帝立(ていりゅう)山妙善寺(御門)

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 東金市御門三五八番地にあって、顕本法華宗に属し、檀家の範囲は極めて広く、地元豊成地区の一部、正気地区の大部を含め、遠く九十九里町の海辺部落にまで及び、昔ながらの大寺のおもかげを偲ばせている。
 本寺創建の年時は、天明・慶応二度の火災により、旧記が焼失したため明らかでないが、口碑に依れば、天慶元年(九三八)四月、平将門がその慈母桔梗前※の菩提を弔うため真言宗の一刹を建立し、京より貞観法師を迎えて開基としたと伝えられている。
 長享二年(一四八八)五月、上総国土気城主酒井定隆の改宗令により、明応元年(一四九二)二月(「上総国山武郡寺院明細帳」では一〇月とある)東金本漸寺から日恵を迎え顕本法華宗に改宗し、日恵を以って当山の開基としている。この改宗の年代を「山武地方誌」(六〇〇頁)は長享元年(一四八七)としている。
 天正一八年(一五九〇)八月、徳川家康関東入国以来徳川幕府の庇護政策の下、万治三年(一六六〇)六月には、四代将軍家綱から寺領五石の御朱印状を賜わっている。この寺領下賜の年時を「山武地方誌」(六〇〇頁)は家康から天正一九年(一五九一)一一月に下賜されたとしている。
 その当時は寺運の全盛期で、山門の両側には三坊あて六坊が並らび、さらに門外に一坊、別に粟生村と西野に出坊が各一つずつあって、山門には宏壮優美な庫裏宮客殿が建ち、山門・鐘樓・本堂の正面には、菊の紋章が燦然と輝いていたという。
 しかし、天明六年(一七八六)八月、突如火災を起し本堂を焼失したが、檀信徒の協力を得、同年一〇月再建に着手、一〇年の歳月を費し、寛政八年(一七九六)九月本堂等の竣工を見た。庫裏は間口七間・奥行六間・玄関・書院とも立派なものだったという。それから七〇年後の慶応元年(一八六五)九月、ふたたび災禍に見舞われ、山内東士(とし)河坊から出火し、庫裏・鐘樓その他保管書類等一切が烏有(うゆう)に帰した。特に「房総風土記」「東金領明細記」「七里法華由来記」「御朱印状」等の貴重な文化資料と目すべき物件が多々あったことは残念の至りであった。その際、一人の僧が猛火をくぐって重要な什物の救出につとめたが、遂に果さずして焼死してしまったという悲劇もあった。
 かかる災禍の直後明治元年(一八六八)を迎え、大政官布告による神仏分離・廃仏毀釈は、寺運の衰退に一層の拍車をかけ、一時は無住の状態に陥ったが、幸い役員檀信徒の協力と喜捨によって明治一一年(一八七八)本堂の改修も成り、翌一二年鐘樓を新築することも出来た。

妙善寺本堂

 爾後(じご)当山の復興も明治・大正・昭和前期を通じて徐々にではあるが、進められ、ようやく旧態に復することが出来、昭和三七年(一九六二)第四二世俊義を迎え、寺檀一体の実が大いに挙って現在に至っている。
 なお、妙善寺の周辺には将門伝説に因む神社(厳島神社・将門稲荷)千本杉・三枚橋・祭塚・御大日等の建物・物件があることを書き添えておく。
 ※桔梗の前は将門の母ではなく、妾であったというのが通説である。なお、将門はこの地で生まれ、この地で死んだという伝説が残っている。また、妙善寺の山号「帝立山」は将門が桓武天皇五代の孫ということからこの名がつけられたともいわれる。
 
 参考資料
 古老の口碑・僧侶の余語を按ずるに、天慶年中の設立と思はる。俗伝に、平将門相馬の里に拠り帝位を僣(せん)号せし時、その出生の地なるをもって、茲に一刹を設け、名づけて帝立山と称し、当時真言宗なり、と。蓋(けだ)し、平氏高望以来上総の守介たること多く国史に見ゆ。将門の父良将も亦た当国に守主たり。この時この地に将門を生むが、或は帝立山の号、土人愚にして将門を真帝と認め、斯く名づけしものか。
     (「上総国山武郡寺院明細帳」(明治一二年千葉県編))