当時駿河国大石寺(日蓮正宗)に、仏教研学中の僧日因は、このことを聞き、翌九年(一七二三)三月、密かにこの地を訪れ、現地の状況をつぶさに調査した結果、この事業の成功を確信し、いくばくもなく荒野は沃野と変り、その周辺には人家が密集し、豊かな村落が形成されて、五穀豊穣の浄土出現は必定と予見し、ここに精舎を建立し、妙法弘布の本願を発起して、その協力者を求めたのである。
時に南塚崎(東金市広瀬)の南、中村(東金市西中)に宮山善兵衛なる豪農があり、その先祖は千葉氏の一族で小田原北条氏に所属し、種々尽瘁するところがあったが、天正一八年(一五九〇)その滅亡後は上総中村に来って帰農した。彼は幸いに日蓮宗の信者で道心堅固な人物の協力を得、いわゆる宮山抱(かかえ)として庵居することを許されたのである。
このことは直ちに本山に達せられ、貫主日寛は大いに悦び、庵地千五百坪の地代の支払いを約し、日因には堅樹院覚応坊の尊号が与えられることになったのである。かくして南塚崎における庵居は許されたものの、堂宇建立については、その後八方手を尽しての運動も実らず、依然として許可ないまま、享保一三年(一七二七)春、武州久米原村妙本寺の末寺で、廃寺同然の後生山本城寺を、上総のこの地に移そうとして、一村一寺の本願をその筋(寺社奉行所)に提出したところ、一〇月一九日上意に依り免許されたのである。
これに依り本寺は、本山大石寺の真末となり、日寛を開基とし、日因これに継ぎ、さらに日英・日顕・日荘・日辰の諸僧が相続して、今日にいたっている。
なお、宮山氏は日因を助け、特に公辺をよく調え、宮山の庵一万八千坪の境内を所有している。宮山氏は外護の檀那として本寺の発展に尽しているのである。
本城寺山門