十年秋八月風のこゑそぞろさぶげなる日、飄乞士(ひょうきつし)三化自序す。」(千葉県図書館本による)
積翠は享和三年(一八〇三)七月四日、六六歳で没している。それから一〇年後の文化一〇年(一八一三)この序文が書かれているわけになる。すなわち、この書は積翠の死後、門弟・知友の世話で出版されたのであり、三化も応分の力をそえたのである。彼は「飄乞士(ひょうきつし)三化」と署名しているが、「乞士」とは僧侶のことである。「野ざらし紀行翠園抄」の序文を書いた三化は、本寺二四世の日甘と同一人と考えていいと思うが、彼の経歴は今のところほとんど不明である。今後のアプローチに期待したい。
次は、碑表の中央に「葛飾可都良叟(かつらそう)墓」としるし、その左右に
世の中は左(さ)も
むつかしや
千鳥啼(く)
と刻まれ、碑陰には漢文で左のような経歴が書かれているものである。
叟(そう)、性ハ松沢、字(あざな)ハ蕃輔、可都良ト号ス。北総葛飾郡鬼越村ノ人ナリ。少(わか)クシテ俳諧ヲ好ミ、長ジテ四方ニ漫遊ス。覃(ふか)ク其ノ道ヲ思ヒ、風花雪月ヲ朋友トナシ、山水蟲魚ヲ同好トナス。物ニ触レ事ニ感ジ、尽発ノ詞能ク人ヲシテ感嘆セシム。能ク芭蕉・其角ノ道ヲ継グト謂(い)フベキカ。叟、天性寡欲ニシテ平居沈黙、未ダ嘗ツテ居家ヲ有セズ。晩年倦遊(けんゆう)シ、蹤(あと)ヲ南総海浜ニ息(やす)メ、文政七月季冬(十二月)九日ヲ以テ、疾(や)ンデ北幸谷善導寺ニ死ス。享年五十。同志相会シテ寺中ニ葬リ、銘ニ代フルニ其ノ詞ヲ以テス。
文政丙戍(九年)霜月(十一月) 斎藤長固建之
これによると、可都良は葛飾郡鬼越村(市川市鬼越)の人で本名を松沢蕃輔と称したが、俳諧の道に入り四方を放浪していたが、晩年北幸谷に来遊し、善導寺に厄介になっていて、文政七年(一八二四)五〇歳で死んだという。俳諧上の系統も不明で、独身で終わった人らしい。彼がいつ北幸谷へ来たか、右の文には書いてないが、筆者が想像するに、三化との関係があるのではないか。三化は文政二年に死んでいるが、その年齢も分からないけれども、可都良のほうが若かったと考えられる。そして、両者は師弟関係があったかもしれない。可都良は三化の生前に北幸谷に来て、三化の死後も善導寺に止まり、何人かの弟子知友をもっていたのであろう。そのうちの一人で土地の有力者だった斎藤長国という人が金を出してこの碑を建てたものと思われる。
もう一つ、「当山三十三世 紫光院顕孝日胤徳位 慶応三年丁卯三月二日化」と碑表にしるされ、碑陰には
知一
咲(け)ばちるものと
おもへど花に風
報立
と刻まれている。しかし、「知一」「報立」というのが、名号であるか何であるか、判断ができない。「咲けば」の句は日胤の句にちがいなかろう。この人は慶応三年(一八六七)に死んだというが、三化や可都良からかなり後の人であるから、交渉はなかったと思われる。
以上、三人の句碑を紹介したが、三人の句そのものは典型的な俗調にすぎない。ただ、この寺に俳諧の雰囲気があって、他の寺とはひと味ちがった文化的な匂いがあったことを注意したいのである。